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第十五章 リアルタイム・パッチの嵐

昇降機ロビーに漂う空気は、絶対零度の静寂に支配されていた。


目の前に立つ「演算人形カルキュレーター」の少年は、瞬き一つせず、虚空に投影された数億行のソースコードを、ただその無機質な瞳の中に流し込み続けている。

 彼の存在そのものが、この中央統制塔における「修正パッチ」の具現。カイがどれほど鋭い世界の穴を見つけたとしても、この少年がそれを認識した瞬間に、その穴は「最初から存在しなかったこと」に書き換えられるのだ。


「……排除プロセス、フェーズ2へ移行。……全規約ルール、ライブ・アップデートを開始」


少年の唇から漏れたのは、声ではなく、血の通わないただの処理ログだった。


カイは、その少年の瞳を真っ向から見据えた。昨日の自分自身の「鏡」。

 今は――その鏡の前に立って、「自分はもうそこにはいない」と確信することができた。何の迷いもなく、そう感じることができた。


その瞬間、ロビーの壁面を走る光のラインが、冷徹な青から不吉な深紅へと塗りつぶされた。


先陣を切ったのはセリアだった。黄金の光を極限まで圧縮し、鉄パイプを正眼に構える。

 彼女のHPは現在、カイの微細ハックによって「10パーセント」の境界線上に危うく維持されている。ステータス1万倍。神速の一閃が少年の首筋を狙って放たれた。


だが、衝撃が走る直前。少年の瞳の中で、一列のコードが物理的な質量を伴う速度で書き換えられた。


[ PATCH: CLASS_KNIGHT / ABILITY: DEAD_END_GLORIA ]

[ STATUS: HOTFIX_APPLIED / HP_THRESHOLD_CHANGED TO 5% ]


「……なっ!?」


セリアの体が、振り抜く直前で急激に鉛を流し込まれたかのように重く沈んだ。

 強化の条件である「10パーセント以下」という規約が、攻撃が届くまさにその刹那に「5パーセント以下」へとリアルタイムで変更されたのだ。


今の彼女のHPは10パーセント。条件から無慈悲に外された彼女の力は、一瞬にして赤子同然の弱体化状態へと引き戻された。


「……ぐ、あ……っ!」


力の抜けたセリアを、少年の背後から伸びた影の腕が容赦なく弾き飛ばし、壁へと叩きつけた。


「セリア! ……ボルグ、反射壁で援護しろ!」

「わ、分かりました! 反射リフレクト、展開!」


ボルグが盾を突き出し、少年の放った衝撃波を跳ね返そうとする。カイが魂を削って仕込んだ「反射コード」が起動するはずだった。


[ PATCH: CLASS_GUARDIAN / ABILITY: REFLECT_KINETIC ]

[ STATUS: HOTFIX_APPLIED / REFLECT_RATE SET TO 0% ]


「……嘘だろ!?」


ボルグの盾が、衝撃を反射することなくそのまま無残に粉砕された。

 「反射率100パーセント」というカイの絶対的なハックに対し、少年は「反射率0パーセント」という修正パッチを、わずかコンマ数秒でぶつけてきた。


ボルグの巨体が背後の壁まで吹き飛び、凄まじい落石の音を立てて埋もれる。


「……カイ。……ダメです。……あいつ、僕たちの手の内を読んでいるんじゃない。……僕たちが何か行動を起こすたびに、世界の方を『あいつに都合よく』書き換えているんだ……!」


ディノが目を剥き、震える手で杖を構えた。彼のUIオーバーレイも、今はジャミングのノイズだらけだ。


「……リアルタイム・パッチ。……昨日までの攻略本が、数秒でゴミに変わる戦場か」


カイの額から、脂汗が滴り落ちる。

 脳内のコンソールをどれほど高速で回しても、敵は「結果」が出る前に「前提条件」を根底から書き換えてくる。


これは知略の勝負ですらない。システムの編集権限を独占した神との、あまりにも不公平で残酷な「修正ごっこ」だ。

 第二階層のオーバーフロー戦術――パッチ済み。ボルグの反射壁――パッチ済み。セリアのHP固定――パッチ済み。ディノのUIオーバーレイ――ジャミング中。ノアの演算権限――80パーセント妨害中。


