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第十六章 計算不能の信頼

演算人形を退けた一行は、中央統制塔の最上層へと続く最終連絡通路に差し掛かっていた。

 ここから先は、もはや「階層」という概念すら曖昧になり、周囲の壁は剥き出しのバイナリ・データが激流のように流れる光の奔流へと変わっていた。


一歩踏み出すごとに、自身の存在定義がデータレベルで書き換えられそうになるほどの重圧が、物理的な痛みとなって全身を襲う。


だが、その重圧以上に彼らを苦しめていたのは、終わりなき「予測」の網だった。

 ここまで来るのに、どれほどの傷を重ねてきたか。ボルグの盾は無残にひび割れ、セリアの鉄パイプは無様に歪み、ディノの眼鏡には亀裂が走り、イリスの剣は今にも折れようとしている。

 カイの脳内演算回路は、常に「臨界点」の直前で過熱し続けている。それでも全員が、折れることなく前を向いていた。


「……また、来たわよ。……今度は、一体何なの」


イリスが、震える手で折れかけた剣を必死に構え直した。


通路の先に、かつての演算人形よりも巨大で、より完成された死のシルエットが浮かび上がる。それは「センチネル・プライム」。この塔の管理者が、最後の一人まで確実に根絶するために用意した、究極の適応型防衛プログラム。


センチネル・プライムは、攻撃を仕掛ける前から、カイたちの行動を「確定」させていた。彼らがどの一歩を踏み出し、どのタイミングで肺を膨らませ、どの角度で絶望を振り下ろすか。そのすべてが、数億通りのシミュレーション結果として、すでに敵のメモリに「不可避の未来」として書き込まれている。


この場所まで来るまでに、カイたちの行動履歴はすべて、管理者の糧として積み上がっているのだ。スクラップ・バレーからの死闘、ハックの手法、個々人の癖、イリスとのデュアル・オーソリティの連動パターン。ボルグが盾を捨てて素手で突っ込むという「想定外」の行動さえ、今や既知の変数として冷徹に登録されている。


カイが絶望的な予測の網に気づいたのは、最初の攻撃が虚しく弾かれた瞬間だった。


「排除確率、99.999パーセント。……抵抗はリソースの無駄であると定義する」


センチネルの冷徹な声が、空間そのものを震わせ、鼓膜を直接揺らした。


「……っ、そんなの、知ったことじゃないわよ! ……はぁっ!」


セリアが地を蹴り、黄金の残像を残して肉薄する。だが、彼女が剣を振り下ろすまさにその刹那、センチネルは「すでにそこに刃が来ることを知っている」かのように、最小限の予備動作で回避し、致命的なカウンターを放った。


「あ……がっ……!」


セリアの体が、激しい火花と共に弾き飛ばされる。


続いてボルグが盾を構えるが、敵の放つレーザーは盾の「反射周期」を完璧に読み切り、反射が途切れる一千万分の一秒という神速の隙間を正確に射抜いた。


「ぐわぁぁぁぁぁっ!」


盾が焼き切れ、ボルグが屈辱に膝をつく。

 ディノの放つ魔力弾も、まるで最初から当たるつもりのない虚空へ放たれたかのように、センチネルの周囲を虚しく通り抜けていく。


「……カイ。……ダメだ。……全部、読まれてる。僕たちの動きが、あいつの頭の中の『台本』を、なぞらされているみたいだ……!」


ディノが、絶望に震える声で叫ぶ。


カイは、脳内のコンソールを凝視した。

 これまでの戦闘データ。仲間の癖。および、自分自身の思考ルーチン。センチネルは、それらすべてを「正規分布」として扱い、もっとも可能性の高い行動を先読みしている。


カイが論理的に、最善の指示を出せば出すほど、その指示は「予測可能な餌」となって敵を強化する燃料になってしまうのだ。


「……そうか。……お前が読んでいるのは、俺の『論理ロジック』だな」


カイの口元に、不敵な、および熱い笑みが浮かんだ。

 前章で得た確信が、ここで真価を発揮する。「感情という変数は予測できない」――それはセンチネル・プライムにも当てはまる絶対のバグだ。

 だが、今回は前回よりもさらに一歩踏み込む。カイが手を放すだけでなく、仲間の「生の熱量」を積極的にシステムへ叩き込むのだ。


カイはコンソールの全機能を停止させ、仲間たちの前に一歩、力強く歩み出た。


「みんな、聞け。……これから、俺の指示は一切無視しろ。……自分の心臓の鼓動ビートだけに耳を澄ませろ」

「……え? どういうことよ、カイ」


イリスが怪訝そうに問いかけ、ボルグが「は、はい!」と即答する。セリアが「珍しくデタラメな命令ね」と笑い、ディノが「僕の感覚を信じていいってこと?」と瞳に光を宿した。


