ダンと可愛い幼なじみの話
今さらですが、『ヴィオラちゃんファイトォォォォ』の裏側の話です。
学問の道を志したのは六歳のころだ。
父親が町で唯一の法律家だったことから、勉強に打ち込むようになった幼いダンに対して周囲は特に疑問を持たなかったと思う。だが、ダンを魅了したのは法律ではなくどちらかというと数学だった。
実のところ最初のきっかけは可愛い幼なじみの言葉にあった。
「わぁ、すごい! すごいのね、さすがダン、かっこいい!」
お遣い中のヴィオラが八百屋で財布の中身と値札を見比べながらしきりにまばたきしているのを見かねて、代わりに暗算してあげたときの反応がこれだ。いつもどおり溢れんばかりの好意を湛えた瞳で、頬を赤くして、前のめり気味に心からの賞賛をくれた。ダンがしてみせたのは単純な足し算にすぎなかったけれど、大好きな女の子の絶賛を受けて奮起しないわけがない。
知れば知るほどこの学問には無限の可能性を感じる。農業や商業はもちろんのこと、ほかのあらゆる産業や果ては医学にまで数学は必要不可欠なのだ。将来ヴィオラがどんな道を選んでも「かっこいい」と言ってもらえる機会があるに違いない。それに、立派な学者になればヴィオラ自身だけでなくヴィオラの家族も結婚相手として不足はないと思ってくれるだろう。町でそれなりの地位を得てヴィオラと穏やかに暮らしていくにも、都で研究機関に身を置きヴィオラと手堅く暮らしていくにも、やはり学問は役に立つ。そもそもの動機はこんなものだった。ダン六歳の決意である。
何も数学でなくとももっと実用的な、つまり一般の日常生活レベルで確実に金になる分野がほかにもあったろうにと気づいたのは長じてからの話だ。そのころには数学のとりこになって久しかったため志は変わらなかった。結局のところあの日のヴィオラの尊敬のまなざしが忘れられなかったのだ。しかしヴィオラを飢えさせてしまうようでは本末転倒なので、生半可な達成で終わらないよう学業にいっそう精を出すこととなった。
ヴィオラはいつでも献身的で愛情深くて強烈に可愛くて元気ににこにこ笑っていた。しばしば元気すぎるところもしみじみ可愛い。
ヴィオラに「好き」と言われるたび、胸がいっぱいになって何も言えなくなる。と同時に、何が何でも学問を究めてヴィオラの願いを全て叶えなくてはという決意を新たにするのだった。
ところが思春期を迎えたころからか、この純粋かつ直線的な信念は様相を変え始めた。
なんというか、ヴィオラが可愛すぎるのだ。
真剣に数列と向き合おうとしているはずが、気づけばヴィオラのことで頭の中が占められている。それも可愛いヴィオラの笑顔や無邪気な言動だけでなく、とても人には言えないような妄想ばかり浮かんでくる。本人が目の前にいようものなら大変だった。強すぎて戸惑うような衝動が、自分の意思を無視して身体を乗っ取ろうとする。こうなると勉強どころではない。とてつもない恐怖を覚えた。こんな自分は自分ではない。ヴィオラに知られたらどうなる。「落ち着きがあって知的なダン」は見せかけに過ぎなかったと思われてしまったら、失望されてしまったら、生きていけない。
自然、ヴィオラを避けるようになった。会話を交わすときも、強いて無表情を保つ。でないと何をしてしまうか、自分でもわからなかった。こちらの苦労も知らずに相変わらず過度に可愛い姿を見せつけてくるヴィオラを逆恨みすることさえあった。幼かったとはいえ、愚かだった。このとき既にダンはかなり間違った方向へ突き進んでいたのだろう。
もっとひどいのは、そこまで努力しても煩悩を追い払えなかったことだ。
とにかく気を紛らわせようと、勉強の合間に身体を動かしてみることにした。この手の衝動をやりすごすときの定石だと書物に書いてあったからだ。ところが頼んでもいないのにヴィオラの曾祖父ヴィクトールが指導役を務めることになっていて、とんでもない目に遭った。そのうえ、非人間的かつ非人道的な鍛錬からは一時的な効果しか得られなかった。一時的というのは、しごかれすぎて昏倒している間だけは何も考えずにいられるという程度の意味だ。隣でダンの十倍以上は激しそうな内容を軽々こなし「準備運動終わり」などと呟いているエスカが信じられない。人類が決して越えられない壁をそこに見た。