これまでの旅で、仲間と共に積み上げてきたすべての「武器」が、一つ残らず、ゴミのように無効化されている。


「……カイ。……私の演算回路も、80パーセントが敵のパッチによる妨害ジャミングに割かれています。……このままでは、あと三分の滞在で、私たちの存在データそのものが『修正』され、この世界から消滅します」


ノアの瞳が、死を宣告するような警告の赤色に染まっていた。


カイは脳内で、すべての選択肢を、脳が焼ける速度で走らせた。

 攻撃すればパッチされる。防御してもパッチされる。ハックを仕込んでもパッチされる。


ならば、パッチされない行動とは何か。演算人形は「カイが論理的に選ぶ最善手」を完璧に予測している。ならば最善手でない手を打てばいい――だが、それを「論理的に選ぶ」瞬間、それもまた最善手として予測の檻に閉じ込められてしまう。


残り三分。演算領域20パーセント。次の一手が、最後の一瞬だ。それが分かっているから、余計に「正しい一手」という呪縛に囚われてしまう。


思考の無限ループ。カイの脳が、初めて自分自身の論理に詰まった。

 これまでカイが「詰まれた」のは、常に外部の敵に対してだった。だが今、この閉塞感は――自分自身の思考回路が、自分を封じている。


「最善手を探す」という行為そのものが、敵の予測精度を100パーセントにまで高める燃料リソースになっているのだ。


どうする。どうすれば。この論理の檻をどう壊せばいい――。


「……っ、そんなこと、させるわけないでしょ!」


イリスが剣を抜き、カイの前に立ちはだかった。


「カイ! 何とかしなさいよ! あんたのあのデタラメな知恵は、こういう絶望的な時に使うためにあるんでしょ!」

「……分かっている。……だが、……計算が、……追いつかないんだ……」


カイは、自分の指先が屈辱的に震えているのに気づいた。

 論理的に考えれば考えるほど、この敵に勝つ方法は「存在しない」という絶望的な結論が導き出される。カイがAを打てば無効化され、Bを隠せば事前に消去される。


完璧なロジックは、より上位の権限によって、ただの紙屑へと変えられていく。


「……あ、……あぁ……」


カイの視界が、一瞬、真っ白に弾けた。

 脳のオーバーヒート。これまでの度重なる過剰な演算が、彼の精神を限界まで摩耗させていた。


「排除対象、カイ。……お前の論理は、すでに我々の予測モデル内に完全に収束した。……お前に残された未来は、ゼロだ」


演算人形の少年が、初めて感情の欠片もない冷たい視線でカイを射抜いた。彼の手が、最終的な消去命令デリート・コマンドを下そうと、死神の鎌のようにゆっくりと掲げられる。


