第1話 42歳、異世界で女公爵を拾う
三枝宗一郎、四十二歳、独身。
食品会社の総務部に勤めて二十年近くになるが、その肩書きから想像されるほど穏やかな人生を送ってきたわけではない。壊れた複合機を前に途方に暮れる新人を助け、営業部と経理部の間で責任の押しつけ合いが始まれば仲裁に入り、会社の駐車場に蜂の巣ができれば業者を手配し、忘年会の店を予約した人間が当日に店を間違えたときには、頭を下げながら別の店を探した。
総務というのは何でも屋である。
少なくとも宗一郎は、二十年近くかけてそういう結論に達していた。
「……いや、だからって異世界まで担当範囲に入ってるとは聞いてないぞ」
宗一郎は、見渡す限り続く草原の真ん中で、一人そう呟いた。
五分ほど前まで、彼は確かに会社からの帰り道を歩いていた。
金曜日の午後八時過ぎ。残業を終え、駅前のスーパーで半額になっていた鮭のおにぎりを二個と、明日の朝食用の食パンを買い、家に帰ったら冷蔵庫に残っている豚肉とキャベツを炒めて、缶ビールを一本だけ飲もうと考えていた。
それが、横断歩道を渡ったところで急に視界が白くなり、気がつけばこの有様だった。
舗装道路はない。
電柱もない。
高層ビルどころか民家の一軒さえ見当たらない。
少し離れたところには土を踏み固めただけの道があり、その先には深い森が広がっている。空は妙に青く、夕暮れが近いというのに空気には街の匂いがまるでなかった。排気ガスも、揚げ物屋の油も、駅前の居酒屋から漂う焼き鳥の煙もない。
宗一郎はしばらく黙ってから、スーツのポケットからスマートフォンを取り出した。
「まあ、まず連絡だよな。こういうときは警察か……いや、そもそもここが日本なのか?」
画面には、残酷なくらい堂々と「圏外」と表示されていた。
「ですよね」
誰に聞かせるでもなく答えてから、宗一郎は額を押さえた。
こういう状況で、もっと若いころなら大声を出していたかもしれない。しかし四十二歳にもなると、騒いだからといって問題が解決しないことくらい分かっている。
納期が三日前倒しになったと聞かされたときも、役員が急に「明日の朝までに会議資料を全部作り直して」と言い出したときも、まず必要なのは現状確認だった。
「財布、スマホ、家の鍵。買い物袋……ある。会社の社員証……これは役に立たないだろうな」
レジ袋を開いてみる。
おにぎり二個、食パン、ペットボトルのお茶、キャベツ半玉、豚こま肉、納豆三パック。
異世界らしき場所へ飛ばされた男の初期装備としては、かなり生活感が強い。
「せめてキャンプ用品とか買った日にしてくれよ。なんで納豆三パックなんだ」
異世界でも発酵食品の需要はあるかもしれないが、問題はそこではない。
宗一郎は、ひとまず土の道へ向かうことにした。道路らしきものがある以上、人が使っている可能性は高い。
歩きながら、自分の体に何か変化がないか確認する。
「ステータス……」
言ってみた。
何も起きない。
「オープン」
何も起きない。
「鑑定」
やはり何も起きない。
宗一郎は歩く速度を落とした。
「……あれ、これ、もしかして何もないやつか?」
腕を振ってみても炎は出ないし、足元に魔法陣も浮かばない。急に筋肉が増えた様子もなければ、若返っている気配もない。スマートフォンの黒い画面に映る自分の顔は、朝見たものとまったく同じだった。
目尻に薄い皺があり、顎には剃り残しが少しある。
四十二歳が、そのまま四十二歳である。
「夢がないなあ……」
口ではそう言ったものの、宗一郎はそこまで落胆していなかった。
十八歳に若返ったところで、腰痛が治るなら少し羨ましいくらいである。そもそも青春をもう一度やれと言われても、あのころの人間関係を最初から築き直す気力はない。
問題は別にある。
「ここで暮らせるのか、俺」
日本円しか持っていない。
家もない。
職もない。
戸籍など当然ないだろう。
それ以前に、本当に言葉が通じるのかさえ不明である。
