第1話「赤字の英雄、黒字の無能」
「営業のガウェインは、口のうまさで100の仕事を獲ってきた。
記録係の俺は、その仕事が物理的に不可能であることを、たった1行の数字で見抜いた。
……それだけの話です」
蝋燭の芯が、小さく爆ぜた。
インクの匂いが部屋に満ちている。アルデア大陸の西端、冒険者ギルド「銀の盾」の地下にある記録室は、年中この匂いがこびりついていた。
アルベルトはペンを置き、指先にこびりついた汚れをじっと見た。
黒い。
このギルドで、黒字なのはこの汚れだけだ。
その横に、一点の汚れもない青い石が転がっている。数日前、得体の知れない老人から「正しい値を測ってくれ」と預けられた石だ。どんな天秤にかけても重さが定まらず、金槌で叩いても傷一つ付かない。
この世界の既存の物理法則から逸脱した、不変の石。
それはまるで、偽りの数字で塗り固められたこのギルドの中で、唯一不気味なほどに「正しい」存在であるかのように見えた。
「──おい。アルベルト」
部屋の扉が乱暴に開けられた瞬間、アルベルトの視界の端で、風景が一瞬だけバグを起こした。
壁のレンガが幾何学的なタイル状に反転し、不自然なパッチワークのように風景が切り刻まれる。数秒で元に戻ったが、後に残ったのは不快な耳鳴りだけだった。
そこに立っていたのは、金色の髪を夕陽に輝かせた男だった。ガウェイン。ギルド「銀の盾」の花形営業冒険者。彼が歩くだけで、周囲の喧騒が不自然なほど増幅され、人々の熱狂という名のノイズが空間を圧迫する。
「またこんな暗いところで、数字の墓場に篭っているのか? 今日は祭りだぞ。俺が、マルス伯爵からドラゴンの素材納入の独占契約を獲ってきた。全冒険者が祝杯を上げている」
ガウェインは豪華な装飾剣を腰に鳴らし、アルベルトの机に一枚の羊皮紙を叩きつけた。
「契約書だ。受理しろ。全額、前払いで受け取ることになっている」
アルベルトは、叩きつけられた契約書に目を落とした。
一行目。
二行目。
三行目。
三秒で、頭の中にグラフが描かれた。
「ガウェイン」と、アルベルトは静かに呼んだ。「残念なお知らせがあります」
「なんだ? あまりの好条件に腰を抜かしたか?」
「これ、赤字ですよ。三割の」
一瞬、部屋が静まり返った。
ガウェインの笑顔が、ぴくりと引きつる。
「……何と言った?」
「マルス伯爵の提示した価格は、市場平均より二割高い。しかし、素材となるドラゴンの棲息地は、今、深刻な泥濘期に入っています。物流コストが跳ね上がる。さらに、契約に含まれている『期限までの納入』を守るためには、通常の三倍の護衛が必要になる。……この契約を完遂した頃には、ギルドの資金は一割吹き飛びます」
「ははっ、バカかお前は」
ガウェインは床を叩いて笑った。
「数字っていうのはな、勢いなんだよ。この契約を獲ったという事実が、次の新しい依頼を呼ぶ。未来の利益に投資してるんだ。そういうのが分からないから、お前はいつまでも地下でインクと結婚してなきゃならないのさ」
「数字は勢いではありません。事実の集積です」
アルベルトの声に、感情はなかった。ただ、事実を口にしただけだ。
「……それくらいにしろ。アルベルト」
奥から、ギルド長が姿を現した。肥え太った腹を揺らし、ガウェインの肩を叩く。
「これだから記録係は困る。数字ばかり見ていて、英雄たちが生み出す『夢』という資産が見えていない。なあガウェイン、気にするな。この契約は受理する。お前の功績だ」
「ありがとうございます、ギルド長!」
二人はアルベルトの前から去っていった。
部屋の外からは、またどっと派手な歓声が上がった。
「英雄ガウェインに乾杯!」「銀の盾に栄光あれ!」
アルベルトは、誰もいない、インクの匂いだけが漂う記録室に残された。
机の上には、先ほどの契約書。
彼は再びペンを取った。
帳簿の隅に、小さな、しかし消せない赤線を一本引く。
嘘は口にできる。
期待は形を変えられる。
しかし、数字だけは、決して嘘をつかない。
「……十四日か」
アルベルトは呟いた。
自分が引いた赤線の先。
そこに待ち受けている「崩壊」という名の数字。
自分だけでも、それを記録し続けなければならない。
それが、このギルドで「無能」と呼ばれる俺の仕事なのだから。
第1話、お読みいただきありがとうございました。
新主人公アルベルト。彼は感情ではなく「数字」で世界を見る男です。
そんな彼だけが感知する、ガウェインの登場と共に走る「世界のノイズ」。
ハッタリが世界を彩る一方で、現実というシステムがその負荷に悲鳴を上げ始めています。
机に置かれた「不変の石」が何を記録しているのか。
三部作を通して描かれる、壮大な修正の物語を、一歩一歩積み上げていきます。
引き続き、よろしくお願いします。