よいことも実はあった。屍と化して自室で伏せっていたところに可愛い幼なじみがやってきて、甲斐甲斐しく介抱してくれたのだ。このときばかりは首から下が一切動かせない状態だったので、どんなにヴィオラが密着してきても不埒な真似に及んでしまう心配がない。
「ヴィオラ、ありがとう。おいしい」
手作りのスープを優しく飲ませてくれるヴィオラに言えば、何かとてつもなく嬉しいことを言われたかのような満面の笑みを見せられた。ものすごく可愛かった。ダンの顔は真っ赤になっていたと思う。
「エスカと何かあったの? ダンのお見舞いに行くように言ってきたのはエスカなんだけど」
「エスカか……」
高すぎる壁に思いを馳せて、ダンは少し落ち込んだ。エスカは人間の基準にならないとはいえ、ヴィオラの身内の猛者たちの足元にも及ばない体力が情けなくもあったからだ。今度から机にかじりついているだけでなく、定期的にトレーニングもしよう。
「いや、何も」
「ふうん……」
それにしても、ヴィオラはこんなに可愛くて大丈夫なのだろうか。可愛いばかりか元気で明るくて料理上手で優しい。曾祖父ヴィクトールや従姉エスカという最強の布陣が目を光らせているとはいえ、ここまで魅力的だと男たちも放っておかないのではないか。にわかに不安になり、回復してすぐ少年たちのたまり場へ足を運んだ。
「ない。絶対に、ない」
即答された。
「エスカとかヴィクトールじいさんとか以前に、ヴィオラって全然おれたちには優しくも可愛くもないぞ、言っとくけど」
「ダン以外にはとことん素っ気ないし容赦ないし。さすがエスカの従妹だよ。本性はドSだな。そのうちおまえも思い知らされるよ、ざまあみろダン」
「っていうかおれたちの世代はエスカが女子陣の初恋を根こそぎ奪っていくし、唯一の例外のヴィオラはあれだし、不幸すぎる」
「なあ、思うんだけど、おれとエスカがくっつけば万事丸く収まるんじゃないかな」
「おまえも奪われた派かよ!」
たまった鬱憤を次々に吐き出す少年たちを見て、ダンは胸を撫で下ろした。ヴィオラが優しいのは自分だけなのか。そうか、そうなのか。
「ダンてめえこの野郎、ニヤニヤしやがって」
彼らの視線が鋭くなったので、ためになる助言をしておいた。
「ヴィクトールじいさんに弟子入りすることを勧める」
残念ながらこの助言が活かされる機会はなかった。直後にヴィクトールが倒れ、そのまま寝ついてしまったのだ。
初めは鬼の霍乱などと言い合って誰も深刻に受け止めていなかったが、ひと月、ふた月と鬼が寝床から出てこない日が続けば心配になる。特に落ち込んだのがヴィオラだった。ダンの前では相変わらず可愛くにこにこしているが、大好きな曾祖父の異変に心を痛めているであろうことは伝わってくる。ヴィクトールに花嫁姿を見せるのがヴィオラの夢のひとつなのだ、いよいよ悠長にはしていられない。
手っ取り早いのは王立大学校で実績を積むことだ。王立大学校は王家お抱え研究者への最短コースで、いったん推薦を受けて職を得られればあとはどこにいても研究はできる。そうと決まれば迷いはない。いや、ヴィオラという名の誘惑に血迷いそうになる場面は少なくなかったが、なんとか退けることを繰り返しながら、死にものぐるいで勉強した。
晴れて王立大学校の入学許可証を手にした日、ダンはその足でヴィクトールを見舞った。
「研究者に、俺はなる! だからヴィクトールじいさん、四年後にヴィオラと結婚させてくれ」
「よかろう」
返答の声はあまりに弱々しく、四年の長さを思うと卒業まで待たせるのがためらわれるほどだった。これは飛び級を狙うしかないのか。
「いいわよ」
「いかん!」
「いいね!」
ヴィオラのその他の家族の回答も約一名を除いて色よいものだった。
