032 教え上手な担任教師と
疑り深い親友と恋人になってみたところで、ひとまず朝から続くリルカラッシュは途切れる。
不良にマーキングされ図書委員を鳴かし親友と恋人になるというかなり濃い一日を過ごしたおかげでけっこうな疲労感があった。
今日はさっさと帰ってのんびりしようかなと、そんなことを考えていたんだけど、今思えばそれは現実逃避だったんだろう。
放課後。
当然のように、私は先生に呼び出されていた。
腕を組んでとんとん指で二の腕を叩く先生は、地球温暖化を解消できそうなくらいに冷ややかな視線で私を見ている。
おかしいなあ。
冷房効いていないのに寒い。
「―――先に断っておくが、私はとくに顧問を持っていない」
=最終下校までみっちりやる。
さすが先生は数学の先生なだけあって大事なことを最初に言ってくれる。
つまり、私は死ぬと。
「まずは貴様の罪状について確認する」
「あ、あの、いつもとなんか違う気がするんですけど」
へらっ、と笑う。
……だめだ、表情ひとつ変えないしなにも言ってくれない。
え、あれ。
こんな怖かったっけ、先生って。
戦々恐々する私へと、先生は淡々と告げる。
「まず発端からだ。一昨日の夜。貴様が居酒屋から女と出てきたというタレコミがあった。相違ないか」
「ぉん……えと、はい」
やっぱりあれが発端らしい。
にしても言い方がこう、なんか、なんだろう、不倫を咎められているような気分。
これが既婚者の迫力というやつなんだろうか。
「次に今朝。私が他の教師たちを懸命に言い包めてやっている最中、貴様が大神とふたりで近隣の公園の公衆トイレに駆け込むのを見たという証言がある。そしてその肩に歯形ができているという証言もだ。相違ないか」
「おお゛っ、あの、かばっていただいてありがとうございま「相違ないか」はひゃい……」
どうしよう。
この。
え。
死刑かな?
なんか、あっ、死んだほうがいいな私。
「次いで昼放課だ。隣のクラスに小野寺燈易という女子生徒がいるな?腰砕けになった彼女と無人のはずの更衣室から出てきたという証言が多数ある。ちなみに彼女のクラスの生徒からは視姦されたという報告があるが、これは参考といった程度だな。相違ないか」
「はい……なんかもう、あの、はい……」
昼放課っていう言い方からして愛知とかかなぁ……なんてさ。
現実逃避もできやしない。
壁とか障子どころか空気さえ五感を持っていそうなレベルで全部知られてる。
いやまあ彼女の件は目立つだろうけども。それにしてもね。
というか視姦って。
買ってやろうかこのやろう。
「そして今日の件の最後……かどうかは怪しいが、同じく昼放課。同じクラスの仲良愛と授業をさぼってどこかへ消えていたと。うわさの中にはホテル、保健室、屋上、トイレ、校舎裏などあったが、私が見たときには校舎裏でよろしくやっていたようだな。相違ないか」
「……………………み、みた、?」
「行方不明の生徒を担任として気にかけるのは当然のことだろう。で、相違ないのか」
「はい、ですけど、えっ、み、え、……え」
思考がまともに働かない。
赤くなればいいのか青ざめればいいのかもわからないけど、先生に見られていたのだと思うとなにかとてつもなくショックだった。
先生にもまったく気にしたようすがないっていうのも、なにか、とても辛い。
ぎゅっと手を握り締めて俯く私の耳に、先生の嘆息が飛び込んでくる。
なにかをしなくちゃいけないと思う。
でもここでリルカを差し出したら本当に見切りをつけられてしまいそうで。
「本当にお前は、私があれだけ指導してやったというのに。分からんやつだな」
先生が立ち上がる音がする。
ハッとして見上げると、彼女はネクタイを緩めながらこっち側に回って、テーブルにダンッ!と勢いよく手をつく。
びくつく私をぐぃと覗き込む先生の、いつにもまして鋭い眼光が視神経を焼き尽くしていく。
硬直していると、先生の手が私をまさぐる。
「んっ」
という間くらいはあったけど、あっさりリルカが取り上げられる。
それをぽいとテーブルに投げ置いた先生は、その手で私の頬に触れる。
つんと指輪の感触が冷ややかで、なにか胸が騒ぐ。
「補習が必要だな」
「……えっ」
「思うに、お前に優位があったというのが問題なのだ。だから私の指導は届かんのだろう?なあ島波よ」
「え、と」
かつて先生と向き合って私に優位があったことがあっただろうかいやない。
そんな状況下でリルカさえ奪い取られて、で、補習、?
……うーん。
なにかこう、嫌な予感がふつふつと。
おかしい。
ついさっきまで先生に見捨てられるかもとかなんかそういうことを考えていたのに、今は先生が目の前にいることに危機感とちょっぴりの興奮を覚えている。
え。
あれ、これってマズいのでは?
