第28話 公爵様の縁談相手が、まだ諦めていませんでした
ミレイユが王都へ戻って三日後。
三枝宗一郎は、食堂の開店前から、いつもと少し違う空気を感じていた。
理由は単純である。
店の外に、見慣れない馬車が止まっていた。
しかも、普通の商人が使うような荷馬車ではない。深い緑色に塗られた箱型の車体には銀色の金具が使われ、扉には宗一郎には読めない紋章らしき意匠が彫られている。
「……高そうだな」
裏口から様子を見ていた宗一郎が呟くと、隣にいたニーナが小さく頷いた。
「貴族家の馬車ですね」
「分かるの?」
「紋章がありますから」
「俺には模様にしか見えない」
「少しずつ覚えればよいですよ」
「最近、みんなそれ言うなあ」
宗一郎は苦笑しながら前掛けを結び直した。
「どこの家?」
ニーナはもう一度馬車を見る。
「遠くてはっきりしませんけれど……たぶん南西のヴァルディエ侯爵家です」
「侯爵」
宗一郎の手が止まる。
「公爵より一つ下?」
「爵位だけで言えばそうです。ただ、大きな領地と古い家柄を持つ家です」
「うちに何の用だろう」
「三枝さんに、ではないかもしれません」
「じゃあ誰に」
「レティシア様でしょうか」
そう言われた瞬間、嫌な予感がした。
最近、自分の嫌な予感は妙によく当たる。
「今日、レティシア来る予定だっけ」
「昼過ぎにいらっしゃると仰っていました」
「なら、城へ行けばいいのに」
「それをせず、こちらへ来たということは……」
「俺がいるから?」
「可能性はあります」
「面倒な方かなあ」
「たぶん」
「否定してほしかったなあ」
扉が叩かれた。
まだ開店前である。
「どうします?」
「無視するわけにもいかないでしょ」
宗一郎は手を拭き、表へ回った。
扉を開ける。
そこに立っていたのは、三十代半ばほどに見える男だった。
宗一郎より少し背が高い。
薄い栗色の髪を整え、旅装ではあるが質の良い濃紺の上着を着ている。腰には剣があるものの、飾りではなく実際に使えそうなものだった。
顔立ちは整っている。
ただし、軽薄な印象はない。
むしろ、宗一郎が最初に感じたのは「疲れている人だな」ということだった。
「三枝宗一郎殿で間違いないか」
「はい。そうですけど」
男は一度、宗一郎を頭から足元まで見た。
失礼な値踏みというより、確認しているような目だった。
「私はエドガー・ヴァルディエ。ヴァルディエ侯爵家の次男だ」
やっぱり貴族だった。
「ええと……いらっしゃいませ?」
「食事に来たわけではない」
「ですよね」
「少し話をしたい」
「俺と?」
「ああ」
宗一郎は数秒考えた。
断ることもできる。
だが、それで問題が消えるとも思えない。
「開店までなら、少しだけ」
「助かる」
エドガーは意外なほど素直に頭を下げた。
宗一郎はそこでも少し拍子抜けした。
もっと、いかにも貴族らしく偉そうな相手が来るものだと勝手に想像していたからだ。
店内へ案内する。
ニーナが水を出そうとすると、エドガーは丁寧に礼を言った。
「ありがとう」
「いえ」
その一言にも横柄さはない。
ますます扱いに困る。
「それで、話って何でしょう」
宗一郎が向かいへ座る。
エドガーはすぐには切り出さなかった。
「率直に尋ねてよいか」
「どうぞ」
「貴殿は、アルヴェイン公爵との結婚を本気で考えているのか」
来た。
宗一郎は内心で身構えた。
「今すぐ結婚すると決めているわけではありません」
「では、求婚は断ったのか」
「断ってはいません。今は恋人として付き合っています」
「なるほど」
エドガーは少しだけ指を組み直した。
「噂どおりか」
「王都まで広がってるんです?」
「王都どころか、私の父のところまで届いた」
「早いなあ……」