今にして思えば、かくのごとく計画が順調に進んでいることへの安堵が大きすぎたのだろう。何年も我慢していたというのに、気がゆるんだダンはついにやらかしてしまったのだ。
ダンは酒に弱い。それでなくともエチルアルコールによる酩酊感は思考の明晰さを奪うので、定期的に催される町の若衆の宴会でもほとんど口にしないのが常だった。しかしその夜は、高度な教育を受けられることや将来の青写真が具体化していくことへの興奮、ヴィオラとの一時的な別離に対する寂しさが手伝って、足元がおぼつかなくなるくらいに飲んでしまった。そして誘惑に負けた。大敗した。何しろ泥酔して液体のようになった可愛い幼なじみが全身で愛をぶつけてくるのだ。自分は酒の匂いを発しているというのに、ほんの一滴でダウンしてしまう下戸のヴィオラは酒どころか花の香りをさせて迫ってくる。全然逆らえなかった。むしろこちらから襲いかかった。我ながら勉強しかしてこなかった男の所業とは思えないほどあの手この手で貪り尽くした。
そして迎えた翌朝、死にたくなった。結婚前の男女がしてよいことではない。大事にしたかったのに。ヴィオラがかわいそうだ。最低だ。ありえない。しかも諸々の痕跡を残しつつ寝乱れたヴィオラを見ていると性懲りもなく手が伸びそうになるあたり、本当に救いようがない。まともに顔が見られなかった。しかるべき段取りに沿うはずだったところこんなことをしでかしてしまったがヴィオラを大切に思っていないわけでは決してなく、なじってくれても殴ってくれてもいいから許してもらえるならこの後のことを前向きに話し合おう、といった内容を自己嫌悪でしどろもどろになりながら伝えたが、ヴィオラはふらりと家を出て行ってしまった。体は大丈夫なのだろうか。あれこれ気をもんだが、次に顔を合わせたときのヴィオラはいつもどおり可愛くにこにこしていた。なかったことにしたいらしい。
とはいえ暴挙に伴う「予期せぬ結果」の有無については大いに気になった。もちろん婚前にあるまじきことだが、それならそれで覚悟の決めようはあるというか、ヴィオラには申し訳ないが割と期待してしまう気持ちもなくはない。そのため注意深くヴィオラに目を配っていたがそういうことはなさそうだった。思うところはあったものの、少し冷静になった。ヴィオラのためにはいいことだ。当初の予定どおり順序を守ることにしよう。
「ダン、もしかしてヴィオラに手を出したか?」
「大変申し訳ありませんでした!」
何かを察したらしいエスカには五体投地で許しを請うた。殺されるかと思ったが殺されなかった。
「まあヴィオラだしな……」
とのことだった。それまでのダンの忍耐と苦しみを理解してくれたのかもしれない。
いよいよ入学の時期が来た。大勢に見送られて旅立つことになったが、泣きはらした目からさらに大粒の涙を流しつつそれでも「い、いってらっしゃい」と健気に可愛く笑うヴィオラのもとを去るのは断腸の思いだった。何もかも放り投げてヴィオラだけを抱えて家にふたりで閉じこもっていたいくらいだった。ヴィオラとの未来のために足を踏み出そうとしているというのに、なんという恐ろしい女なのか。別れはつらいが今は離れるほうが身のためという気すらしてきた。
新しい環境は刺激的だった。町では手に入らない貴重な書物が読み放題だし、級友たちは学問のしもべという名の同類だらけで飽きない。筋金入りの変人ばかりだが、彼らと競ったり議論したりする中で得るものは多く、大いに励みになった。しょっちゅう可愛い幼なじみのことを思い出してうつつを抜かしてしまうダンと違い、彼らの頭の中には学問のことしか詰まっていない。遅れを取ることなく優秀な成績を修めて推薦を受けるためには、一瞬たりとも気を抜けないと悟った。
そういう生活はもちろん大変だが、一方ではひどく安心していた。ここにはひたすら数式と向き合う者しかおらず、欲望に任せて幼なじみの可愛い女の子を汚してしまうようなけだものは出てくる隙がない。ヴィオラが好きだと言ってくれる「知的で落ち着いたダン」でいられるのは楽だった。
