大魔導師の逆鱗から王弟の登場へ
「一方から話を聞き続けるのも不公平ですね。クライネス伯爵夫人からも話を伺いましょう」
アンドレイは人々の視線を集めるように体を大きく動かしながら向きを変えると、ドロシーの前で片膝をつき懇願するように見上げた。
「どのような経緯で養女の話になったのか、教えていただけますか?」
「待て!」
止めようと手を伸ばしたチャペス侯爵をドロシーが突き飛ばす。その力は女性とは思えぬほど強く、屈強な騎士や兵をまとめる軍師が転びそうになるほど。
チャペス侯爵が体勢を立て直している間に、ドロシーがアンドレイへ訴えるように一気に話した。
「ぜひ聞いてくださいませ! 大魔導師と婚約する前にシルフィアを養女にしたいとチャペス侯爵から申し出がありましたの! 大魔導師は一代限りの男爵家だけど、侯爵家である自分と血縁関係ができれば、大魔導師は男爵から子爵か伯爵になるからって! それなら、あんなノロマでどんくさくて魔力無しの無能な娘より、私の可愛いベルダが婚約者になって養女に……ヒィ!」
それまで意気揚々と語っていた口が止まる。
ドロシーがガタガタと震えだし、腰を抜かして座り込んだ。
「誰がノロマで、どんくさくて、無能だ?」
殺気を含んだ低い声が広間を這う。
「これ以上、師匠を侮辱するなら」
魔力を含んだ漆黒の髪がゆらりと浮き上がる。
「消すぞ」
牙を剥いた威圧が喉元に突き刺さった。
「ッ!?」
ルーカスからの圧力に耐えられず口から泡を吹いて気絶するドロシー。
そのことにアンドレイが額を押さえてため息を吐くと、近くにいた衛兵にドロシーを休憩室へ運ばせた。
「まったく、厄介なことをしてくれた」
小声で呟いた先には、強大な魔力に殺気をのせて放つルーカス。その矛先はドロシーからチャペス侯爵へ移っており。
「で、貴様は夫となるオレに事前の相談もなく、婚約者を養女にしようとしたのか?」
先程の挨拶の時に見せた謙虚な態度とは違い、いつもの横柄な態度と言葉使い。だが、そんなことを気にさせないほどの怒りが噴き出している。
直接魔力を向けられていない人々でさえ、喉を噛み切られ、真っ赤に染まった自身の幻影が浮かぶ。恐怖で全身が震えるのに、逃げられない、動けない。
これは、決して触れてはいけない、厄災の箱。
大魔導師の逆鱗に触れた。
戦場で数々の死線を潜り抜けてきた経験のあるチャペス侯爵でさえも、その恐怖に体を支配されて動けない。
少し前まで堂々と語っていた姿は微塵もなく、命乞いをするかのように声を絞り出した。
「こ、これから相談しようとしていたのだ。まさか、こんなに早く婚約発表をするとは思わず……」
「婚約発表の前に誘拐するつもりだったからか? 養女にする、と婚約者を呼び出して」
「違う! 私は呼びだしていないし、ベルダという娘も知らない! 本当だ! 信じてくれ!」
苦し紛れの言い訳にしか聞こえない言葉に、周囲から不審と猜疑の視線が集まる。
その状況に軍師である誇りも尊厳も忘れ、チャペス侯爵は髪を振り乱しながら訴えた。
「私は、嵌められたんだ! 本当だ! 信じてくれ!」
必死の訴えにルーカスが淡々と訊ねる。
「誰に嵌められたというんだ?」
「そ、それは、その……クソッ!」
何かを探すように視線を宙に漂わした後、忌々しそうに舌打ちをした。何かを言おうと口を動かすのだが、声になっていない。
そこに凛とした渋い声が響く。
「では、これからする質問に正直に答えてもらおうか」
聞き覚えがある声に、完全に傍観者となっていたシルフィアの眉がピクリと動いた。
前世の時より落ち着きと威厳を含んだ声音。王族特有の白金髪が揺れ、すべてを見通すような青い瞳が人々の目に映る。
その姿に出席者たちが自然と道をあけ、その中心を外套をなびかせながら男が進んでいく。
シルフィアの記憶にあるのは二十代半ばの若々しさと逞しさに溢れた精悍な青年だった。そこから二十年の年月が経ち、渋みと威厳を兼ね備えたイケオジに。
現王弟である、エヴァウスト・レオノフ。
その姿に翡翠の瞳が宝石よりも煌めいた。
(聖女が死んでから新たな婚約者を迎えることなく、結婚することもなく独身を貫いている、王弟! その理由は、心に決めた方がおられ、その方と密かに愛を育まれているという! ですが、肝心のお相手が不明のまま……腹心と言われるブラウン侯爵、近衛騎士のガルシア伯爵、文官で王家の頭脳と呼ばれるターナー子爵、様々な殿方と噂があり、様々な腐の小説が出回っておりますが、真相は謎のまま……あぁ、知りたい気持ちと、このままそっとしておきたい気持ちが!)