「お前、今、この私がお前を見捨てるのではないかなどと危惧しただろう」
「ひぇっ」
見透かされている。
ごくりと唾を飲み込む私に、先生の顔が近づく。
これはいつものやつだ。
からかわれているだけで、すれ違うやつ。
そう思う私の心臓は痛いほど弾んで、そして―――
ちゅ。
と。
先生のくちづけが。
彼女の親指を挟んで、触れる。
先生の指の向こうに、先生の唇がある。
呼吸とか心臓とかは全部止まっていて、先生のキレイな唇に視線が強奪される。
あ。
と思う間もなく、先生の顔は離れていく。
私の唇を拭うようにして離れた親指の腹を無情にもティッシュで拭かれる。
それを追う視線に気がついた先生は、それはもう意地悪にニヤリと笑う。
「なんだ。ずいぶんと幼稚なやつだな」
そう言った先生は自分の親指にくちづけて、また頬に触れる。
そしてその親指でゆっくりふにふにと唇をなぞって、くち、と、その熱く濡れた割れ目にまで侵入してくる。
「こんなものでいいのならいくらでもやろう」
ぐい、と押し付けられるから、私は口を開いてその親指を受け入れた。
親指は唇の裏をずゅぷとなぞってみたり、歯をくくいと押したり、頬を内側からこすったり、舌を虐めたり、好き放題に私の口内を蹂躙していく。
「はっ、はっ、れぉ、ぅ、ふっ、んはっ」
「まったく、この程度で蕩けるとは。お前はこれまでどんな勉強をしてきたのだ。先生は情けないぞ、なあ島波」
「ごめ、にゃ、ひゃ」
水音に溶ける謝罪の言葉。
先生はぐっと舌を下顎に押し付けて、えずく私に頬をひしゃげさせた。
「だがなぁ島波。私はな。お前のように教え甲斐のある生徒は好きだぞ」
ぐにぐにと舌を弄ばれて、生理的になのか、それとも心理的になのか、とろとろと涙があふれてくる。口周りを濡らす唾液と混ざって顎を滴る軌跡が熱くて、まるでマグマのようだった。
「案ずるな島波。お前がどんなことをしようとだ。お前がマトモになるまで―――この私が、たっぷりと指導してやる」
「ひゃい、ひぇんひぇ、ひへ、おひえへ、ひりょうひれ、」
はしたなくおねだりしながら、必死に伸ばしていた指先に突っかかったなにかを引き寄せる。
それがリルカであるという意識はなかった。ただ、このままされるがままではいけないという本能による必死の行為だった。
先生はリルカに見向きもせず、顔を離して親指を拭う。
そして先生は。
その薬指に煌めく契りを。
まるで引きちぎるように。
見せつけながら、指から抜き去った。
指に残る痕。
見惚れる私の胸ポケットに、先生を縛っていたはずの金属が落ちる。
そして先生はリルカにスマホを重ねた。
私を見下ろしながら、先生は見下すように腕を組む。
先生の意向に背いた私を咎めるような視線。
ぞくぞくと身体が震える。
今から私はなにをさせられるのかという期待が胸を灰に尽くした。
先生はそんな私をしばらく見つめ、それから口を開く。
「―――やはり指導というのは、お前の実力を知ったうえで行わねばならん」
「は、はい」
「ゆえに、今日シたことを改めて確認してやる」
「え、っと、それは、どういう」
「まずは大神の件だ。ほらどうした。右肩だな?はだけて見せてみろ」
私の質問を押し流して命令される。
ドキドキしながら言われた通りに肩を見せれば、先生はずいと顔を近づける。
「ふむ。相当の力で噛みつかれたようだ。内出血になっているぞ。痛かろうに」
そう言いながら、先生は指先で歯形をなぞる。
くるりと一回りすると、今度は、優しくくちづけが触れる。
甘く心地よい感触に背筋が反って、指先まで張り詰める。
「これみよがしに痕をつけるのも悪くはないが、それだけではやや表面的にすぎる」
ちゅ、ちゅ、と何度も触れ、ときおりは舌先でくすぐりながら、先生はまるでそれが呼吸であるかのように平然と言葉を繰り出す。
「やるのなら、見えない場所のほうがいいだろう。他人から見えては誰も近づかん。場合によってはむしろ煽るだけだ。ふふ。お前は愛らしい子だからな。独占したくなるのも分かるが……」
「くっ、ぅ、」
とつぜん愛らしいなんて言われて身体がもっと熱くなる。
気がつけば先生の鼻先が首筋に触れて、痕に残るはずもない優しさであまがみされる。
「……そうではなく、当人だけにしか分からない場所に刻む方がいい。そうすれば、ただの友人だろうと、それともお前を欲するライバルだろうと、会話の隙間、触れ合いのさなかに、お前は意識せざるを得ない。それが重要なのだ。誰と話していても、お前は痕をつけた人間のことを考えなければならない。心に痕をつけるのだ。そうだな例えば―――」
先生の手が、そっと私の胸に触れる。
カップを包んで、ぐ、と持ち上げられると聞かれたくない声が上がりそうになって、とっさに指を噛む。