「ダン、会いたかった!」
そこに突如凶悪な刺客が襲来したのだからたまらない。ダンは恐慌状態に陥った。禁断症状に耐えきれなかったと訴えてくるヴィオラはやはり猛烈に可愛いし嬉しいのだが、ダンにひどいことをされたのをもう忘れたのかと問い詰めたい。
たまたま級友が隣にいて助かった。もしダン単体で久々のヴィオラ爆弾をくらっていたらひとたまりもなかっただろう。あの後悔の夜の二の舞だ。
「あら、こんばんは。ダンくんのお知り合い?」
「あ、はい」
「アイアイ、ヴィオラだ」
戦々恐々としながら互いを紹介する
「ヴィオラ、こちらは同級生のアイアイ」
付け足すなら、変人の巣窟の中でも重症の数学狂いアイアイだ。数学以外のことに関してはまるでコミュニケーションが成り立たない変態なのだが、都でも有力な商家の出身であり、潤沢な資金と資源に恵まれた環境で学んできただけあって知識量がすごい。そして数学に対する執念もすごい。気になる話題があれば同輩だろうが先輩だろうが教員であろうが食らいついて離さず、今日はダンがそのターゲットになったのだった。
「よろしくね、ヴィオラ。それはそうとドボンの法則がそれに先立つこと十年前に発見されたズドンの法則においてすでに証明されていた可能性についてなんだけど、ダン」
「さっきも言ったけど、俺はそれについて否定的な立場を取っている。確かにズドンの法則を拡大解釈してドボン法則に適用することも不可能とは言い切れないが、強引すぎるという意見も多いし、それよりむしろボトンやズボンがズドンの論を発展・強化させてきたことがドボンの発見につながったと見るべきじゃないか」
こういったやりとりには慣れっこなので反射的に口が動く。おかげでヴィオラを見た瞬間からわき上がっていた頭の奥の熱が和らいできた。
流れでそのまま三人で夕食の食卓を囲むことになったが、つくづくアイアイが気をつかって帰ると言い出すようなまともな社会性の持ち主でなくてよかった。今ヴィオラとふたりきりにされたら何をするかわからない。というよりわかりたくない。
第三者の目という抑止力のおかげで久しぶりに会った可愛い幼なじみをじっくり観察することもできた。可愛いのは変わりないが少し痩せたような気がする。町から長い距離をひとりでやって来たのだろうか、道中危険はなかったろうか、疲れているだろうに夕食の用意までしてくれて大丈夫なのか、きちんと休憩は取ったのだろうか、それにしても美味いなこのキャセロール。ところでヴィオラは今夜の宿をちゃんと取っているのだろうか、まさかとは思うがここに泊まるつもりじゃないよな。当然ながらベッドはひとつしかない。
思考が危うい方向に走りそうになるたび、アイアイがスッポンのごとくしつこく議論を吹っかけてきてダンを引き戻してくれる。つくづくありがたい。
そしてこんな失礼な変人でも客として手厚くもてなしてあげられるヴィオラの素晴らしさといったら際限がない。可愛い。
その後、ヴィオラは宿を取るどころかダンの棲み家に長期滞在する心づもりだったことが判明した。この危機感のなさにめまいがする。今からでもと信頼できる宿泊先を探しかけたが、はたと思い至った。ここは平和な地元の町ではない。治安はそう悪くないはずだが、繁華街も近いので昼夜を問わず人の出入りは激しいし、中には素性の怪しい人間だっている。このような可愛い女の子をひとり宿に泊まらせるなんて、そんな不用心なことはできない。たとえヴィオラが受け入れてもダンは心配すぎて許容できない。そう、ダンのもとなら、ダンさえ堪え忍べばよいだけのことなのだ。
その夜は、疲れているに違いないヴィオラをベッドに追いやり、自分は隣家から借りてきた毛布にくるまって床で寝た。次の日からはマットレスを手に入れてそこをダンの寝場所に定めた。ヴィオラは遠慮していたが、ヴィオラからベッドを奪うなどという選択肢はない。