どう考えても、派手な魔法より先に住民票が欲しい状況だった。
そんなことを考えながら街道を歩いていると、少し先の道端に黒い塊が見えた。
最初は倒木かと思った。
しかし近づくにつれ、それが人間だと分かる。
「おい、大丈夫ですか!」
宗一郎は駆け寄った。
倒れていたのは女だった。
三十代半ばくらいだろうか。銀色に近い淡い金髪が土に広がり、深い青色の外套の下には銀色の胸当てが見える。腰には長剣があり、どう見ても日本人ではない。
そして、その腹のあたりが赤く濡れていた。
「うわ、怪我してるじゃないか」
異世界だ、女剣士だ、美人だ、などと感想を抱いている場合ではなかった。
宗一郎は膝をつき、まず呼吸を確かめた。
息はある。
脈もある。
ただし弱い。
「聞こえますか? おい、目を開けてください」
頬を軽く叩くと、女の眉がわずかに動いた。
「……誰だ」
掠れた声だった。
宗一郎は思わず息を吐いた。
「よかった、言葉が通じる。いや、本当によかった。そこから心配しなきゃいけないのかと思ってました」
「何を……言っている……」
「すみません、それは後で。怪我を見ますよ。触りますけど、嫌だったら言ってください」
「……妙な男だな」
「怪我人にいきなり触ったら、普通は怒られるでしょう」
「普通……?」
「その話も後です」
外套をめくると、脇腹に刃物で切られたような傷があった。幸い、鎧のおかげで致命傷にはなっていないらしいが、かなり血が出ている。
医者ではない。
それでも会社の防災講習で習った程度の応急処置なら覚えている。
宗一郎は自分のネクタイを外し、ハンカチと組み合わせて傷口を圧迫した。
女が顔をしかめる。
「痛いですよね。でも今は我慢してください。俺、医者じゃないんで、本当に応急処置しかできませんから」
「医者でもない男が……なぜこれほど手慣れている」
「会社で救命講習があったんですよ。AEDの使い方とか止血とか。まあ、講習を真面目に受けておいて初めて得した気がします」
「えー……いー……?」
「そこも後で」
会話をしているうちに、女の意識は少しはっきりしてきたようだった。
宗一郎はペットボトルのお茶を取り出しかけて止めた。喉は渇いているだろうが、傷の状態が分からない以上、一気に飲ませるのは怖い。
「水は飲めます?」
「少しなら……」
「これはお茶なんですけど、大丈夫かな。毒じゃないですよ。俺も飲んでますから」
蓋に少量を注いで口元へ運ぶ。
女は警戒しながら口をつけたが、飲み込んだ後、不思議そうに眉を寄せた。
「……妙な味だ」
「緑茶です」
「リョクチャ?」
「説明すると長くなるので、それも後でお願いします」
「後回しが多い男だな」
「あなたが今にも倒れそうだからですよ」
少し強い口調になってしまった。
宗一郎自身、余裕があるわけではない。
突然知らない世界へ放り出され、その最初の出会いが重傷者なのだから、人生でもかなり上位に入る混乱した一日である。
それでも目の前に怪我人がいれば、放っておくという選択肢はなかった。
しばらくすると、女の腹が小さく鳴った。
本人は聞こえなかったことにしたかったらしい。
しかし宗一郎はしっかり聞いた。
「腹減ってます?」
「……気のせいだ」
「いや、今かなり立派に鳴りましたよ」
「気のせいだと言っている」
「そこまで意地を張るところですか?」
女が睨んできた。
弱っていても迫力がある。
宗一郎は少し考えてから、買い物袋のおにぎりを取り出した。
「これなら食べられるかな」
「何だ、それは」
「鮭のおにぎりです」
「サケ……オニギリ……」
未知の呪文でも聞いたような顔をされた。
宗一郎は包装を剥がし、自分で一口食べて見せる。
「米を炊いて、中に焼いた魚を入れてあります。変なものじゃないですよ」
「白い穀物か」
「たぶん、そっちにも似たものはあるんですね」
宗一郎は半分に割ると、大きい方を女へ渡した。
女はしばらくおにぎりを眺めていたが、やがて恐る恐る口に運んだ。
一口。
二口。