「レティシア殿の婚姻は、それだけ注目される」
宗一郎は、その呼び方に少し引っかかった。
レティシア殿。
公爵閣下ではない。
昔から知っているのだろうか。
「あなたは、レティシアと知り合いなんですか」
「十年以上前から」
「やっぱり」
「父同士に交流があった。正式な縁談も、一度ではない」
宗一郎は少しだけ喉が渇いた。
「ということは」
「私も彼女へ結婚を申し込んだことがある」
はっきり言った。
「……なるほど」
「驚かないのか」
「いや、驚いてます。ただ、レティシアなら縁談くらい普通にあるだろうと思ってたので」
「何件もあった」
「でしょうね」
エドガーの表情がほんの少し崩れた。
「貴殿は妙だな」
「よく言われます」
「私が過去の求婚者だと知れば、普通はもう少し警戒する」
「してますよ」
「そうは見えない」
「警戒してるからこそ、先に話聞いてます」
宗一郎は水を一口飲んだ。
「それで、俺に何を言いに来たんです?」
エドガーは宗一郎をまっすぐ見る。
「別れろ、と言いに来たわけではない」
「……そうなんですか」
「意外そうだな」
「もっと分かりやすい展開かと思ってました」
「分かりやすい?」
「昔求婚した男が現れて、『身を引け』って言われるのかなと」
「安っぽい芝居だな」
「俺もそう思います」
エドガーは少しだけ笑った。
そこで初めて、宗一郎はこの男が思った以上に話の通じる相手だと感じた。
「では、何を」
「確認しに来た」
「何を?」
「貴殿がどこまで理解した上で、レティシア殿の隣にいるのかを」
宗一郎は黙った。
「彼女は一人の女性であると同時に、アルヴェイン公爵家の当主だ。北部の兵、街道、農地、税、交易、複数の村と町、そのすべてに責任を持つ」
「はい」
「貴殿が彼女と結婚すれば、貴殿個人の人生だけでは済まない。後継の問題もある。親族、王都、他領との関係も変わる」
「オズワルドさんにも説明されました」
「なら分かっているか」
「全部は分かってません」
宗一郎は正直に答えた。
「だから覚えてる途中です」
「途中?」
「文字も勉強してますし、貴族社会のことも教わってる。まだ分からないことばかりです」
「それで、なお付き合うと?」
「はい」
「なぜだ」
宗一郎は少し考えた。
格好いい答えを探そうとして、やめた。
「好きだからです」
エドガーの眉がわずかに動いた。
「それだけか」
「最初は、それで十分じゃないです?」
「公爵との結婚に?」
「結婚を決めるには足りないと思います」
宗一郎は続ける。
「だから今は付き合ってるんです。好きだから一緒にいたい。でも結婚するなら、その先の責任も知らなきゃいけない。俺はまだ知らないことが多すぎるから、勝手に分かった顔はしたくない」
エドガーはすぐには答えなかった。
「貴殿は、自分が彼女に相応しいと思っているのか」
「思ってません」
宗一郎は即答した。
「そこは迷わないのだな」
「爵位もない。金もない。魔法もほぼない。剣も使えない。文字も勉強中。四十二歳。条件だけ並べたら弱いですよ」
「それでも離れない」
「相応しいかどうかを最終的に決めるの、俺一人じゃないでしょう」
「どういう意味だ」
「レティシア本人が俺を選んでる」
口にすると、少し照れた。
「俺が勝手に『自分は釣り合わないから身を引きます』って言ったら、本人の気持ちを無視することになる。それ、俺は嫌です」
エドガーは目を細めた。
「……そうか」
「あなたは違ったんです?」
宗一郎が尋ねると、今度はエドガーが少しだけ黙った。
「私の求婚は、半分は家のためだった」
「半分?」
「もう半分は、私自身の意思だ」
「レティシアが好きだった?」
「今も嫌いではない」