「ああ。お前たちの、そのうるさい心臓の鼓動が、今日一番の武器だ」

「論理的な行動は、予測できる。……だが、俺たちが今、何に憤り、何を愛し、何を信じてその一歩を踏み出すか……。そんな『不確実な情熱』を、あいつの冷たいメモリが処理できるはずがないんだ」


カイは、ノアに最後の、およびもっともデタラメなハックを命じた。


「ノア。……俺たちの『心拍数』と『情動変化』を抽出して、それを乱数ランダムのシード値として全システムに流し込め。……俺たちの『熱』で、あいつの演算回路を根底から狂わせてやる」

「……了解。……未知の変数、……『信頼トラスト』を基底とした非決定性アルゴリズムを構築します」


ノアがコマンドを実行した。妨害され、削り取られた演算回路のすべてを注ぎ込んで――カイたちの心臓の音を、コードに変えた。数字ではなく「感情」を変数にする計算。かつてのノアには理解し得なかった、命の重さを伴う演算。


カイの指先から、黒いノイズではなく、温かな橙色の光が仲間たちへと伝播した。


[ SEED = HEARTBEAT_VARIABILITY(TEAM) ]

[ ACTION_TIMING = RANDOM(SEED) ]

[ ATTACK_PATTERN = EMOTIONAL_SYNC ]


「……実行エンター


その瞬間、センチネルの動きが、目に見えて困惑するように鈍った。


「……うおおおおおおお!!」


ボルグが、恐怖を咆哮に変えて、完全に無防備なまま突っ込む。盾を投げ捨て、素手で――血の滲む拳で――センチネルに殴りかかった。


「……はぁぁぁぁぁぁっ!」


セリアが、愛しき日々を胸に抱き、舞うように鉄パイプを振るう。そこには騎士道の型も合理性もない。ただ「今、この瞬間の意志」を乗せた一閃。


「……仲間を、信じて!」


ディノが目を閉じ――そして、力強く開けた。UIオーバーレイを使い捨て、フィルタなしの剥き出しの現実を直視しながら、仲間への絶対的な信頼だけを杖に乗せて、純粋な魔力を解き放つ。


怖い。高解像度の現実が脳を灼く。だが、隣にノアがいる。セリアの光が見える。ボルグの背中が見える。カイとイリスが共に跳ぶのが見える。一人じゃないなら、この目は開けていられる。


それらの行動には、何の合理性もなかった。だが、その「魂の叫び」が、物理的な破壊のエネルギーとなってセンチネルを襲う。


[ WARNING: INPUT_DATA_IS_NON_DETERMINISTIC ]

[ WARNING: PREDICTION_MODEL_CRASHED ]

[ ERROR: IRREVERSIBLE_HUMAN_VARIABLE_DETECTION ]


「……な、……ぜだ……。なぜ、……防御を捨てて、……笑いながら向かってくる……!?」


センチネルの合成音声が、初めて恐怖のノイズで激しく歪んだ。


「……それが、お前たちが『ゴミ』として切り捨てた、俺たちの唯一の武器だ!」


イリスが、カイの手を砕かんばかりに強く握り、共に空へと跳んだ。

 二人の心拍が、一つの激しいリズムで共鳴する。


カイはイリスの手を握ったまま、飛翔した。デュアル・オーソリティのため――そんな言い訳は、もう心の中のどこにも存在しなかった。ただ、この女と一緒に跳びたかった。それだけが、今のカイの全真実だった。


イリスの横顔が見えた。光の激流の中でも、彼女は決して目を逸らさない。怖いだろうに、凛として前を見据えている。その姿を、カイは心に焼き付けた。


その瞬間、センチネルの予測モデルは完全に崩壊した。

 イリスの剣が、予測の網を物理的に切り裂き、センチネルの中核コアを真っ向から断ち割った。


激しい爆発が連絡通路を震わせ、最強の守護者が光の塵となって消え去っていく。

 通路に、束の間の、静謐な静寂が戻った。


カイとイリスは、まだ手を繋ったまま着地した。イリスが気づいて、そっと、名残惜しそうに手を引いた。カイも気づいていたが、自分から離すことはできなかった。


戦闘の後、一行は通路の隅にある、小さな管理用の空洞へと逃げ込んだ。システムの死角。


「……はぁ、……はぁ……。……死ぬかと思ったわよ、本当。……あんなの、二度とやらないんだから」


セリアが床に大の字になって倒れ込む。首元の青いペンダントが、冷たい床の上でかすかに揺れた。ボルグも、ひび割れた盾を枕に大きく息を吐く。拳にはノイズの焼け跡が痛々しく残っていた。