そうしてダンの安寧は失われ、再び苦しみの日々が始まることになった。
ほどなくヴィオラは都で働き口を見つけ、毎日にこにこ可愛く過ごしている。そのバイタリティには惚れ惚れするばかりだ。一方ダンは家にいるとどうしてもヴィオラの気配を感じて雑念にとらわれがちで、夜もあまり眠れない。日に日に衰弱していった。神経衰弱のあまり自制心が脆くなり、ついヴィオラの誘惑に負けてしまう夜もあった。ぎりぎりのところで理性を保ってはいたが、誉められることではない。アウトかセーフかで言えば完全にアウトだった。
「ヴィオラを預かってほしい」
待ちに待った夏、逃げるように里帰りをしてヴィオラを家に送り届けた際、ヴィオラの両親に懇願した。ここがヴィオラの家なのにおかしな表現をしたものだが、彼らはただ頷いた。ダンの目の下にある色濃い隈が何かを物語っていたのかもしれない。特にヴィオラの父は力強い口調で、任せろ、と請け合った。
都での学生生活に戻ると、今度は愛情のこもった手紙が毎日のように届く。読むと里心がつくというかヴィオラ心がつきそうなので金庫に封印していたが、ときに疲弊し挫折感を味わう夜や、議論でこてんぱんに言い負かされて言いたいことも言えないこんな世の中に苛立ってしまう日もある。そんな折りには気づけば深夜まで読みふけってしまっていた。幸せ者だと思った。
「ヴィオラってもういないの?」
ある日唐突にアイアイが尋ねてきた。最近は別の学生をターゲットにしていたようなので、話をするのも久々だ。とはいえ場所柄アイアイのような人間はあちこちにいるので毎日誰かと侃々諤々と論じ合っているし、ダンから誰かに話頭を持ちかけて巻き込むこともある。
「地元に帰った。いきなりどうした」
「彼女、ガンジーラ夫人に似ていない?」
大昔の偉大な数学者の名前が挙がったので戸惑う。と同時に彼女の肖像画を思い起こし、首をひねった。
「ヴィオラが? 似ていないな。かろうじて髪型が近くないこともないくらいだ」
「目の形とか髪色なんかも同じだったわ」
「全く違う。ヴィオラの目はもう少し目尻が下がっているし、髪の色はもっとあたたかみがある」
「わかりにくいわね、あたたかみって何? 明度と彩度の話? 数値で表現すると?」
「明度は二十%くらい高くて彩度は十五%くらい低いかな……とにかく違う」
「あらそう。てっきりガンジーラ夫人への尊敬から子孫を家に置いているのかと思ったんだけど。あのときは別のことに熱中しすぎて確認しそこねていたのよね」
「その思考回路が理解できない。ヴィオラは恋人だよ」
それきり興味をなくしたようにアイアイは去り、次のターゲットを捕まえていた。数学の話から離れたのでどうでもよくなったのだろう。いつものことだ。
ここからの一年はあっという間だった。読むべき書物、受けるべき講義、提出すべきレポート、参加すべきゼミはいくらでもあり、一日が何時間あっても足りないくらい忙しい。可愛い幼なじみとの約束より臨時講義を優先してまで一心不乱に学業に身を投じた。さすがに涙が出そうだったが、好きなだけヴィオラとデートできる未来のために努力した。その甲斐あって卒業までの期間は一年短縮できそうだ。学会でかなり権力を持ちつつある講師の目にとまったことも要因としては大きい。だから彼に食事に招かれたときは舞い上がった。
意気込んで講師の家へ向かい、途中で同じく招かれている学友たちと合流した。うち二名は一学年上の優秀な先輩で、残りの一名は彼らを目下のターゲットとしているらしいアイアイである。相談のうえ、手土産として先輩ふたりが酒を見つくろい、ダンたちが講師の妻への花束を用意することになり、いったん別行動となる。
一年ぶりの襲撃にあったのはそのときだった。
「お願いダン今すぐわたしと結婚して!」
