1.1
ありがとうございました。
けたたましく鳴るスマホのアラームで意識を取り戻した。
僕は寝ていたのか?
そんなことを考えたのは一瞬のことで、僕はまず目を開けてから視界に飛び込んできた光景を理解することに努めた。
天井。
それもよく知っている。
まさかと思い部屋全体を見渡す。
間違いない。
何一つ変わりない、ここは僕の住んでいたアパートの一室だ。
鳴り続けるアラームをようやく止めて、僕はスマホの画面に目を凝らす。
8時30分。
日付は……。
「4月1日…」
その数字を見た瞬間、なんだか浮き上がっていくような、もしくは落ちていくような妙な浮遊感に襲われた。
僕が開けた扉の先、その先に繋がっていた世界。
予想が正しければ…。
それなら急がなくてはいけない。
僕はベットから飛びおり、何着かあるワイシャツから適当に一枚を掴んで着替えを済ませると急いで部屋を出た。
そして駐輪場にあるロードバイクに跨ると、部屋の鍵をかけていないことなど気に掛けず一心不乱に大学へと走り出した。
何もかもがあの日と同じだ。
そう思いながら河川敷の道を進む。
一点の曇りもない空の青も、心地よく降り注ぐ陽の光も、春に薫るこの風も、全てがあの日を再現している。
先輩と出会ったあの日を。
僕がやって来たのは過去の世界なのか、それとも、まさか幻でも見せられているというのだろうか。
なんだってかまわない。
この先に先輩がいるのなら。
『奴はその世界のどこかに存在する』
神様は確かにそう言ったのだ。
それならいる筈だ。
あの日と同じく、大学の裏庭で彼女は待っている。
たとえそれが彼女にとって初めての出会いでも。
僕は行かなくてはならない。
約束したのだから。
大学構内はいつにも増して騒がしかった。
いや、いつにも増して、というのは間違った表現だろうか。
恐らくこの世界では、僕は今日が登校初日なのだ。
しかし、僕はこの光景を見たことがある。
各サークルの勧誘で賑わう桜並木は、やはりあの日と同じだ。
僕は駐輪場でロードバイクを投げ捨てるように置くと、その桜並木を一直線に駆けた。
いくつものサークルがビラを差し出してくる。
投げかけられる言葉はどれも一度聞いたものだ。
それら全てを無視して走る僕に、彼らは各々に不思議がったり、少しだけ不機嫌そうな顔をした。
しかし気に掛けている暇はない。
僕は裏庭へ行かなくてはならない。
そこで『民俗学研究会』の勧誘を受けるのだ。
表の騒がしさを抜けて横道へ入る。
ここはめったに人の通らない、本当に存在感のない小道だ。
あの日、僕がここへ迷い込んだのは偶然というほかない。
だが、今は僕の意志でここへやってきた。
この道を進んだ先に、きっと先輩はいる。
もうすぐだ。
もうすぐ彼女に会える。
息を切らすほどに走り、やがて僕はその場所へ辿り着いた。
背の低い常緑樹に囲まれ、中央には古びた時計台が佇む、寂れた裏庭。
時計台の前にはベンチが一つ。
先輩は、やっぱりそこにいた。
いつかのように鍔の広いトンガリ帽をかぶり、ベンチの前に置いた机の上で文庫本を広げている。
その趣味の悪い帽子は彼女なりにオカルトサークルっぽさを表現したものであることも、その本は誰も知らないような古いSF小説だってことも知っている。
僕はあなたを知っている。
あなたは僕を知っているだろうか。
「……ん」
僕に気が付いた先輩が文庫本から目を離し、顔を上げた。
澄んだ瞳に、まるで初めて会った時の気持ちまで再現されたように僕は緊張した。
熱を感じるほどに真っ直ぐな視線を受け、心臓の鼓動が高鳴る。
「あの…」
「こんにちは」
僕の小さく掠れた声が先輩の言葉にかき消された。
「新入生?」
いつもの優しい微笑みで、先輩は僕にそう言った。
本当に綺麗な笑顔だ。
僕の記憶のどこを探しても、いつだって先輩は綺麗だった。
この人は僕の知る先輩だ。
たとえ僕の事なんか知らなくても、この人は疑いようもなく一条詩織なのだ。
