IRREGULAR
小さな商店街を出ると、窓一面が水平線になった。海だ。だが、久慈はこれが本当には海で無い事を知っていた。海を経た向こう側に、蜃気楼そのものであるかのように浮かぶ都市がある。「海」に囲まれたそれは都市・京、もしくはKと呼ばれていた。船以外でそこに向かうためには、Kの周りにある5つのエリアを結ぶ巨大な橋を通らなくてはならない。それはここから2000m離れた場所にある。
「あの事件」を終えて数十年が経った。変り果ててしまった陸の構造に感傷的な思いを抱くのは、蜃気楼まで続くあの橋を見た時だけだ――久慈はそう考えていた。
斉田制作所で事件が起こってから2度目の王塚との会合の後、久慈は『巣』に帰るための車を走らせていた。
左手にガードレールを挟んで、海。
何故か助手席にいる王塚が横目で見てきたので、久慈は目を反らして海岸に立ち並ぶ住居群の方へ目を配らせる。
「俺はアンタのその、どこにも長く身を置かねえって所は評価してるんだ」
「褒めるに値しない価値ですよ」
「ただし気味が悪いと捉えられがちだって事は知っておいた方がいい、例えば今の言葉が皮肉って事を疑う素振りをちゃんと見せるとかな……俺の言いたいことはだな、本業の方はほったらかしでいいのかい」
「心配には値しないよ、私にはとてもよくできた部下がいますからね」
「香流って奴の事か」
「子供達を『向こう側』の世界に転移させるという非常に微妙で難しい行為を何の間違いなくこなせているのは、彼の指示と彼を尊敬する人々のおかげでしょう」
「さっき確かにその話を聞いたが、そんな事が本当に可能なのか?」
「技術の力だけでは到底不可能です、生体をも利用したエネルギーの取得効率をうまく上昇させるためにはタイミングの一致が不可欠だし、数の少ないコマを無くしてはしまわないように、個人に適応した試算を誤差の1%以内に納めなくてはならない、モニターの誤差を範疇とした、アナログな判断を要求される場面すらあります。」
「コマってのはその……ガキどもの事か?」
同じような口ぶりには慣れてはいるが我慢ならない顔を見せてしまう久慈。
しかし、現場に関わる人間では無いに関わらず情報をきちんと整理する姿勢に対しては感服する。久慈自身の上の立場にいる人間にも見習ってほしい、と思う。
「それを担うあの香流晃一っていう奴と、クラッカー出身の天才ハッカー、八雲弥生っていうお嬢ちゃんは一体何物なんだ」
「私の事を信用していない優秀な方々ですよ」
「知ってるよ」
フフフ、と子供みたいな笑い声が助手席で発生する。
遠目に都市に続く道路が見える。もうすぐで差し掛かる――
橋の上では、車の列がまばらに走っている。それを跨いで車と同じ方向に、しかし少し早く進む妙な形をした二脚の車両が見える。
「最近は鉄道の線にも走っているらしいよ」
「車か?……」王塚が興味ありげにそれを見ようと、硝子に顔を近づける。
「知らなかったとは珍しいな……『メタグロシィ』、最近導入された新鋭機さ、Kへ行く線は限られているからな、自治体が必要な物を運ぶために導入し始めたらしい」
「私はあれとよく似た機械を、軍の兵器で見た事があるが……」
軍だって?そんな物があった時代の事を覚えているのか?久慈は鼻で笑ったが、王塚は黙ってそれを見ていた。何か危うい物を見つめる様な目だ。
彼の勘みたいな物を信じているわけでないが、杞憂であってくれれば良いが――久慈は少し逸れていた注意を目の前の方に戻しかけた。
「うおぉぉおっ」
目の前、久慈の車が通る所の車道に、少年が立っていた。
否、唐突に姿を現した、という感じがした。
冷たさが身体全体を包み込んだが、冷静にブレーキを押し込む事が出来た。
車を止めた時に、少年は消えていた。
「えっ」
幽霊を見た、と久慈は本気で考えた。
直後、王塚側の窓を叩く音。
「危ない事をしてはいけないよ」
窓の開く音。王塚の言葉と共に、冷たい潮風が久慈の頬に当たる。
久慈が目を向けた先には、白い髪の少年がいた。
一見で彼がマシロカエデだという事を判断した。
『この世のそれとは思えない美貌』という王塚のたった一つの証言が、頭の中にあったからだ。
「すいません」一応久慈の方にも礼を入れる。それだけか――という久慈の喉まで出かかった言葉がしかし、現実の許容量を超えた出来事の発生で止められる。
「どうしたんです?何だかいつもより普通じゃありませんか」
「からかうのは後にしてください。王塚さん、できれば足を貸して頂きたい」
「何かあったのか?」
「気になる事があります」マシロは電子ペーパーの端っこを王塚に差し出した。久慈にはそこに何が書かれているのか、見る事が出来なかった。だがこれから何か面倒なことに問答無用で巻き込まれる、という事だけは刑事の勘でなくとも察知し得た。




