第1部 (12)(13)
(12)
一人の人間に形体が向き合い、人間を通して作品になろうとすることは、芸術の永遠の源泉である。それは人間の魂の産物ではなく、形体に訪れる、作用する力が形体から要求してくる出来事である。それは人間の本質行為によるものである。人間がそれを遂行し、その本性をもって出現してくる形体に根源語を語るなら、作用する力がほとばしって作品が発生するのでる。
行為は犠牲と冒険を含む。犠牲とは、形体の祭壇に捧げられる無限の可能性である。戯れてまったくまだ視点が定まらなかった全てのものは消滅させられるに違いなく、そのことで作品の中に達することが許されるものは何もない。こうして犠牲は向かい合うものの独占を求める。冒険とは、根源語が存在者のすべてをもってのみ語られ得ることである。自己を捧げる者は、何も差し控えることを自身に許されてはいない。そして作品は、樹木や人間のように、私が緊張解除をして〈其〉の世界に立ち寄ることを許容せず、それどころか私が作品に正しく奉仕しなければ、作品を壊してしまうか、あるいは作品が私を壊してしまうかするほどに荒れ狂うのである。
私に立ち向かう形体を、私は経験することも記述することもできない。その形体を実現することができるのみである。それでも私は、形体が向かい合うものの輝きの中できらめいているのを、経験的世界の全ての明晰さよりも明晰に見て取る。それは〈内的〉諸事物に属する一事物としてではなく、〈空想〉の一産物としてでもなく、現存するものとしてである。客観性を主眼として吟味すれば、形体は〈そこ〉には全く存しない。しかし形体より現存的なものがあろうか? つまり真の関係とは、私が形体に向かって立っていること、私が形体に作用するように、形体が私に作用することにある。
創作することは汲み出すことであり、案出することは見出すことである。形体化とは発見である。実現することにより、私は明らかにする。私は形体を向こう側に、〈其〉の世界に連れて行く。創作された作品は、経験可能で記述可能な諸特性の総体として、諸事物の中の一事物となる。しかし眼力のある鑑賞者には、その作品はいくたびも〈汝〉が顕現したものとして立ち向かってくるのである。
(13)
―それでは人は、〈汝〉について何を経験するか?
―何も経験しない。何故なら人は〈汝〉を経験するのではではないから。
―それでは人は、〈汝〉について何を知るか?
―全体的なものだけを知る。何故なら人は〈汝〉について、それより個別的なものは何も知ることはないから。




