28話 悪い子なら
「どうして早瀬さんが――」
「お話は戻りながらにしませんか? あまり遅いとみんなに不審がられますから」
「……そう、だね」
トイレに行くと言ってから大分時間が経ってしまっている。いつまでも戻って来ないことを心配して、零の捜索が始まっていてもおかしくない時間だ。
「零くん! そっちじゃなくてこっちですよ」
来た道を急いで戻ろうとする零を佳奈が呼び止める。別の道なんてあっただろうかと疑問に思いながら零は振り返った。
見ると佳奈の横には影の世界への扉が開いていた。
「プールで仮面を持っていると目立ちすぎます。心魂の仮面と違って私たちの神秘の仮面は消すことができませんから、人目はできるだけ避けるべきです」
「あ、うん。そうだね」
確かに影の世界を使って移動したほうが、目撃されるリスクを避けられるため安全だ。気を付けるのは扉の出入りの時のみ。その瞬間だけ見られないように注意すれば問題ない。
考えてみれば当たり前のことなのだが、零にはそもそも扉を開けられないためその発想には至らなかった。
零と佳奈は周囲に誰もいないことを確認した後、影の世界へ入っていく。
「零くんは、もしかして影の世界の扉を開けられないんですか?」
「うん」
「そうですか。それなら仕方ないですね。影の世界の扉が開けないなら波動を抑えるのが一番ですよ。それだけで周囲の人たちに自分の存在を認識されにくくなりますから」
「波動のコントロールもまだ特訓中で、なかなかうまくいかないんだよね」
「難しいですよね。私もあまり得意ではありませんし。でも少し抑えるだけで結構効果がありますよ。得意な人は透明人間みたいに、完全に自分を消すことができるみたいなのですごいですよね」
他の生物が発している波動に自身の波動を溶け込ませる、そうすることで自然と一つになり、完全に姿をくらませてしまう老人がいるという話は鳴海から聞いたことがある。
その時はまだよくわかっていなかったが、波動のコントロールをわずかながら理解した今の零ならわかる。それは人生の全てを捧げたとしても、まず到達できないレベルのものだということを。
だから零が目指すのは、波動を溶け込ませるのではなく、波動を抑えることで影を潜めるというもの。佳奈が言っているのもこれだ。
完全に波動をゼロにするのが理想だが、それはまだ零にはできない。
「最近は仮面の殺人鬼のこともありますから、極力、仮面を見られないよう気を付けましょう。行方不明者が出たプールで仮面を持った人物が目撃されていた、なんて噂が広まったら大変です」
凶蝕者を二体撃破したことで二人の人間が世界から消えた。
家族、友人、恋人、誰と一緒に来ているかはわからないが、プールに独りで来るということもないだろうから直に知られるのは間違いない。もしかしたらすでに、凶蝕者の知人は騒ぎ立てているかもしれない。
人が消えた場所で仮面をつけていた人物が目撃されれば、誰もが仮面の殺人鬼の犯行だと疑うだろう。
零たちが殺人鬼の容疑をかけられてもおかしくない。現に命を奪っているので濡れ衣とも言い難い状況ではある。
移動の時は顔につけず手に持っていたので、そこまで目立ってはいないとは思うが、それでもわずかな懸念は残る。何人かに気づかれていてもおかしくない。
「……ちょっとお説教みたいになっちゃいましたね」
「ううん、本当にその通りだと思う。ごめん、気を付けるよ」
「あまり気にしないでくださいね。いろいろ言いましたが、万が一仮面を見られていたとしてもたぶん大丈夫ですから」
「え、どうして?」
「最近は仮面の噂の影響でふざけて仮面をつける人も多いみたいです。移動中にもし仮面を見られていたとしてもそれで言い逃れできます。プールまで持ってくる人はさすがにいないかもしれませんが……」
「そうなんだ、知らなかった」
「戦闘中のことも心配ありません。あの付近で、私たち以外の波動は感知できませんでした」
佳奈が言うことも一理あるがそれでも目撃されていて、零だと特定されれば面倒なことになるのは必至。彼女もそれはわかっているとは思うが、不安そうな顔をする零を見て、安心させるための理屈を並べてくれたのだろう。
そんな佳奈の気遣いに零は感謝した。
「あの早瀬さん……聞いてもいい?」
「はい、何でも聞いてください」
「いろいろ聞きたいことはあるんだけど、まず初めに何でさっきから僕たちは手をつないでるの?」
