第10話 帝国の内側
翌朝。
鍵束の音が、朝の配膳と一緒に、廊下を通り過ぎていった。
チャリ、チャリ、チャリ。
看守が、鉄格子の隙間から、木の椀を一つずつ押し込んでいく。薄い麦粥。硬いパンが一切れ。
雷夕の牢の前で、看守は、ちらりと雷夕の顔を見た。
何も言わなかった。
ただ、椀を押し込んで、次の牢へ。
チャリ、チャリ。
音が、角の向こうへ遠ざかっていく。
「――行ったね」
向かいの牢から、ヨアヒムの声がした。
昨夜とは、違う声だった。
穏やかさは、変わらない。けれど、その奥に、何か、一本の芯のようなものが通っていた。
「話をしよう、雷夕殿。――時間が、あまりない」
*
ヨアヒムは、鉄格子の前に座っていた。
痩せた背中を、まっすぐに伸ばして。
昨夜、顔を覆って肩を震わせていた男と、同じ人間とは思えなかった。
「まず、聞かせてほしい。リヴァールは、なぜ、ここに私がいると知ったのか」
雷夕は、話した。
イヴァルキアの国境の盗賊の、廃坑のアジト。
財宝の箱の底にあった、国境軍の移送記録。
焼けた半分と、符牒だらけの残り半分。
ベルリアの焦土の将の、天幕の鉄の箱。
北への護送路の、地図。
新月の、布告。
ヨアヒムは、黙って聞いていた。
時折、小さく頷きながら。
リヴァールの名前が出るたびに、ほんの僅かに、目を細めながら。
*
「――そうか」
話を聞き終えて、ヨアヒムは、長く息を吐いた。
「あの子は、ずっと、探していたのか。……騎士団を抜けてまで」
「ああ」
「馬鹿だね」
声が、少しだけ、震えた。
けれど、ヨアヒムは、すぐにそれを押さえ込んだ。
「――では、今度は、私の番だ。あなたは、帝国の中のことを、どれだけ知っている?」
*
雷夕は、少し考えた。
「……帝国が、強い。魔法の兵が多い。イヴァルキアとか、カランドとか、周りの国を呑み込もうとしてる」
「それから?」
「強硬派ってのがいる。ディートリヒって奴は、そうだった。民間人ごと町を焼いて、平気な顔してた」
「それから?」
「……アルブレヒトって将とも、戦った。あの人は、違った。民間人には手を出すなって命令して、焼け残った家の戸を、全部閉めて帰っていった」
ヨアヒムの目が、僅かに見開かれた。
「アルブレヒト・フォン・リンデン?」
「知ってるのか」
「名前だけは。――そうか。リンデンが、そう動いたか」
ヨアヒムは、何かを確かめるように、小さく頷いた。
「それから?」
「……それくらいだ」
*
ヨアヒムは、しばらく黙っていた。
それから、鉄格子の前の床の埃の上に、指で、線を一本引いた。
「帝国の中には、大きく分けて、二つの流れがある」
線の左側に、点を一つ打つ。
「一つは、先代の皇帝の意志を継ぐ、と言う者たち。大陸を、武力で一つにする。それこそが帝国の使命であり、先代の遺志だ、と。――強硬派と呼ばれている。その中心にいるのが、ヴォルフガング・ガルドヴァールという男だ」
「ガルドヴァール……帝国の名前と、同じ」
「そう。帝国の名を持つ男だ。――今、帝都の中枢は、ほとんど、彼らが握っている」
指が、線の右側に、もう一つ点を打った。
「もう一つは、戦を終わらせたいと願う者たち。武力で呑み込むのではなく、周りの国と、言葉で手を結ぶ道を探している。――和平派、と強硬派は呼ぶ。我々は、自分たちを、そう呼んだことはないけれどね」
*
「我々、って」
「私も、その一人だった」
ヨアヒムは、床の右側の点を、指先でそっと撫でた。
「表に立つことはなかった。私の役目は、繋ぐことだった。帝都の中で和平を願う役人たちと、軍の中で同じことを願う者たちとを。――手紙を運び、言葉を運び、人と人とを会わせる」
「……リヴァールの上官だった頃も?」
「騎士団にいた頃から、ずっとだ。あの子は、何も知らなかったけれどね」
ヨアヒムは、少しだけ、寂しそうに笑った。
「知らせたくなかった。知れば、あの子も、こちら側に来てしまうから。――結局、来てしまったようだけれど」
*
「そして」
ヨアヒムの指が、床の右側の点の、すぐ隣に、もう一つ点を打った。
「軍の中で、和平を願う者たちの、中心にいる男がいる」
雷夕は、その点を見下ろした。
「ジークフリート・フォン・アーレンス」
ヨアヒムの声が、ほんの僅かに、柔らかくなった。
「若いが、帝国で一番の騎士だと、誰もが言う。強硬派ですら、彼の剣の腕と、その家柄には、手を出せない。――だから、彼は、まだ表に立っていられる」
一拍。
「……私の、剣の弟子だ」
*
雷夕は、ヨアヒムの顔を見た。
痩せた頬。削げた顎。
それでも、その名前を口にした時だけ、ヨアヒムの目に、ほんの少しだけ、誇らしげな光が灯った。
「あの子が十二の時から、剣を教えた。リヴァールより、ずっと前だ。――最初に教えたことは、リヴァールと同じだったよ」