その時だった。


「……バカじゃないの」


背後から、イリスの呆れたような、けれどどこか泣きたくなるほど優しい声が聞こえた。

 彼女は、カイの震える肩を、後ろから強く抱きしめた。


「イ、イリス……?」

「あんたさ。……何でもかんでも一人で計算して、全部一人で背負って……。……それで失敗して泣き言とか、本当に可愛くないわよ」


イリスの体温が、カイの冷え切った背中に熱を持って伝わってくる。その温かさは、エラー領域の泥の中で、絶望の淵にいたカイを引き上げたあの温度と同じだった。

 あの時もこの女は、計算でも義務でもなく、ただ自分の意志でそこにいてくれた。


カイは、その熱に触れた瞬間――思考の無限ループが、嘘のように、ふっ、と停止した。


「あんたが言ったんでしょ。……ルールは壊すものじゃなく、利用するものだって。……だったら、利用しなさいよ。……予測不可能な、この『最高のバカ騒ぎ』を!」


カイは、大きく目を見開いた。

 イリスの向こう側で、血まみれのボルグが立ち上がり、不器用に、けれど誇らしげに笑っている。

 セリアが、自分の意志でHPをさらに削り、死に物狂いの賭けに出ようとしている。

 ディノが、杖を逆手に持ち、魔法を「撃つ」のではなく「殴る」ための鋼鉄の棒として構え直している。


「……あ。……あぁ。……そうか」


カイの脳内で、真っ白だったはずの数式が、再び激しく、および「汚く」躍動し始めた。

 完璧なロジックを、敵は予測する。なら、論理的な最適解を、今ここで捨てればいい。軍師として、全員を完璧にコントロールすることを、今、やめればいいんだ。


信頼する、ということは――こういうことだったのか。精密な指示を出すことではなく、ただ「あいつらを信じて、手を放す」ということ。

 エラー領域でイリスに突きつけられた言葉が、今ここでやっと、カイの血肉となった。


「……ノア。……パッチ耐性をすべて放棄しろ。……残りの演算リソースすべてを、ただ一つの命令だけに注ぎ込め」

「……カイ? ……それでは、私たちは完全に無防備に……」

「構わない。……俺たちの『感情』という名の、世界最大級 Benson バグを、この閉鎖された空間ディレクトリにぶち撒けてやるんだ」


ノアは一瞬だけ、慈しむようにカイを見た。そして――実行した。

 演算回路の80パーセントが妨害されている最悪の状態で、残り20パーセントを全部、このデタラメなコマンドに注ぎ込んだ。


管理者のパッチは「ノアの論理」を妨害している。だが、ノアが今から実行するのは――論理ではない。それは剥き出しの「熱」だ。パッチノートでは決して定義できない種類のコードだった。


カイは、最後のリソースを使って、これまでで最もデタラメなコマンドを生成した。それは攻撃でも、防御でも、ハッキングですらない。

 ただ、仲間たちの脳内に、一つの「不確定な熱」を強制共有させるだけの、あまりにも非効率なコード。


[ EMIT: UNKNOWN_VARIABLE( EMOTION ) ]

[ ACTION: DISREGARD_LOGIC ]

[ STATUS: LET_THE_WILL_REIGN ]


「……実行エンター


その瞬間、カイの精密な指示系統は完全に消失した。

 だが、それと同時に、仲間たちの動きが「異常」なまでの加速を見せた。


「……うおおおおおおお!!」


ボルグが、防御の規約ルールを完全に無視して、無謀な肉弾戦を仕掛ける。粉砕された盾を投げ捨て、素手で演算人形に殴りかかった。論理的には自殺行為だ。反射壁なしで殴れば、ただカウンターを受けるだけ。

 だがボルグは殴った。なぜか――ただ、カイを守りたかったからだ。それ以上の理由など、ここには必要なかった。


「……はぁぁぁぁぁぁっ!」


セリアが、強化条件など鼻で笑い、ただ「切りたい」という本能だけで、原型を留めない鉄パイプを滅茶苦茶に振り回す。その軌道には、もはや剣技の合理性など塵ほどもなかった。

 弱体化状態のはずの彼女の瞳は、これまでのどの瞬間よりも鋭く輝いている。「死の淵で最強になる女」が、今は強化というパッチを借りず、ただ「生きている」という執念だけで動いていた。


「……もう、どうにでもなれ!」


ディノが、ターゲットマーカーを見ることなく、ただ感情の爆発のままに魔力を放射する。

 UIオーバーレイを使わない、フィルタなしの剥き出しの魔力放出――かつてのディノなら、その情報の暴力に精神が崩壊していただろう。だが今は違った。ノアの声を、仲間の熱を、信じるべき「現実」を知っていたから。その魔法は、完全な「ノイズの嵐」となってロビーを飲み込んだ。