言い方が妙に大人だった。
「だが、昔の私は、彼女が断る理由を理解していなかった」
「理由?」
「私は条件が良かった。家柄も、財産も、年齢も。父同士の関係も悪くない。政治的にも婚姻には利があった」
「確かに」
「だから、彼女も理屈では受けるべきだと思っていた」
宗一郎には、その時点で少し分かった。
「レティシア本人の気持ちは?」
「……後回しにしていた」
「なるほど」
「今なら愚かだったと思う」
エドガーは自嘲気味に笑った。
「私は彼女を尊重しているつもりで、結局、公爵家の当主としてしか見ていなかったのかもしれない」
宗一郎は何も言わなかった。
悪人ではない。
むしろ、自分の失敗を認められる人間だ。
だからこそ面倒だった。
「それでも今回、ここへ来た」
「ああ」
「まだ諦めてない?」
エドガーは少しだけ宗一郎を見た。
「完全にはな」
「正直ですね」
「嘘をついても仕方ない」
そのとき扉が開いた。
「何を完全には諦めていない?」
レティシアだった。
後ろにはガレス。
入ってきた瞬間、店内の空気が変わる。
「レティシア」
「エドガー」
互いに知っている顔だった。
「久しぶりだな」
「何をしに来た」
「歓迎はされないと思っていた」
「当然だ」
宗一郎は二人を交互に見る。
「本当に知り合いなんですね」
「昔からだ」
レティシアが答える。
「そして、しつこく求婚してきた男だ」
「一度ではないが、そこまで言われるほどでもない」
「三度だ」
「三度は多いな」
「宗一郎まで乗るな」
「いや、普通に多いでしょう」
エドガーが苦笑する。
「相変わらずだな、レティシア殿」
「お前もだ」
「だが、以前より顔が柔らかくなった」
「余計なことを言うな」
「この男の影響か」
「そうだ」
レティシアは即答した。
宗一郎の方が照れた。
「そこ即答するんだ……」
「事実だ」
エドガーは少しだけ驚いたようだったが、すぐ宗一郎へ視線を戻した。
「なるほど」
「何がだ」
「少なくとも、噂だけでは分からなかったことが一つ分かった」
レティシアの眉が寄る。
「何だ」
「貴女が、自分で選んでいるということだ」
店内が静かになる。
レティシアは少しだけ目を細めた。
「最初からそう言っている」
「昔の私は、それを聞こうとしなかった」
エドガーはそう言ってから、宗一郎へ向き直った。
「三枝殿」
「はい」
「私は貴殿を認めたわけではない」
「別に認めてもらうために付き合ってるわけじゃないです」
「そうだろうな」
「ただ、敵でもない?」
「現時点では」
「その言い方怖いなあ」
「もし貴殿が彼女の立場を利用し、責任から逃げるようなら、そのときは私も黙ってはいない」
「そこはたぶん、レティシア本人が先に怒りますよ」
「当然だ」
レティシアが腕を組む。
「私が一番に殴る」
「殴るの?」
「比喩だ」
「本当に?」
「たぶん」
「怖いなあ」
ガレスが後ろで笑いを堪えている。
「副団長」
「何も申しておりません」
「最近そればかりだな!」
空気が少し緩んだ。
エドガーも立ち上がる。
「今日はこれで帰る」
「食べていかないんです?」
宗一郎が言うと、エドガーが少し意外そうにした。
「よいのか」
「開店前ですけど、話だけして帰るのも何でしょう。簡単なのでよければ」
「宗一郎」
レティシアが低い声を出す。
「何です?」
「なぜこいつに飯を出す」
「客になれば客でしょう」
「元求婚者だぞ」
「だからって腹減らして帰すのも」
「甘い」
「恋人の昔の求婚者に嫉妬してます?」
「していない」
「即答早いなあ」
「していない!」
エドガーが、そこで初めて声を上げて笑った。
「何がおかしい」
「いや。貴女がそんな顔をするとは思わなかった」
