第7章 理解しがたい追跡
アリサの執務室は、いつも整っていた。
だが今日は違う。
机の上に、帳簿が三冊ある。
三冊。
アリサの基準では、混乱に近い。
「過去五年分の穀物取引記録です」
アリサは言った。
俺は椅子を引いた。
自然にそうした。
婚約していた頃の癖が、まだ抜けていない。
「差分は三年前から始まっている」
「凶作の前から、だな」
「はい」
アリサは一枚の紙を出した。
数字が並んでいる。
報告数量。実取引量。その差。
細い。
一見して気づかない。
だが。
「絞り方が、一定だ」
俺は呟く。
前世の記憶が動く。
在庫操作の教科書みたいな数字だ。
一度に絞らない。
少しずつ。
毎月、少しずつ。
「誰かに指導されている」
「同じ結論です」
アリサは別の紙を出した。
主要穀物商、三家の取引記録。
「この三家、動き方が同じです」
「横並びか」
「誤差が、小さすぎます」
俺は紙を並べた。
確かに。
三家の在庫の絞り方が、ほぼ同じタイミングで、ほぼ同じ量だ。
偶然ではない。
「誰かが指示している」
「はい」
「そいつを特定できるか」
アリサは少し間を置いた。
珍しい。
「資金の流れを追えば、可能です」
「追えるのか」
「会計局の権限で、三家の決算書を請求できます」
「商人が出すか?」
「非常時条項が、まだ生きています」
俺は小さく笑った。
この女は、使える権限を全部把握している。
死んでいる条文も、生きている条文も。
「決算書を取り寄せて、資金の流れを追う。行き着いた先が黒幕だ」
「そうなります」
「時間はかかる」
「三日、いただければ」
三日。
前世の俺が言う。
監査で三日は、奇跡的に早い。
「……手伝う」
「承知しています」
即答だった。
承知している、ではない。
最初から、そのつもりだったのだ。
俺は帳簿を開く。
数字が並ぶ。
嘘をつかない数字が。
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「議会に、ヴェルナー・グロスという議員がいる」
アリサの手が、一瞬止まった。
一瞬だけ。
「知っているか」
「古参の議員です」
「それだけか」
「今は、それだけです」
今は。
その言葉が引っかかった。
前世の監査員が言う。
証拠を固める前に、名前を出すな。
わかっている。
だが。
「アリサ」
「はい」
「三年前、穀物取引の制度改正があった」
「はい」
「その審議委員会の議事録、取れるか」
アリサは俺を見た。
無表情だ。
だが、目の奥が少し動いた。
「取れます」
「頼む」
アリサは立ち上がった。
迷いがない。
この女はいつも、迷いがない。
俺は帳簿に目を戻す。
数字の川が、細く流れている。
三年前から、誰かが意図的に絞ってきた川が。
その川の源流に、ヴェルナー・グロスがいる気がしてならない。
不幸な男だ、俺は。
数字のモンスターと並んで、
帳簿を読んでいる。
そして、これが、
悪くない。




