第1部 (11)
私が一人の人間に私の〈汝〉として向かい合って立ち、根源語〈我‐汝〉を語るならば、その人は諸事物の中の事物ではなく、諸事物から成っているのでもない。
その人は他の〈彼〉や〈彼女〉と境をなす〈彼〉または〈彼女〉ではない。空間や時間からなる世界の網の中に取り入れられた点ではなく、経験や記述が可能な性質の一つでもなく、諸特性と命名された緩んだ束でもない。そうではなくその人は隣りも継ぎ目ももたない〈汝〉であり、天緯を満たしている。その人の他に何も存しないわけではないが、他のすべては〈その人の〉光の中で生きるのである。
メロディーが諸音から構成されるのでないように、詩句は諸単語から、彫像は諸線から構成されるのではない。人がそれを無理やり引き裂けば、統一性を雑多性へと変容させてしまうに違いない。私が〈汝〉と呼ぶ人間もそうである。私はその人の髪の色とか話し方、あるいは善意の在り方をその人から取り出すことができるし、繰り返しそうせざるを得ないが、すでにその人はもはや〈汝〉ではない。
そして時間の中に祈りがあるのではなく祈りの中に時間があるように、空間の中に犠牲があるのではなく犠牲の中に空間がある。その関係を逆にする者は、現実を破棄することになる。それゆえ私が〈汝〉と呼ぶ人間を、あるとき及びあるところで見出すのではない。私はその人をその中に据え置くことができるし、繰り返しそうせざるを得ないが、それは一人の〈彼〉または〈彼女〉または〈其〉にすぎず、もはや私の〈汝〉ではない。
〈汝〉の天が私の上に広がっている限り、因果律の風は私のかかとにうずくまり、宿命の渦は凝固する。
私が〈汝〉と呼ぶ人間を、私は経験するのではない。そうではなく私はその人との関係の中に、聖なる根源語の中に立つのである。私がそこから移動するとき初めて、私はその人を再び経験するのである。経験とは〈汝から遠ざかること〉である。
私が〈汝〉と呼ぶ人間がその人の経験の中にいてその呼びかけを聞きとることがないとしても、関係は成立し得る。何故なら〈汝〉は〈其〉が知っているより以上のものだからである。〈汝〉は〈其〉が知っているより多くのことをなし、〈其〉が知っているより多くのことが〈汝〉に生起するのである。ここへは誤魔化しが届かない。ここには現実の生の揺籃が存するのである。