第八話:統計によれば、ハクスラとトレハンの区別がつかない者の割合は……-2
トラップ……あっ、一万円!
洞窟にはだいたい、そこを訪れる者が「だいたい洞窟にはこんな魔物が出るだろうな~」と思った魔物が出るものだ。自然はあらゆる事物の鏡だとはよくいったものである(だれが?)。
ムライとマリアの両者ともども、べつだん特定の魔物の姿を思い浮かべてこの洞窟へ突入したわけではなかった。そういうわけで、この洞窟にはまったく魔物が出現しなかったのである。
「えっ、それはおかしいだろ」
ムライは疑わしげな声を出す。
「洞窟だぞ、天下のダンジョンだぞ。なにもエネミーが出ないわけないだろが」
「でもなにも出ませんよ……そのほうがありがたいですけど」
とマリア。
「そうだな、べつに経験値とかいう概念なんてないし……だが、それはそれで困らないか?」
ムライは心配そうに、
「なにも起こらないと、退屈じゃないか?」
その心配は杞憂であった。
「ん? ……あああ!」
土気湿り気の空気をカッ飛び、前方からムライに向かいて五本の矢が飛来した!
こういう場合、たいていの主人公なら危なげな動作であるにしろ、しっかり回避するものだろう。しかし、このムライは日頃から教会で寝てばかりいた。よっぽどの、というのはこれ以上じっとしていたら血管に血栓が完成するという状況下にでも置かれぬ限り、決して外出しようとはしなかったのである。
というわけで、彼は極めて重症の、もはや末期的ともいえる運動不足であった。それほどまでに体を動かしていない彼だから、いきなり自分へ「すみませんちょっと死んでいただけませんか悪いですねごめんなさい」てな感じに飛んできた矢を避けろ! なあんていわれたって、できるわけがないのである。
だから――
「きゃームライさん!」
あと数秒でムライが穴開きムライへ進化(退化という説あり)してしまうさまを想像し、それはちょっと自分のような少女が見るにはセンシティブすぎると考えたマリアは、その未来を回避すべく「どん」とムライを強く押した。もうちょっと他に助かる可能性の高い行動があったかもしれないが、まあマリアもそこまで特殊な少女というわけでもなかったので、こんなごくごく短い時間で的確な判断を下せなんて要求は残酷そのものであり、だからこれで勘弁してねって感じの「どん」。
ただ、それは確かに「やらないよりはマシ」級の価値は持っていた選択であった。
「あり?」
前方からは矢じりが襲ってくるし、後ろからは突き飛ばされるしで、ムライの感覚はひどく混乱した。あんまり混乱したものだから、彼の脳内の神経回路が大混雑し、ところどころ玉突き事故が起こった。泣いている子供もいるし、漏らした大人もいた。混迷の極み。そこへ上空からヘリコプターがやってきて、クランケを病院へと輸送しよう……ただしひとり十万で。などといったものだから、おいお前創傷重症軽症骨折の弱者から金を取るのかこの亡者め我利我利の、と怒れる暴徒と化した事故被害者たちが自分のケガも忘れてバールを手にして暴動を起こし、ああン千万のヘリコプタアアァ!