「…そうです」
今度は先輩に聞こえるように言った。
そうです、僕はあなたを見つけました。
約束通り、こうして会いに来たんですよ。
「そう。ねえ、もうサークルには入った?」
「まだ、です」
「それは良かったわ。いきなりだけど、キミはオカルトに興味はあるかしら」
「はい。それはもう、とても」
まるで台本通りというように答える。
先輩との出会いを、僕は今なぞっている。
これから創られるであろう思い出も、かつて先輩と過ごした日々を辿っていくだけに過ぎないのだろうか。
あんなに輝いていた奇跡のような毎日を、僕だけがその結末を知りながら生きていくというのか。
空っぽの先輩の中を、僕は作り物の思い出で埋めていかなくてはいけない。
これが僕の選んだ世界なのか。
「あのね、私、オカルトサークルに所属しているの。『民俗学研究会』っていうんだけど」
「そう、ですか」
「どうかしら、入ってみない?」
「…先輩は死後の世界って信じますか」
「え……?」
しまった。
気持ちを抑えられないばかりに、あまりに不自然なことを口走ってしまった。
しかし、僕は耐えられなかった。
これから体験する喜びや悲しみの全てを、さも新鮮な気持ちで迎えなくてはいけないなんて、そんなの孤島での生活と何が違うというのだろう。
追憶の孤島が消え去る間際、眩い光に願ったのはこんなことじゃない。
あなたと僕には、今までいろんなことがあったんです。
全部二人で乗り越えたんですよ。
この先も、きっとたくさんのことがあるだろう。
でもそれは、二人にとっての新しい思い出であって欲しい。
僕だけが知っている未来なんて、なんの意味もないんだ……!
「信じられないかもしれませんが、神様にだって会ったことがあるんですよ。それから訳の分からない世界に送られて、そこで憧れだった人と過ごして、どんなことも一緒に乗り越えて、それから……」
自分で言っていて笑ってしまいそうだ。
ついさっき僕は先輩ともう一度会えるならそれ以上は望むまいと決心したはずだったのに。
もう泣きそうになってしまっている。
僕はこんな、誰かに用意された幸せなんて求めてなかったんだ。
僕は先輩が好きだ。
先輩の魂が好きだ。
この出会いは、決して運命なんかじゃない。
僕に対して『神様』が施した必然なんだ。
「すみません、僕って時々こんなことを言って人を困らせてしまうことがあって。情緒不安定なんです。全部忘れて下さい。失礼します」
きっと僕は彼女の中に理想を求めすぎてしまうだろう。
彼女に幻滅してしまうかもしれない。
この世界で先輩を幸せにするのは僕じゃない。
もっと純粋に『この世界の彼女』を好きでいられる誰かなのだ。
零れる涙を隠すように、僕は先輩に背を向けた。
さようなら、先輩。
「信じるわ」
裏庭から立ち去ろうと踏み出した僕の足を、先輩の言葉が止める。
僕は振り返った。
先輩の表情にはなんの色もなかった。
ただ真っ直ぐに僕を見据えている。
いつだってそうだ。
この眼差しに捕まってしまったら、僕は逆らうことも出来ずに、ただどこか深い場所に引き入れられるような感覚に身を任せるしかない。
「……え?」
絞り出すようにそう言うのが精一杯で、僕は金縛りのようにそこに立っていた。
「信じるわ、あなたの話。いいえ、信じるしかないのよ」
込み上げる感情を抑えるように先輩は口に手を当て、ふふっと笑った。
「だって約束したんだもの」
柔らかな笑顔の細くなったその目から、一粒の光が落ちた。
それは次々に流れ出ては、春の陽射しを反射して煌めく。
「また見つけてくれて、ありがとう」
表通りから風に乗ってきた桜の花びらが、目の前に舞い降りてきた。
僕はそれをそっと手のひらで受け止める。
先輩はきっと「綺麗ね」と言うだろう。
でもその先は知らない。
神様にだって分からないだろう。
なぜなら僕たちは今、出会ったばかりなんだから。