「……ボルグ、手、大丈夫?」

「……痛いですけど……勝てましたから!」


セリアが「バカね」と微笑んだ。その声は、春の風のように柔らかかった。


「……でも、勝てたんですね。……計算じゃなくて、僕たちの『気持ち』で」


ディノが、少し照れ臭そうに、誇らしげに笑った。


カイは壁に背を預け、真っ白になった思考を休ませていた。もう、かつての「駒」を監視する冷酷な目は、どこにもなかった。

 仲間の睦まじい光景に、余計な演算をかけない。ただ、見ているだけで脳の冷却が早まるような、不思議な安らぎを感じていた。


そこへ。


「……カイ。……これ、食べなさい」


イリスが、いつの間にか取り出していた保存食のリンゴを、不器用にナイフで剥き始めた。

 カイはその動作を、吸い込まれるように見つめていた。


折れかけた剣を握り、ボロボロの鎧を纏った戦乙女が、今、震える手でリンゴを剥いている。皮の剥き方は不格好で、削り取られた実が痛々しいほど不揃いだ。


なぜ、リンゴだったのか。この局面で、それは合理的な選択ではない。だが、イリスは持っていた。カイに食べさせるために、ずっと隠し持っていたのだ。


「……なんで、持ってるんだ。そんなもの」

「……うるさいわね。いいから、黙って食べなさい」


イリスは、耳まで赤くして、一切れをカイの口元に突き出した。


「……エネルギー効率を考えれば、そのままかじった方が――」

「うるさい!」


カイは黙って、その一切れを口に運んだ。

 シャリ、という鮮烈な音。口の中に広がるのは、最適化された味気ないシミュレーションではない。少し酸っぱくて、けれど驚くほどに温かい、本物の生命の瑞々しさ。


「……どう? 感想は?」


イリスが、期待と不安に瞳を揺らしながら覗き込んでくる。


「……計算外だな。こんなに不揃いなのに、……今まで食べたどんなものより、甘く感じる」


そのとき、カイは確信していた。この「甘さ」は、糖分の数値ではない。誰かが自分のために心を込めてくれたという、計算式には存在しない、人間だけが味わえる至高の変数だ。


イリスはパッと顔を輝かせ、すぐにそっぽを向いた。


「……ふん。当たり前でしょ、私が剥いたんだから」


彼女自身も一切れを口にし、二人は暗い通路の中で、静かに、および確かな幸福を分かち合った。カイは笑いそうになるのを、必死にこらえていた。


その光景を、仲間たちはそれぞれの想いで見守っていた。

 セリアは天井を見上げ、「正直ね」という言葉を胸に仕舞った。ディノはUIオーバーレイ越しに二人をチラ見し、ボルグは盾で顔を隠してニヤけていた。ノアだけが「幸福指数の上昇を確認」と、静かに記録を刻んだ。


「……カイ。塔の頂上まで、あと少しね」

「ああ。リアナを救い出し、……このクソみたいなルールを、全部デリートしてやる」


イリスは少し間を置いてから、「……リアナさんに、会えるのね」と言った。それは、共に喜ぼうとする、優しさに満ちた声だった。


「ああ。……お前にも、紹介する」


イリスは目を丸くし、顔を赤くして「……べ、別に、そんな必要は……」と狼狽えたが、その赤くなった耳が、すべての喜びを物語っていた。


カイは、自分の手を見つめた。

 もう、冷たい数式だけを握っているわけではない。リンゴを分け合い、共に笑い、共に傷つく、代えがたい仲間の温もりが、そこにはあった。


「……カイさん。さっき、イリスさんの手、握ったまま跳んでましたよね」


入り口でディノが小声で突っ込んできた。


「……作戦上の必要性だ」

「……でも、終わった後も握ってましたよ」

「……計算の名残だ」

「……そうですか」


ディノの小さな笑い声が響く。カイは何も答えなかった。

 ボルグが無邪気に「カイさん、顔が赤くないですか?」と追い打ちをかけ、カイは「脳の過熱だ」と言って、強引に会話を打ち切った。


計算不能の信頼。管理された世界で、唯一管理できない「心」という名の究極のバグ。

 それが今、神の心臓を射抜くための、最強の刃へと昇華されようとしていた。


リアナを救うためのチェックメイトまで、あと一手。


カイは管理用空洞の出口の先、塔の頂を見据えた。リアナ、およびヴァニッシュ。


「掌の上で踊っていたとしても、俺は今、お前の想定外の場所に立っている」


イリスが、そっと隣に寄り添った。

「……私も、一緒に立ってるわよ」


それで十分だった。決戦の幕が、静かに、そして熱く上がろうとしていた。


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