27 片桐奈保子
珍しく母親の奈保子と星奈、二人きりの夕飯だ。兄の修一は夜勤が多くいないことも多いが、今日は父親の伸二も会社の歓迎会か何かのため遅くなるらしい。
「お母さんは座ってて」
星奈は一人で食事の支度をする。奈保子は静かに座ってパラパラと料理の本を斜め読みしながら星奈の後姿を見守った。
小気味いい包丁の規則正しい音がする。使い込まれた包丁も木のまな板も手入れがなされており使い心地も抜群だ。
星奈が働き始めてから、週に一度ほど家族のために食事を作るのだがやはりこの場所は奈保子の場所だ実感する。天板までの高さは奈保子の背丈に合わされていて低く、長時間作業し続けるには腰が痛い。
ホテルの厨房はやはり男性の職場だったのだろうか。背の高い星奈でも作業台の位置に高さを感じていた。
保育園の調理台はホテルと家の中間ぐらいだろう。それでもベストな高さというほどでもない。
高校の調理室、調理師専門学校と人よりも多く色々な場所の調理場を経験している星奈にとって作業台の高さというものが少し気になる。(自分のキッチンか)
ぼんやりと自分が自分の台所を持つことを想像した。(まだないな)
頭を振ってニンジンを刻むことに集中した。
「お待たせ」
「まあ。綺麗な色の味ご飯ね」
「うん。園児にも人気だよ。すごく食べるの。ニンジン嫌いな子でも美味しいみたい」
ほんのりオレンジ色のご飯の匂いを嗅ぎ奈保子は「ほんと匂いもわからない」と言って感心する。
「給食みたいでごめんね」
食卓には豆腐の肉団子と貝の味噌汁、キャベツとコーンのコールスローが並んだ。
「ううん。美味しそうね。丁寧に作られてて……」
目を細めて奈保子は並ばれている料理を眺める。
「食べて」
「このドレッシング、さっぱりしてて美味しいわね」
「うん。豆乳にしてある。マヨネーズじゃなくて。あっさりし過ぎてない?」
「ううん。年取ったせいもあるけどもうマヨネーズをかけて食べるのってあんまりね」
「これはね。卵アレルギーの子用に作ったマヨネーズなの。
豆乳とオリーブオイルなんだ」
「なるほどねえ。でも、かわいそうねえ。卵が食べられないなんて」
「う、ん。なんか訓練で食べられるようになることもあるみたいだけどね」
「そう。あんたたちは食べ物にアレルギーがなくて良かったわ。
お兄ちゃんは大変だったけど、星奈はなんでも食べられて元気だったからお母さん助かったわ」
「お母さんのご飯がいいものだったから元気でいられたんだよ」
「そう」
奈保子は箸を停めて、「ごめんね」と呟いた。
「え」
「あんたをあんまりかまってやれなくて。気にはもちろんしてたのよ。言い訳っぽいけど」
「お母さん……」
「今思うともっと上手いやり方があったと思うのに必死でとにかく修一をどうにかしなきゃって思ってて」
ため息混じりに話す奈保子が星奈には少し小さく見えた。
「しょうがないよ。お兄ちゃん病気だったし。でも元気になってお医者さんだよ?すごいよね。普通にでもお医者さんなんてなれないと思うのに」
「ううん。修一のことじゃなくてあなたの話。……ごめんね」
奈保子の頬に一筋の涙が伝う。
「やだっ。お母さん泣かないで」
慌ててティッシュペーパーを数枚抜き取って星奈は奈保子に渡した。
「ありがと」
「お母さん、お兄ちゃんはあたしにとっても見本なの。だから全然不満なんかないの。ちゃんとあたし、お母さんの気持ちはご飯とか洗濯ものとか掃除とかでわかってるんだから」
星奈にとって幼年期が寂しくなかったと言えば嘘になるかもしれないが不満ではなかった。毎日の身体を気遣われた食事が、兄のためのものであったとしても、星奈にも同じように愛情をこめて作られたものであるし、星奈の洋服はいつも清潔で綺麗にたたまれていた。
今ならわかる。修一の身体の変化に神経をすり減らしながらも、星奈を無視することなく心には愛情を携えていたことを。気持ちの良い寝具をひと撫でしただけで、今なら奈保子が想いがわかるのだ。
「食べて。お母さん。あたし、お母さんが大好きだよ」
「うっ、うぅ。美味しいわ。とっても優しい味がするわ。ありがとう星奈」
「ん」
星奈の視界も涙で滲んでいた。自分の料理を口に含みながら、奈保子の料理の優しい味を思う。
二人の親子の想いが口の中で溶け合ってハーモニーを織りなす。そうして二人の協奏曲が奏でられ、星奈は自分の少女時代への哀愁が、完全に消えることを感じた。これからは改めて家族と向き合うのだ。(もう子供じゃない)
これからは保護される立場ではないのだと実感する。老いて小さくなった母を星奈は守りたいと思うのだった。