その混沌っぷりをそのまま筋肉に伝送したものだから、今度は筋組織で大事故が起こった。するともうやってられないと思ったのか、心臓がついに止まってしまった。すると当然、ムライの意識もトんだ。バタリと。地に倒れ伏し矢を回避。やったね。
「……さん」
だれかの声が聞こえる……
「ムライさん!」
「あ?」
鬼すら下半身丸出しで逃げ出しそうな形相で、神父は目覚めた。
どっかでとっくに述べたごとく、ムライの寝起きは極めて悪いのだ。
□ □ □ □ □ □ □
「どーなってんだよこの洞窟!」
ムライは悪態をついていた。ここ十分はずっとそうだった。
「トラップばっかりじゃねえか!」
とくになんのアイテムも落ちていないダンジョンにしては、不相応なほどに数多くの罠が仕掛けられていた。天然色の地面に偽装した落とし穴といった巧妙なものもあれば、壁からコショウが吹き出してくるなど、ただのイヤガラセとしか思えないものまであった。よりどりみどりだ。その言葉から連想される楽しさはなかったが。
「ごとん」
「あれ、いまなにか言ったか?」
ムライが訊ねた。
「いえ……なにも」
マリアが答える。
「でも、『ごとん』ってさ」
「ええ、わたしにも聞こえました」
「だれが言ったんだろう」
「……ムライさん」
「なに?」
「前」
前? と首をかしげて前を見るムライ、大岩と対面。
「ぎ」
ぎゃっ! と言おうしたのだが、その前にペタリと潰されてしまった。著作権切れアニメーション的表現で、ペラペラになって宙を舞うムライ。
「擬音とセリフでカギカッコの形が同じなんだものな」
フェルマータの声色で供述するムライ。
「見分けがつきません」
□ □ □ □ □ □ □
ひたすら土色のフロアを降り降り、とうとう底についたかと思われた。幾百の罠をくぐり抜けたか、またくぐり抜けるのに失敗したか、ふたりにはもうわからなくなっていた。これまでに発見したアイテムも魔物もひとつとしてなく、もはやなんのためにこのトラップダンジョンへ潜航していくのか、自分自身にも説明することはできないのだった。
「あー……」
もはや悪態をつく気力すら尽きたかと見えるムライ。じっさい尽きていた。
「ほら、底につきましたよ、ここが終着点です!」
「なんでそんなに嬉しそうなんだよ……マリア……」
ムライは息も絶え絶えにつぶやいた。
「だってこれで帰れるじゃありませんか」
「まあそうだな」
「お前らはだれだ?」
「知らないのか? さては正気だなおまえ、おれの名前を知っているのはおれと同じくらい頭のおかしいやつばかり……って」
ここでムライは新キャラクターの登場に気がついた。
「ぬるりと出たな」
洞窟の底、壁に一定の間隔をあけて連綿とくくられていた燭台の最後のひとつがそこにはあり、それはこの人物の作業を照らすために存在しているかのようだった。
そしてこの人物とは、ふたりの目の前にいる、背が低く、あごひげをたっぷりとたくわえた、洞窟に入るとこういう汚れがつくんだろうなと思われるありとあらゆる汚れが付着した、老人であった。彼はドワーフであった。
「……お? お前はあの悪名高い神父だな、神父のくせに神を信じていない」
「ああ、おれを知ってるのか」
失望したようにムライはいった。
「じゃあお前もキ印か」
「そちらのお嬢さんは知らねえな」
老人はマリアを見ていった。
「マリアです。ムライさんのところで働かせてもらっています」
「そうか。さっさとべつの仕事を見つけたほうがいいぜ」
そういうとくるりとふたりに背を向けて、老人はなにやらせわしなく手を動かし始めた。どうやらふたりが来る前から続けていたことを早くも再会したようす。
「それ、なにやってるんだ?」
普段ならば人の趣味など絶対に気にかけないムライが、このときばかりは思わず質問した。というのも、この洞窟探検をまったくの無益無意味なもので終わらせないためには、なにか少しでも、それがたとえ情報という無形のものであるにしろ、新しく入手したものを持ち帰りたかったためである。
「罠を作ってるんだ」
老人は手を止めず答えた。
「へー罠か。いいシュミ……はあ?」
ほとんど自動的に返事をしかけたムライであったが(人の趣味に文句をつけようという者はあんまりいない。たとえムライのような人間であったとしても。だからそれをしようとするやつがいるのなら、そいつはムライ未満であることになる)、聞き捨てならない単語が返答に含まれていることをギリギリで察知し、踏みとどまった。……罠? 罠だと?
「それじゃ、こ、この、この洞窟のあちこちにある罠は……」
ムライの声が震える。まあ、言うまでもないだろうが、怒りのためである。
「ああ、おれが作った」
あっけらかんと老人は答える。
「そもそもこの洞窟も、そのために作ったんだ」
「は?」
「少し前までは<コマンド>にあるおれの家のまわりに仕掛けてたんだけどな……」
老人は洞窟にいながらまるで大洋を望むかのごとく遠い目をしていった。
「近所からクレームが山ほど来てな……」
「来ないと思ったんですか?」
マリアが思わずいった。
「それで、場所を人気のないこの場所に移して、思う存分趣味に没頭できるってわけだ」
ガチャガチャカシャカシャと、なにやら複雑な機構を組み立てるような音が、老人の手元から休みなく響く。それは洞窟の壁に反響して、千匹の蜘蛛の足音のようにこだまする。
「いい老後だと思わないか?」
「思わねえよ!」
千匹の蜘蛛は死んだ。