「どういう意味だ」
「昔は、私が他の女性と話していても何も気にしなかった」
「お前に興味がなかったからだ」
「そこまではっきり言うか」
「今もない」
「安心したよ」
宗一郎は思わず吹き出した。
「この二人、昔からこうなんです?」
ガレスが静かに答える。
「概ね」
「なるほど」
「納得するな!」
結局、エドガーは簡単な朝食を食べていった。
焼いたパン、豆のスープ、鶏肉と根菜。
宗一郎が料理を出すと、彼は一口食べてから少しだけ目を見開いた。
「美味いな」
「ありがとうございます」
「これを毎日食べているのか」
「毎日同じじゃない」
レティシアがなぜか誇らしげに言う。
「私の好みも分かっている」
「野菜残す人が言います?」
「最近は食べている!」
エドガーがまた笑う。
「なるほど。私にはできなかったな」
「何が?」
「彼女に野菜を食べさせることだ」
「そこ?」
「かなり難しいぞ」
「それは同意します」
「宗一郎!」
朝から騒がしい食堂になった。
それでも宗一郎は、少しだけ気が楽になっていた。
昔の求婚者。
条件だけ見れば、自分よりはるかに「公爵の夫」に相応しい男だった。
家柄もある。
教養もある。
剣も使える。
貴族社会も知っている。
比べれば、自分にないものばかりだ。
それでもレティシアは、自分を選んでいる。
その事実まで、自分の不安のために疑うのは失礼だと思った。
エドガーが馬車へ戻ったあと、レティシアはしばらく無言だった。
「怒ってます?」
「少し」
「俺が朝飯出したから?」
「それもある」
「他は?」
「お前が、あいつと普通に話していた」
「喧嘩した方がよかった?」
「それは困る」
「じゃあ何で」
「分からん」
宗一郎は少し笑った。
「嫉妬って、そういうものなんじゃないです?」
「……お前はしないのか」
今度は宗一郎が黙った。
「してますよ」
正直に言う。
「エドガーさん、条件だけなら俺よりずっといいから」
「条件?」
「貴族だし、教養あるし、剣も使える。年もレティシアに近そうだし」
「だから何だ」
「いや、俺みたいなのより」
そこまで言ったところで、レティシアの顔が険しくなった。
「またそれを言うのか」
「え?」
「私が選ぶ理由を、お前の自己評価で勝手に減らすな」
宗一郎は言葉に詰まった。
「私は条件を並べてお前を選んだのではない」
「……はい」
「エドガーに足りなかったからお前にしたわけでもない」
「はい」
「お前だからだ」
宗一郎は、今度こそ返事ができなくなった。
「何か言え」
「いや、かなり効いてます」
「何がだ」
「俺に」
レティシアは少しだけ顔を赤くした。
「なら覚えておけ」
「覚えます」
「それと」
「はい?」
「次にあいつが来ても、朝飯は出すな」
「そこまだ引っ張る?」
「嫌だ」
「子供みたいだなあ」
「恋人だぞ」
「便利に使うなあ、その言葉」
二人で笑った。
ただし、エドガーの訪問が残したものは、笑い話だけではなかった。
宗一郎は初めて、自分とレティシアの関係を外から見た。
好きだから一緒にいる。
それだけなら簡単だ。
だが結婚となれば、家、領地、後継、政治、周囲の思惑まで付いてくる。
そして、自分より条件の整った相手はいくらでもいる。
その現実を知った上で、それでもレティシアの隣へ立ち続けられるのか。
宗一郎は、その問いを初めて自分の中へ持ち帰ることになった。
その夜。
食堂二階の小さな部屋で文字の練習をしていた宗一郎は、途中で炭筆を止めた。
木板には、今日習った単語ではなく、一つの問いだけが不器用な文字で書かれていた。
『俺は、彼女の足を引っ張っていないか』
書いたところで、答えは出なかった。