実際のところ、第二王子は自分のせいで聖女が毒殺され、守れなかった後悔から独り身を貫き、黒幕を探し続けているのだが、それを知らないシルフィアは心の中で軽いステップダンスをしながら妄想を広げていた。
(まさか、生まれ変わった後もお目にかかれるなんて! 普段、民の前では凛として隙のないお姿ですが、心を通わせたお相手の前でだけは弱音をこぼし、大きな懐に抱かれ、癒される! その落差が! ぜひ、その光景を生で拝見した……ハッ! 王城の壁になれば、王弟のお相手が誰か分かる上に、その様子を間近で拝見することが! あぁ、早く王城の壁を分析して、壁になる魔法を開発しなくては!)
内心では小躍りしながら意気込みまくっているが、表ではそのようなことを一切悟らせない無表情。
優雅にスンとした顔のまま状況を見守っているシルフィアにルーカスがそっと声をかける。
「……師匠、大丈夫ですか?」
すっかり殺気を収め、前世のことからシルフィアの精神状態を心配しているのだが。
そうとは知らない当の本人は不思議そうに首を捻った。
「何かありました?」
その様子にルーカスが黒髪を揺らすように軽く頭を振る。
「いえ。気にされてないならいいです」
甘い微笑みを残して深紅の瞳が前を向く。その先は王弟と、その後ろから現れた……
(まさか、あの方は!?)
シルフィアは喜びで溢れかけた魔力を押さえ、無表情を維持することに集中する。それでも、亜麻色の髪の毛先は嬉しそうに小さくピョコピョコと左右に揺れており。
ゆったりとした歩調で登場した五十代後半の男性。王弟より貫禄があり、一部の隙もなく整った灰色の髪と、シワ一つない服装。そして、何よりも特徴的な灰青色の瞳。
先王の時代から王家に従い仕え、目的のためには手段を選ばない冷血ぶりから『氷の宰相』と呼ばれている。
思わぬ二人の登場にざわつく出席者たち。そこに灰青色の瞳がジロリと広間を見回す。それだけで人々の顔が強張り、言葉を呑み込んだ。
緊張で息もできない中、シルフィアは別の意味で固まっていた。
(あの幻の逸品の作品のモデルである宰相!? 王家と国に忠誠を誓った宰相、ご本人!? 今は引退した先代の王との噂が絶えない、あの宰相!? まさか、ここでご本人を拝見することができるなんて! あぁ! 本の通り氷のような雰囲気! あの冷えた目が先王と二人きりの時は熱く情欲的に燃えて!? なんて、素晴らしいのでしょう! 隣にいるのが先王でしたら完璧でしたのにぃぃぃぃぃ!!!!)
脳内でハンカチを噛みしめ、ひたすら歯ぎしりをする。魔力を押さえているが、髪の毛先も悔しさで針のように細く鋭く尖るほど。
微かに手が震えるが、顔は全力で無を貫いていて。
空気のように気配を消してルーカスの隣に立っているため、存在を気にする人もおらず、そのまま話が進んでいく。
広間の人々の視線が王弟に集まる中、白金髪が揺れ、決意に染まった青い瞳が見据える。耳が痛いほどの静寂の中、重い口をゆっくりと動かす。
「チャペス侯爵。貴殿には聖女の毒殺を指示した疑いがある」
貴族の社交界で禁忌のような扱いになっていた聖女毒殺の話。
それを王弟が自ら雷のように落とした瞬間だった。