それを言いたいのはこっちのほうだ、と叫びそうになった。その言葉を堂々と告げられるようになる日のために命を削る勢いで奮励しているというのに、あっさり無視して可愛い顔でこんなことを言ってくる。なんということか、久しぶりすぎるせいでヴィオラが視界に入っているというだけで頭がくらくらしてくる。重要な予定が控えているのに、それすら忘れそうになって焦った。苛立ちというより動揺のせいで口調がきつくなる。挙げ句に伸ばされた手を振り払ってしまい、ますます動揺してヴィオラから離れることしか思いつかなかった。このときばかりはアイアイも抑止力にならなかった。
その後の食事会はなんとかこなしたものの、料理も会話の内容もほぼ覚えていない。しかも心ここにあらずだったせいで酒を断りそこね、何を飲んでいるかもわからないまま杯を重ねていた。ただ、顔には出ていなかったらしい。食事会が終わり解散となったとき、先輩のひとりが「俺はこいつを送っていくから、ダンはアイアイを送ってやれ」と告げたのがその証拠だ。
帰り道でアイアイが何か言っていた。ぼんやりした頭でダンは何かを答えた。
「やっぱりガンジーラ夫人にそっくりだった。再確認したいわ。ダンくんの家にいるなら会っておかなくては。明度と彩度の件も検証する必要があるわね」
「ヴィオラ、うん、会いたい」
「ねえ、もっとしっかり歩いてくれない? そういえば先輩が言っていた現在最も解決が近いと思われる未解決命題の件だけど、最近読んだ論文の中に足がかりになるかもしれない言説があったのを今思い出したわ。あ、お邪魔します。ヴィオラはいないの?」
「ヴィオラ、会いたい、可愛い」
「もう寝ているのかしら。寝室はどこ?」
普段のダンならヴィオラが寝ているかもしれない部屋に他人が厚かましく入り込もうする無礼を決して許さないだろうが、アイアイは酔っていようがいまいが己の好奇心にのみ忠実である。
「いないわね」
「ヴィオラ、どこ……。そういえば足がかりになりそうなのって……ボヨン氏のやつだろ……あれ、論拠にしている説の提唱者が最近になって宗旨替えして撤回宣言してたんじゃなかったか……」
「何それ! 詳しく聞かせてちょうだい!」
スッポンにつかみかかられた。前後不覚になっているダンの足はそれに持ちこたえられない。そこで勢いよく扉が開いた。あとはお察しの展開だ。ヴィオラに目撃され、泣かれ、走り去られ、ダンは灰になってエスカに殺されかけた。そうして我に返ってやぶれかぶれの求婚に至ったわけだが、ダンは己の半生を振り返り、終始とんちんかんだったことをようやく自覚したのだった。エスカに奪われなくて本当によかった。なおヴィクトールは完全復活を遂げた。
「やっぱりガンジーラ夫人よ。血のつながりがないか確認してみたほうがいいわね。それから宗旨替えしたコトン氏の件だけど」
「もうそれはいいから。あと離れてくれ」
いろいろ認識を新たにしてみると、それは誤解もされるだろうと頷けるほどアイアイの距離は近い。変人しかいないコミュニティにどっぷり浸かっていたせいで感覚がおかしくなっていた。ダンも変人の一味には違いない。
「アイアイ、この距離での会話は一般的に不適切だと思う」
指摘を受けた本人はきょとんとしている。おそらく数学に関係ない話は脳を素通りする仕組みなのだろう。しかしそれでは困る。あまりにも数学にしか興味がない変態なので、数少ない女性であることなど本人も周囲も忘れているが、狭い世界の外から見ればアイアイはそういえば女性なのだった。
同じ部屋にいた先輩たちが会話を聞いていたらしく、反応を示した。
「それね! まさにそれなのよね!」
女性のほうの先輩がダンの隣に座った。
「最近気づいたんだけど、我々には一般常識がない。いや、うすうす気づいていたけど実はそれが思いのほか大事になりうるということがわかり始めた」
男性のほうの先輩がアイアイを見下ろして言った。まだわかっていない風の後輩に向けて優しく語りかける。
「アイアイ、これまで誰かにいきなり嫌われたり逆にすり寄られたりしたことはないか?」
「そう言われてみると、知らない女の人に突然罵られたり石を投げられたり、討論していたはずの相手がいきなりのしかかってきたり……」