じろじろと見つめられているのが分かるけど、とても先生の顔なんて見れない。
「ふっ。まあ、場所はつける者の好みだ。お前はただ受け入れる他にない。その点で、人目に付きやすい肩への痕でも受け入れたお前は及第点だ」
そっと先生が離れていく。
ぜぇぜぇと呼吸を落ち着ける私に、先生は容赦なく次を求める。
「さて次だが。更衣室でいったいなにをしていたのか教えてみろ」
「こ、更衣室で、って……」
思い出せば思い出すほど実質ヤバいことだったのではと思えてくる。
それでも先生の視線に抗うことはできなくて、私は先生に更衣室での出来事を記憶の限り教えた。
「―――ふむ。なかなか面白い癖だ」
「冷静に考察されると恥ずかしいんですけど……」
「だが島波。気持ちを伝えるだけではいささか芸がなかろう」
「え」
そう言った先生の吐息が次の瞬間には耳元に触れている。
「好き。愛している。どちらもきれいな言葉だが、あまり並べ立てるとどこか安い。例えば、好きだからしたいこと、愛しているからしたいこと、そんなことをささやいてやるのもいいとは思わないか」
「と、というと?」
そんなふうに問いかければどうなるかは火を見るよりも明らかだった。
そう思っていたのに、返ってきたのは馬鹿にしたような笑い声だった。
「くはっ。おいおい島波。好きだから、愛しているから、と言っただろう。それでどうして、私がお前に言葉をくれねばらなんのだ」
「ぁ……」
ぐうの音も出ない正論。
照れて笑おうとして喉が詰まる。
思考がまっさらになって。
「島波。お前の―――を―――で―――してやりたい」
「おぷっ」
その隙にぶち込まれた先生のちょっと研ぎ澄まされすぎた一撃。
込み上げた熱量に頭が弾け飛びそうになる。
彼女もいたことないやや耳年増なだけの処女にはインパクトが凄まじすぎる。
言った本人はなにごともなく私を見下ろしてるし。
……いやでも、涼しい顔してあんなこと思ってるんだ……やっ、まあ、デモンストレーション……うゔぅ……。
「どうだ。感情の言葉よりも具体的にイメージできる分、良いだろう」
「……こ、これをいいと表現するのは乙女としてどうかと思います」
「嫌いか」
「……………………ゃ、その、…………ぃぃぇ」
さんざん言い淀んだあげく素直に言うと、先生はよくできましたとでも言いたげに優しく頭をなでてくれる。
ズルい。
こんなの、だって、卑怯だ。
むぐぐ、と唸る私をからから笑って、先生はさっさと次に行く。
「それで最後、か」
「はい。……ッ!」
先生の視線が唇に向いているのに気がついて身が竦む。
そうだ。
先生は彼女とのやり取りを見ていた。
どこからどこまでかは分からないけど、もし、もしキスするところだけ目撃していたのなら―――
「ふむ。先ほどは見たと言ったが、見間違いかもしれんからな。―――なにをしていたか、お前の口から言え。島波」
「ぐっ、ぅ、」
私の口から。
なにをしていたのか。
それはつまり、そういうことだろう。
間違いなく先生はキスシーンを見ている。
そしてそれを私が察したことを見抜いている。
その上でのこの問いだ。
胸ポケットの金属がひやりと重い。
先生が指輪を外したのはこの伏線なのだと唐突に理解する。
その重さが、普段は先生が既婚者であることを強調するはずのものが、今は、私の胸ポケットで背を押している。
「……き、すを」
からからに乾いた口から、剥き出しの欲望が飛び出していく。
「キス、を、し、してま、した。舌も、舌も入れて、いっぱい、」
こんなことを言うはずじゃないのに。
誘うような先生の視線と、金属製の背徳感が、強引に私の舌を動かす。
自分でそんなことを言っているという事実が、どこか夢のように遠い。
先生はそれを受け止め、三日月のように頬を吊り上げる。
先生の顔が間近まで近づく。
見透かすような視線。
「―――お前は嘘が下手だな」
ささやかに触れる唇。
先生のくちづけには舌先がしびれるような苦みがあって。
呆然と見上げる先生は、出来の悪い生徒を見るような、呆れた笑みを浮かべていて。
「お前は、本当に教え甲斐があるらしい」
ぽんぽんと頭をなでられる。
恥ずかしいやら悲しいやら悔しいやら嬉しいやら愛おしいやらいろいろな気持ちで俯く私に。
「しっかりとできるようになるまで、ご褒美はお預けだ」
しっかりと。
いったいなにをできるようになるまでなのか。
それはまったく分からなかったけど。
とりあえずなんでもいいから頑張ろうと、私はそんな気分になった。
まったく、生徒を乗せるのが上手い先生だ。
「ところで、ああいうことをするのならもう少し洒落た下着を着たほうがいいと思うぞ」
「めっちゃ見てる……?」