そして、動きが止まる。
「……どうです?」
「塩が効いている」
「そこ?」
「魚も入っている」
「おにぎりなので」
「温かくないのに、不思議と悪くないな」
「褒め方が渋いですね」
女は残りを食べた。
どうやら相当空腹だったらしい。
宗一郎も自分の分を食べながら、その姿を見守る。
すると女が訊いた。
「なぜ半分しか寄越さない」
「俺も腹が減ってるからですけど」
「……私が誰なのか知らないのか?」
「知りません」
「仮に、私が高貴な身分の者だったとしてもか?」
宗一郎は首を傾げた。
「怪我してる人に飯を渡すのに、身分って関係あります?」
「いや、そういう意味ではない。私が望めば、お前は全部差し出すべき立場かもしれない、と言っている」
「それなら余計に半分です」
「なぜだ」
「俺まで倒れたら、誰があなたを助けるんですか」
女が黙った。
宗一郎は、おにぎりの最後の一口を食べてから付け加えた。
「それに、俺も腹が減ってます。四十二歳になると、空腹のまま無理すると翌日に響くんですよ」
「……四十二?」
「はい」
「その年齢で、ずいぶん気安いな」
「年齢と気安さは関係ないでしょう。むしろ四十二にもなって、身分が高そうな人に全部食べ物を渡して自分が倒れたら、その方が格好悪いです」
女の口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったのかもしれない。
それを確かめる前に、遠くから蹄の音が聞こえてきた。
宗一郎が顔を上げる。
地面が震えるほどの勢いで、十数騎の騎兵がこちらへ向かっていた。
「お知り合いですかね」
女の表情が変わった。
「おそらく、私の者たちだ」
「よかった。これでちゃんとした医者に見てもらえますね」
やがて騎兵たちが目の前で馬を止めた。
全員が銀色の鎧を身につけ、その胸元には狼を模した紋章が刻まれている。
先頭の騎士が馬から飛び降りた。
「閣下!」
その声を合図に、騎士たちは次々と地面へ膝をついた。
「レティシア公爵閣下、ご無事でございましたか!」
宗一郎は、ゆっくり隣の女を見た。
女も宗一郎を見る。
「……公爵?」
「そういえば名乗っていなかったな」
女は騎士の肩を借りながら立ち上がった。
傷を負っているのに、その立ち姿には不思議な威厳がある。
「レティシア・アルヴェイン。この北部一帯を治めている」
「……ええと」
宗一郎は自分の手を見る。
さっきまで公爵におにぎりを半分だけ渡し、「全部はやらない」と言っていた。
日本の会社で役員相手に同じことをしたら、その後の空気はかなり面倒になるだろう。
「もしかして俺、まずいことしました?」
「何がだ」
「もっと丁寧に喋るべきだったとか、おにぎりを全部渡すべきだったとか」
「今さら気にするのか」
「社会人なので」
レティシアは、今度こそはっきり笑った。
先ほどまでの険しい表情とは違い、意外なほど柔らかい笑い方だった。
「三枝宗一郎、と言ったな」
「はい」
「お前は、これからどこへ行くつもりだ」
宗一郎は周囲を見回した。
広い草原。
知らない森。
知らない街道。
そして手元にあるのは、日本円の入った財布と、納豆三パックである。
「……むしろ、俺が教えてほしいです」
「行く場所がないのか」
「たぶん、家ごとすごく遠いところから来たみたいでして」
「どこからだ」
「日本という国です」
レティシアだけでなく、周囲の騎士たちも怪訝そうな顔をした。
「ニホン?」
「やっぱり知らないですよね」
そこまで確認できれば十分だった。
認めたくはないが、どうやら本当に異世界らしい。
宗一郎は小さく息を吐いた。
住宅ローンはない。
妻も子供もいない。
両親はすでに亡くなっている。
だからといって、四十二年間生きた世界へ二度と戻れないかもしれないという事実が軽くなるわけではなかった。
会社の机の上に置いてきたマグカップまで、急に懐かしく思えてくる。
レティシアは、そんな宗一郎をしばらく見ていた。