なかなかの前科の持ち主だった。さてはこの手のトラブルが絶えない人生だったのか。それでいて本人はトラブルが発生したことにすら気づいていないので一向に改善しないままここまできたのだろう。
「そうか……実は俺たちにも似たような経験がある」
「えっ」
ダンは思わず先輩たちを凝視した。
「あのね、アイアイ、一般の人は異性に熱い目で見つめられると、性的関係を迫られていると勘違いするものらしくて。たとえそれが数列に興奮しているだけの目であっても」
「そんな……」
さすがに人生の先輩の言葉はアイアイにも届いたらしい。極端すぎる言い分のようにも感じたが黙っておく。そこまではよいが、次いで何かに気づいた顔でアイアイがダンに矛先を向けてきたのには迷惑した。
「ダンくん、悪いんだけどあなた自身には全然性的興味がないというか……どうしてもというなら数式に生まれ変わってきてくれないと」
「こっちも全然そういう興味は持っていないから安心してくれ」
そもそもダンにとって女の子というのも女性というのもヴィオラのみを指している概念なので、アイアイにしろその他の級友にしろ一緒くたに単なる変態としか思っていない。
「ちょっとでもまともな感覚を身につけていきましょう。まあ、わたしにも大して自信がないけど、手伝うから」
「学会なんてところは醜い足の引っ張り合いが日常茶飯事だし、嫉妬うずまく魑魅魍魎の世界だから。社会性は大事だと思うんだ」
偉大な先輩がたが丸く収めてくれて何よりだ。ここに「社会性をはぐくむ会」が結成された。以後、この会は大きく規模を広げていくこととなる。
帰宅すると可愛い幼なじみがいた。
「お帰りなさい、ダン!」
ダンは以前のダンではない。相変わらず脳が沸騰しそうになりつつそれでも奥歯をかみしめてこらえた。今回は二週間ぶりだからというだけでなく、やはり関係が変化したことで余裕が生まれたのだろう。今や可愛い幼なじみは婚約者でもあり、じきに妻になるのだ。
「ただいま、ヴィオラ。会いたかった」
想い合っていながら意思疎通の齟齬により長らくねじれの関係にあったというのはダンにももう痛いほど理解できている。喉奥にとどめていた本音を一度外に出してみれば、驚くほど息がしやすくなった。
ぎゅっと抱きしめてみる。柔らかくて温かくてふんわり夢見心地になった。そのうえ「えへへ」などと可愛い声で呟きながらこちらの背に腕を回してくるヴィオラの耳が赤く染まっていることに気づいてしまうと、たまらなくなる。
キスなんかもしてみる。もっと深くもしてみる。溺れそうだ。やりすぎると理性が元気よく白旗を上げてしまうので引き時が肝心となる。わかってはいるが離れがたい。
「ひとりで来たのか? 危ないことはなかった?」
「大丈夫! 大きな街道ばかりだし、聞くところによるとエスカが治安維持にすごく貢献しているらしくて、平和なものよ」
エスカさまさまである。それでも不安なのでひとりでは来ないでほしい。
これまでも王立大学校の特待生として国から学費や生活費が支給されているが、次の進級とともに研究室に所属することになるため、給与が支払われる立場となる。この地で新婚生活を始めるにあたって支障はない。あと少しの辛抱なのだ。
「はあ……ダン、今日も素敵……好き……」
「お、俺もヴィオラが大好きだ、あ、ああああ愛してる」
余裕が生まれたというのは嘘だった。そんなもの全然ない。今でもエスカには敵わないし学業の夢も道半ばだしヴィオラは可愛い。しかしダンはヴィオラがいればどんなことでもできる気がしてくるのだ。それは幼少期からずっと変わらない。
「可愛いヴィオラ、もう走ってこなくていいよ」
これからは俺が走っていくから。
おしまい
書いてみたら思っていたよりダンがメロメロだった。ヴィオラ可愛いしか言っていない。
投稿が久々すぎて不安でいっぱいなので、拍手からでもどこからでも「ダン見直した」「ダン不憫」「ダンセーフ」「ダンアウト」「エスカ様つよい」などご意見をいただけると嬉しいです。