影の世界に入ってから、佳奈の右手は零の左手をしっかりつかんで離さない。
「零くんが急にどこかに行ってしまわないよう念のためです」
「そんな……子供じゃないんだから」
「さっきは凄く心配したんですよ。凶蝕者の波動を感じたと思ったら零くんがいつの間にかいなくなっていて……波動を感知して探していたら凶蝕者のいる方へ向かっているのがわかって、急いで私も仮面を取りに行きました」
「そうだったんだ」
「でも驚きました。零くんも仮面使役者だったなんて」
「それは僕もだよ。早瀬さんが仮面を持っているなんて思わなかった」
「ずっと誰にも知られないよう隠してきましたから。戦ったこともほとんどありません」
「でも2級を簡単に倒しててすごかったよ」
「あれは2級が零くんに気を取られていて、私に気づいていなかったからです。私は仮面の力をほとんど引き出せないので、一人なら絶対に勝てませんでした」
「早瀬さんの仮面って……」
「蠍の力を宿した神秘の仮面です。私の力では終体……蠍の尾の部分しか実体化できません」
(蠍の尾だけでも充分すごいと思うけどなぁ。蠍の尾なら当然、毒もあるだろうし。刺された2級の動きが鈍かったのもたぶん毒の力だ)
「私と違って零くんは仮面の力をうまく引き出せているみたいですね。その仮面少し見せてもらってもいいですか?」
「あ、うん。いいよ」
零は拒絶の仮面を佳奈に渡した。彼女の出した手に何のためらいもなく預けてしまう。佳奈は労せず、いとも簡単に零の仮面を手に入れた。
仮面を受け取った佳奈は、整った唇を歪ませた。そこから漏れ出た小さくて冷たい笑い声が、零の耳に入って体の温度を下げていく。血が冷たくなるような感覚に驚いた体が、零の心臓の鼓動を強くする。
「早瀬……さん?」
「ふふ。ダメですよ、零くん」
「え?」
「仮面能力者が心魂の仮面を他人に奪われるということはあり得ませんが、私たち仮面使役者は違います。実体のある神秘の仮面を奪うことは可能です。仮面を手放すということは、命を捨てるのと一緒ですよ」
「――――!」
「もし私が悪い子だったら零くんはいま死んでいました。だから信頼のおける人以外に仮面は絶対渡しちゃダメですよ」
「うん。でも早瀬さんのことは疑う必要なんてないから」
「はい。私はいつだって零くんの味方ですから安心してくださいね」
疑う必要なんてないと零は言ったが、本当は少しだけ佳奈が敵ではないかと疑ってしまった。仮面を渡した時の彼女の微笑みは、いつもとどこか違っていて正直に言えば少し怖かった。
「早瀬さんはいつから仮面使役者だったの?」
空気を変えたくて、動揺を悟られたくなくて、零は次の質問をした。
「二年前からです。兄さんが敵から奪った仮面がたまたま私に適合したんです」
「お兄さんも仮面の力を持ってるの!?」
そもそも佳奈に兄がいるとは知らなかった。帆夏たちは知っていたのだろうか。
「はい。兄は正義感溢れるとても強い仮面能力者でした。仮面の力を自分のためではなく人のために使い、いつも誰かを助けていました。でも……」
「でも?」
「兄は二年前に亡くなりました。とても強い化け物に殺されてしまいました」
「そんな……」
兄を殺されたと語る妹の顔は、深い悲しみに沈み、うちに秘めた強い憤りを零には見せないように下唇を噛んで堪えていた。
「仮面の力を正しいことに使う兄を私は尊敬していました。いつか私も兄のような強い人間になりたいと思っていました。その時はあんなに強かった兄が死ぬなんて思ってもいませんでした」
仮面能力者の世界は命掛けの世界。戦い続ければ、そのほとんどは寿命よりも早く命を落としてしまうだろう。頭ではそのことをわかっていても、実際に死んだという話を聞かされると心にのしかかるモノが違ってくる。
仮面能力者にとって死は、零が思っていたよりもずっと近いものなのだと改めて思い知った。
佳奈の兄の死は他人事ではない。零だって今日の戦いで死んでいてもなんら不思議ではなかった。驕りがあった。ミスもした。佳奈が助けてくれなければ、今頃どうなっていたかわからない。
戦いはもう終わったのに今更、恐怖の感情が湧いてきた。戦闘中には感じなかったから、もうとっくに自分は恐怖を克服したものだと思っていた。
でも違った。今日の零は恐怖を乗り越えて戦っていたわけではない。ただ恐怖が見えなくなっていただけだ。
