第1章 理解しがたい彼女
俺は転生者だ。
だが、転生者でも、家が政治的に失脚すれば、王宮から追われる。
そこに例外はない。
穀物課税が火を噴いた。
値段が跳ね、怒号が跳ね、最後は民が跳ねた。
暴動だ。王都は慣れていない。王宮はもっと慣れていない。
宰相家は責任を取った。――つまり俺の家だ。
「責任を取る」と言えば聞こえはいいが、実態は“首を差し出せ”である。
前世で言うなら、監査で爆弾が出た瞬間に「経営陣総入れ替え」みたいなものだ。
わかりやすい。最悪にわかりやすい。
俺はその夜、荷造りを終えた。
王宮の廊下を歩く音が、やけに静かだった。
人は多いのに、音がしない。
全員が「関わりたくない」と思っているとき、宮廷は驚くほど静かになる。
……問題は、静かに追い出されることではない。
婚約まで片づけてしまったことだ。
俺の婚約者は、王宮会計局の局長――アリサ・フォン・カレンベルク。
若い。優秀。無表情。
そして、俺の中でいちばん説明がつかない存在。
転生前の俺は会計監査員だった。
その記憶が、目の前の現実にいちいちツッコミを入れてくる。
政治で失脚? あるある。
暴動? あるある……いや、ない。
そして今から婚約解消? それは、あるあるで済ませたくない。
でも、済ませるしかない。
失脚した宰相家の息子が、王宮会計局長の婚約者で居続ける。
政治的に危険。
利害関係的に危険。
噂的に危険。
つまり――合理的に危険。
俺はアリサの執務室を訪ねた。
彼女の部屋は、いつも整っていた。
整いすぎて、逆に怖い。
机の上に紙がない。あるのは書類の束ではなく、束の“順番”だ。
そしてその順番が、俺には絶妙に気持ち悪い。
監査員の勘が言う。「ここ、何か隠してる」。
隠してないのに、隠してるように見える。最悪だ。
「レオン様」
アリサは席を立たない。立つ必要がないからだ。
彼女は俺が来ることを知っていたように見えたし、知らないようにも見えた。
感情の動きがゼロなので、判断材料がない。
「失脚の件は――」
「承知しています」
即答。
事務。
その“承知”に、慰めも同情も含まれていない。
だが、拒絶もない。
俺は一枚の紙を差し出した。
婚約解消書。
これを出した瞬間、俺の前世が叫ぶ。
資金流用ダメ、それ絶対。
……いや、いまのは違う。
でも“本当に必要なときだけ切るカードを、軽く切るな”って意味では、同じだ。
アリサは受け取った。
目を走らせた。
署名した。
返した。
「合理的ですね」
それで終わった。
普通の令嬢なら、少しは揺れるはずだ。
怒るとか、泣くとか、皮肉を言うとか。
そういう“人間っぽい手続き”を挟んでくれれば、俺にも言い訳ができる。
「すまない」
「巻き込みたくなかった」
「これは政治だ」
……そういう、便利な台詞が使える。
だが彼女は、台詞を俺にくれない。
婚約は、帳簿の一行みたいに消された。
俺の胸だけが、置いていかれる。
王宮を出る日が来た。
馬車に乗り込む直前、俺は一度だけ振り返った。
高い窓。白い壁。冷えた石。
あの部屋の灯りは、もう落ちているはずだ。
俺は自分の部屋に戻り、机の上の灯りを落とす。
闇の中で、はっきりする。
彼女は、俺を数字として見ている。
そして俺は――その冷たい評価から、逃げられない。
逃げたくもない。
不幸な男だ、俺は。
この世で一番奇怪な数字のモンスターを、なぜか愛してしまっている。