やがて短く言う。
「ならば、私と来い」
「事情聴取ですか?」
「なぜそうなる」
「身元不明の中年男性ですからね。俺でも警戒しますよ」
「違う」
「では、保護?」
「それもある」
レティシアは少し言いにくそうに間を置いた。
公爵という地位にある人間が、なぜそんな顔をするのか宗一郎には分からない。
「もう一つ理由がある」
「何でしょう」
「先ほどの……オニギリという食べ物だが」
「はい」
「もうないのか」
宗一郎は買い物袋を確認した。
「もう一個ありますよ」
「そうか」
レティシアの表情が少し明るくなる。
「では、それを食べたい」
「怪我人なんだから、城に戻ったらもっとちゃんとしたものを食べた方がいいですよ」
「私はそれがいい」
「公爵なのに?」
「公爵だから食べたい物を選んではいけないのか」
「いや、そういうわけじゃないですけど」
後ろに並んでいた騎士たちが、何とも言えない顔をしている。
どうやら彼らにとっても、主君が道端で拾った中年男のおにぎりを欲しがる光景は珍しいらしい。
レティシアは咳払いすると、威厳を取り戻すように背筋を伸ばした。
「決めた。三枝宗一郎、お前は私の城へ来い」
「拒否権は?」
「ある」
「よかった」
「ただし、お前がどこへ行けばいいのか分からないなら、拒否したところで今夜は野宿だ」
宗一郎は空を見上げた。
夕暮れが迫っている。
森の奥からは、何だかあまり友好的ではなさそうな獣の鳴き声まで聞こえてきた。
「……お世話になります」
「うむ」
「それと、一つだけ確認してもいいですか」
「何だ」
「城に着いたら、俺はちゃんと客として扱ってもらえるんでしょうか」
「当然だ」
「よかった。いきなり牢屋とか嫌ですよ」
「私の命を助けた男を牢へ入れるほど恩知らずではない」
「それなら安心しました」
宗一郎が頭を下げると、レティシアは満足そうに頷いた。
そしてほんの一瞬だけ視線を買い物袋へ向けてから、付け加えた。
「ただし、その残りのオニギリは私が食べる」
「そこは譲らないんですね」
「公爵だからな」
「さっき身分は関係ないみたいな話をしてませんでした?」
「今は関係ある」
「ずるいなあ、公爵」
宗一郎が思わず笑うと、周囲の騎士たちが揃って息を呑んだ。
主君に向かって「ずるい」と言う者など、彼らの世界にはほとんどいないのだろう。
だがレティシアは怒らなかった。
むしろ宗一郎から買い物袋を受け取ると、子供が宝物を預かったときのように大事そうに抱えた。
「行くぞ、宗一郎」
「いきなり名前呼びですか」
「嫌か?」
「いや、別にいいですけど」
「なら問題ない」
「公爵って、みんなこんな強引なんです?」
「私しか知らぬから比較できんな」
「なるほど」
こうして四十二歳の会社員、三枝宗一郎は、異世界へ来て一時間もしないうちに女公爵の城へ連れていかれることになった。
このときの宗一郎は、まだ知らない。
自分が助けた女が、戦場では「銀狼公」と恐れられ、敵国の兵士が名前を聞くだけで震えるほどの人物であることも。
彼女がこれから、ほとんど毎日のように宗一郎の料理を要求するようになることも。
そして何より、この出会いを境に、自分の四十二年間には一度もなかった種類の騒動が、次から次へと押し寄せてくることも。
宗一郎が今もっとも気にしていたのは、そんな未来ではなかった。
馬へ乗せられる直前、レティシアの腕の中にある買い物袋を見て、彼は非常に現実的な問題に気づいたのである。
「あの、公爵様」
「何だ」
「その袋の中に納豆が入ってるんですけど、傾けるとかなり危険です」
「ナットウ?」
「異世界最初の外交問題になりそうな食べ物です」
「……どういう意味だ」
「城に着いたら説明します」
この日、レティシア・アルヴェインは宗一郎から、異世界の食文化には想像以上に手強いものがあることを学ぶことになる。
もっとも、納豆との初対面が彼女に何をもたらすのかを、宗一郎自身もまだ知らなかった。