演算人形の少年が、初めてその貌に狼狽の色を浮かべた。

 彼の瞳の中で、エラーメッセージが狂ったように明滅する。


[ WARNING: ACTION_NOT_PREDICTABLE ]

[ WARNING: LOGIC_MODEL_FAILURE ]

[ ERROR: UNKNOWN_VARIABLE_OVERFLOW ]


「……な、……ぜだ……。……予測、……できない……。……なぜ、……負けると分かっている行動を……、……そんな、非効率な……動きを……っ!」


「……それが、人間だ。……バカ野郎」


カイは、混乱の渦中にある少年の目の前に、イリスと共に踏み込んだ。

 彼はもはや、キーボードを叩いていない。イリスの手を強く取り、彼女の剣に自分の「意志」を全乗せする。二人のデュアル・オーソリティが、最後の一撃の触媒となった。


「パッチを当てるのは勝手だが、……俺たちの『熱』に、お前の言葉コードが追いつくと思うなよ!」


イリスの剣が、演算人形の心核コアを真っ向から貫いた。

 システムの「最適解」を、人間の「不確定性」が、力ずくで、泥臭くねじ伏せた瞬間だった。


演算人形の少年は、自分がなぜ敗北したのかを理解できないまま、無数のエラーログとなって霧散していった。

 最後の一瞬、その瞳に――初めて、「なぜ」という疑問のような、人間らしい何かが宿った気がした。

 カイには、そう見えた。その問いを持てたなら、お前はもうただのロジックの塊ではないのだ。


ロビーを覆っていた死の深紅が消え、再び元の無機質な白が戻ってくる。


「……はぁ、……はぁ、……はぁ……」


カイは力なく膝をつき、肩で激しい呼吸を繰り返した。仲間たちも、限界を超えた代償に床に倒れ込んでいる。


「……ボルグ、素手で殴るとか何やってんのよ」とセリアが、笑いながら毒づいた。

「……実も、ちゃんと当たったじゃないですか!」とボルグが、顔を赤くして答えた。

「当たったんじゃないわよ、あんたの鉄拳が怖すぎてパッチの演算が追いつかなかったのよ」

「……そんな」


ディノが「ノア、無事ですか」と横に駆け寄り、ノアが「はい。……でも、少しだけ、疲れました」と答えた。「少し疲れました」というノアの言葉に、全員が声を合わせて笑った。

 その顔には、かつてないほどの達成感と、血の通った絆の色が宿っていた。


「……最悪の、デタラメな作戦だったわね。……でも、……最高にスッキリしたわ」


イリスが、額の汗を拭いながらカイに手を差し伸べた。その手はまだ微かに震えている。カイには分かっていた。それが恐怖ではなく、共に勝利を掴んだ者の武者震いであることを。


カイはイリスの手をしっかりと取り、立ち上がった。

 立ち上がりながら、少年が霧散した場所を見つめた。あの少年は、最後まで「感情」という変数を処理できなかった。それはかつての自分そのものだった。


だが、今のカイの脳内コンソールには、数式だけではない「形のない熱」が混じっている。それがなければ、この勝利は万に一つもなかった。

 カイが「手を放した」からこそ、あいつらは自分の意志で動いたのだ。軍師が盤面を捨て、一人の「仲間」になった瞬間に、世界は動いたのだ。


「……ああ。……計算外だ。こんなに泥臭い勝利が、……これほどまでに心地いいなんてな。……全部、お前たちのせいだぞ、全く」


誰かが笑い、それにつられて全員が笑った。


リアナを救うためのチェックメイトまで、あと二手。

 もはや、管理者のパッチノートに怯える必要はない。彼らは今、世界で最も予測不能な、および愛おしい「バグ」として、最後の上昇を続ける。


「カイさん、次――どこへ行くんですか?」


ディノが、自分の意志でUIオーバーレイをオンにしながら聞いた。


「……上だ。ずっと、ずっと上だ」


それだけで、仲間たちは「了解」と頷き、歩き出した。


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