力を手にしたことで慢心していた。ちょっと強くなった程度で浮かれていた。
今日の出来事は自分への戒めにしなければならない。
同じようなことを続ければ、そう遠くないうちに必ず命を落とす。
今日の一番の収穫は、仮面能力の向上でも2級を倒したことでもなく、それを知ることができたということかもしれない。
「早瀬さん……」
言葉が見つからない。彼女の心を少しでも軽くするためには、なんと声をかければいいのだろうか。
「大丈夫です。兄の死はもう昔のことで、それを私は受け入れて前に進んでいますから」
家族を失う苦しみ、それは零も経験していた。
記憶がないので当時、自分が何を思ったかはわからないが、たぶん受け入れられなかったのだろう。逃げてしまったのだ。だからきっと記憶が欠けているのだ。
零もいずれ記憶を取り戻し、家族の死と向かい合う時が必ず来る。その時は彼女と同じように前を向いて生きなければならない。
大切な人達ができた今なら乗り越えられるという自信がある。
でも、もしも、自分にとって最も大切な人を失ってしまったら、受け入れることができるだろうか。
答えはわかっている。受け入れられるわけがない。絶対に受け入れられないとわかっているから、そうならないよう戦っているのだ。
「零くんは、いつ仮面能力者になったんですか?」
「僕は先月に仮面のことを知ったばかりで、まだいろいろ教わってる段階なんだ」
「教わっている? 誰にですか?」
「チカラさんって人、親しい人からはリキさんって言われてるんだけどすごくいい人だよ。夏祭りの時に美、倉科先輩の隣にいた人だけど覚えてない?」
「ごめんなさい。あまり覚えていないです」
「そっか」
「あの……零くん、お願いがあります」
「お願い?」
「私が仮面使役者だということは、誰にも言わないでほしいんです。そのチカラという人はもちろん、他にも仮面能力者の仲間がいるのならその人たちにも」
「どうして?」
「兄を失ったときに思ったんです。兄でも死んでしまうほど過酷な世界なら、私だったらもっと簡単に死んでしまうって。だから仮面能力者の世界のことは忘れて生きていくって決めたんです。仮面能力者と関わって戦いに巻き込まれたくないんです。今日も友達が近くにいなければ、戦うつもりはありませんでした」
仮面の力を手に入れたからといって、戦いを強制されるわけではない。力を使わず、普通の日常を送るのも決して間違った道ではない。
零は美咲のために戦う道を選択した。だが美咲がいなければ、きっと佳奈と同じように戦わない選択をしていたはずだ。
「そっか。わかった。誰にも言わないって約束するよ」
佳奈が仲間になってくれれば心強いが、彼女が戦いを拒むならその気持ちを尊重し、無理やり引き込むようなことはしたくない。
「ありがとう、零くん」
「今日はごめんね。僕のせいで戦いに巻き込んじゃって」
「いいえ、私が好きでしたことですから。戦うのは怖いですけど大切な人を失うほうがもっと怖いですから」
本当に佳奈の言う通りだと思う。零も同じだ。本当は戦いたくなんてないが、美咲を失うのが怖くて今こうして戦っているのだから。
「もし何か助けが必要なときは遠慮なく言ってください。今日みたいにどうしても戦わなくてはいけない時があるということは、理解していますから。一人で無茶しないで頼ってください」
「うん、ありがとう」
佳奈を少しでも疑ったことを零は恥じた。彼女の口から出る言葉は零を気遣い、心配するものばかり。友達を、大切な人たちを信じられなくなったらお終いではないか。
「そろそろ出口です。出る時に誰かに見られないよう気をつけましょう」
「うん」
「お腹空いちゃいましたね」
「だね」
二人は互いに顔を見合わせ笑い合う。
佳奈と話したことでまた女の子との秘密を共有してしまった。秘密を知るということは信頼の証のようなものなので、そう言った意味ではうれしい。けれど同時に話せないことが増え、自分の体がだんだん嘘で塗り固められていくようで少し息が詰まる。
零と佳奈は影の世界から現実世界へと戻っていった。非日常から日常へ。
さっそくまた友達に嘘をつかなければいけないと思うと気が滅入る。それでもみんなの待つ明るい世界へ、またこうして戻って来られたのだ。嘘の言い訳を考えていられるうちは、自分は幸せなのだと零は自分に言い聞かせ、影の世界をあとにした。




