不穏な空気
十一月二日、土曜日の夜。
翔太はコンビニのアルバイトを終え裏口から外に出た。夜風が冷たく、十一月の空気は十月よりもずっと肌に刺さる。街路樹の紅葉はすでに盛りを過ぎ銀杏の葉は黄金色からくすんだ黄色に変わり始めていた。アスファルトの上には枯れ葉がカサカサと舞い、街灯の明かりに照らされて影を落としている。
(寒くなったな)
パーカーのポケットに手を突っ込み、翔太は駅へと続く裏通りを歩き出した。この時間になると人通りはまばらでシャッターの下りた商店が並ぶ通りはひっそりと静まり返っている。時折吹く木枯らしが落ち葉を舞い上げ、遠くで電車の通過音が響いていた。
十一月に入ってからというもの、翔太の日常は少しずつ変化していた。美鈴とミギーが毎日のように話しかけてくる。特訓は相変わらず続いているし奈々穂は二人を家に呼んでは料理を振る舞っている。正直、騒がしい。でも──
(まあ、悪くない)
そんなことを考えながら歩いていると、前方の酒場から突然悲鳴が上がった。
「きゃああっ!」
「なんだあの娘!?」
「酒が……酒が全部……!」
酒場のドアが勢いよく開き、数人の客が転がるように飛び出してくる。赤提灯の明かりが揺れ店内からはグラスの割れる音とどよめきが聞こえてきた。
翔太は足を止めた。路地の角に身を隠し、そっと酒場の中を覗き込む。
カウンター席に、一人の少女が座っていた。
黄色の髪。黄色の瞳。黄色の角。頭の左右から生えた二本の角はミギーのものよりもさらに大きく、禍々しいほどに鋭く湾曲している。身長は美鈴よりも低くせいぜい百四十センチくらいだろうか。子供のような体躯に不釣り合いなほど巨大な角が、かえってその存在の異様さを際立たせていた。
少女の前には空の酒瓶が十本以上並んでいる。彼女は手に持った徳利をラッパ飲みしながら、カウンターに突っ伏した店主を見下ろしていた。
「おじさーん、お酒まだー? これじゃ全然足りないよー」
舌ったらずな子供っぽい口調。だが、その体から放たれる威圧感は異様だった。翔太は背筋が凍るのを感じた。肌がピリピリと震える。レベルアップを重ねた今の自分でも目の前の存在がとんでもないやつだということが本能的にわかる。
(やばい。こいつ、ギガンテスキングよりも数段上だ)
酒場の店主は完全に縮み上がっている。他の客はとっくに逃げ出し、店内には少女と震える店主だけが残されていた。
「もう……もうお酒はありません……お代は……その……」
「えー、つまんないの。じゃあいいやお代はこれで」
少女は懐から何かを取り出してカウンターに放った。異世界の金貨だ。現代日本では換金できないことを彼女は知らないのだろう。
店主が困惑している間に少女はふらりと立ち上がった。酔っているのか、足元が少しおぼつかない。そのまま店の外へとふらふら歩き出す。
翔太は息を潛めた。やり過ごそう。刺激しない方がいい。
しかし、少女はぴたりと足を止めた。
黄色い瞳が、路地の角に立つ翔太をまっすぐに捉える。
「あれー? キミ、いい匂いがするね」
にぱっと笑った顔は無邪気そのものだった。でも、その奥にある何かが翔太の本能に警鐘を鳴らしている。
「ギガンテスキングを倒したドラゴンと同じ匂いだ。キミ、あのドラゴンたちと一緒にいたでしょ?」
翔太は黙ったまま、少女を見据えた。
(落ち着け。刺激するな。こいつは間違いなくヤバい)
「へえ、意外と落ち着いてるんだ。普通の人間ならボクを見たら腰抜かすと思うけど」
少女はふらふらと翔太に近づいてきた。子供のような小さな体。なのに一歩近づくごとに空気が重くなる。十一月の冷たい風が路地を吹き抜け、街灯が不気味に揺れた。
「ボクね、ギガンテスキングがやられたって聞いてちょっと興味が湧いちゃったんだ」
彼女は翔太のすぐ目の前で立ち止まった。翔太より頭ひとつ分以上も小さいのに、見下ろされているような錯覚に陥る。
「あいつ、あれでもけっこう強かったんだよ? それを倒しちゃうなんてどんなやつか見に来たの」
黄色い瞳が細められた。子供のような笑顔のまま、その奥の何かが翔太を値踏みするように見つめている。
「キミ、名前は?」
「……平井翔太」
「ふうん。ボクはね、カルメン=フィアンサー。鬼の王だよ」
鬼の王。
その言葉に、翔太は息を呑みそうになるのを必死でこらえた。異世界でも最強クラスの存在。ギガンテスキングですらこの少女の前では雑兵に過ぎないかもしれない。
「へえ、やっぱり怖がらないんだ。面白いねキミ」
カルメンはくすくすと笑った。酒の匂いがふわりと漂う。その笑顔はやはり無邪気で、でも危険だった。
「ねえ、キミ。ちょっと付き合ってよ。ボクこの世界に来たばかりでよくわかんないんだ。酒場のおじさんは震えてばかりで話にならないしさ」
「……何が目的だ」
「目的? 別にないよ。ただの物見遊山」
カルメンはくるりと一回転した。スカートの裾がふわりと舞い上がる。その動きすらも、翔太の目には隙がないように見えた。
「ギガンテスキングを倒したやつがどんなのか、見てみたかっただけ。でもキミは直接倒したわけじゃなさそうだね。キミからはドラゴンの匂いがする。白いのとオレンジのと、あともうひとつ──」
彼女は翔太の胸元に鼻を近づけた。
「青いドラゴンの匂い。なんか懐かしい匂いだなー」
奈々穂のことを言っている。翔太の背筋に冷たいものが走った。
「まあいいや。今日はもうお酒飲んだし、満足」
カルメンはあっさりと翔太から離れた。街灯の下で黄色の髪がふわりと揺れる。
「また会おうね、平井翔太。ボクキミのこと気に入っちゃった」
それだけ言い残すとカルメンは夜の闇に溶けるように消えていった。小さな後ろ姿はあっという間に見えなくなり、路地には翔太だけが取り残される。
十一月の木枯らしが吹き抜けた。落ち葉がカサカサと足元を転がっていく。
翔太は大きく息を吐いた。掌にはじっとりと汗が滲んでいる。
(鬼の王、カルメン=フィアンサー。物見遊山だって? 嘘だな)
何か目的がある。それは間違いない。ギガンテスキングを倒したことに関心を持ったと言っていたが、本当の狙いは別にある気がする。
翔太はスマホを取り出した。美鈴とミギーに連絡すべきか迷ったが、夜も遅い。とりあえず今日は家に帰ろう。
夜空を見上げると、十一月の月が冷たく輝いていた。街路樹の紅葉はもう終わりかけ枝だけになった木々が冬の到来を告げている。