「剣の振り方より先に、剣を振らずに済ませる方法を考えろ」
雷夕が言うと、ヨアヒムは、目を丸くした。
それから、くしゃりと笑った。
「……あの子は、そんなことまで、あなたに話したのか」
*
「――なんで、戦争なんかしてるんだ」
雷夕は、床の二つの点を見下ろしたまま、言った。
「戦を終わらせたい奴が、帝国の中にもいるなら。なんで、イヴァルキアにも、カランドにも、ベルリアにも、攻めてくるんだ」
ヨアヒムは、しばらく、答えなかった。
それから、床の線を、指で、ゆっくりとなぞった。
「強硬派が、帝都を握っていられるのは――戦に勝ち続けているからだ」
「……」
「勝ち続けている限り、民は、強硬派を支持する。版図が広がれば、税が入る。兵の手柄が、民の誇りになる。――逆に、戦が止まれば、民は、なぜ戦をしていたのかを考え始める。強硬派は、それが一番怖い」
ヨアヒムの声は、静かだった。
「だから、戦を止められない。止めれば、和平派に、帝都を奪われるかもしれないから。……あなたたちの国が攻められているのは、半分は、帝国の中の、権力争いのせいなんだよ」
*
雷夕は、何も言えなかった。
シュテルン村の焼けた家々。
レイフ砦の崩れた外壁。
ベルリアの北門で燃えた、四人の自警団。
カランドの国境の町。
その全部が――半分は、帝国の中の、誰かと誰かの、争いのせい。
(……ふざけんなよ)
拳を、握りしめた。
けれど――怒りは、ヨアヒムに向けるものではなかった。
「……和平派が勝ったら、戦は終わるのか」
「終わらせる。――少なくとも、ジークフリートは、そのつもりだ」
ヨアヒムは、まっすぐに、雷夕の目を見た。
「だから、私は、ここで死ぬわけにはいかなかった。あの子に、まだ、伝えていないことがある。帝都の中の、誰が味方で、誰が敵か。――この五年、ずっと、それだけを考えていた」
*
隣の牢で、エルザが、身じろぎする気配がした。
「――先生」
静かな声だった。
「先生は、ここを出たら、その、ジークフリートという方のところへ、行くんですか」
ヨアヒムは、少しだけ、黙った。
「……ああ。そうしなければならない」
「――そう、ですか」
エルザの声は、それきり、途切れた。
雷夕は、石の壁の向こうの、見えない少女のことを思った。
(――海を、一緒に聞きに行こう、って)
昨夜、エルザが話してくれた。
先生が、五年間、何度もそう言ってくれたのだと。
*
しばらく、誰も、何も言わなかった。
松明が、じじ、と鳴った。
「……でも」
雷夕は、ようやく、口を開いた。
「出られなきゃ、何も始まらない」
両手を、見下ろす。
手首の、目に見えない錠。
「劣化が、使えない。鍵を掛けられた。壁の外に出ても、典獄長が開けない限り、開かないって。――俺の力も、リヴァールの力も、ここじゃ何も使えない」
ヨアヒムが、眉を寄せた。
「……劣化?」
「俺の固有スキルだ。見た相手の力を、劣化させて写す。どう化けるか、分からない」
ヨアヒムは、何かを考えるように、黙り込んだ。
*
「――ライトさん」
隣の牢から、エルザの声がした。
さっきとは、違う声だった。
迷っている声だった。
言うべきか、言わないべきか。ずっと胸の奥にしまってきたものを、取り出すべきか。
「……一つ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「昨日の夕方。ライトさんが、鍵の間で、鍵を掛けられた時」
「……ああ」
「何か――感じませんでしたか」
*
雷夕は、眉を寄せた。
「感じたって……劣化が、閉じ込められた感じは、した」
「その前です」
エルザの声が、少しだけ、強くなった。
「鍵が、手首に触れた、その瞬間。――ほんの、瞬き一つほどの間。何か、胸の奥で、身じろぎしませんでしたか」
雷夕は、記憶を辿った。
冷たい鍵の先。
手首に、そっと当てられた感触。
――カチリ、という音。
その、直前。
(……あった)
ほんの、一瞬。
閉じ込められる、その直前に。
劣化が、何かに気づいたように――身じろぎした、気がした。
ほとんど、錯覚だと思って、気にも留めていなかった。
*
「……あった、かもしれない」
雷夕は、ゆっくりと言った。
「気のせいだと思ってた。でも――」
「気のせいじゃ、ありません」
エルザの声が、震えていた。
「典獄長が、誰かに鍵を掛ける時。――その瞬間だけ、他の全員に掛かっている封が、緩むんです。ほんの一瞬だけ。瞬き一つほどの間だけ」
向かいの牢で、ヨアヒムが、息を呑んだ。
「……エルザ」
「ごめんなさい、先生」
エルザの声が、掠れた。
「三年前に、気づいていました。新しい人が来るたびに、自分の力が、ほんの一瞬だけ、戻ってくるのを。――でも、言えませんでした。言っても、どうにもならないと思ったから」
*
ヨアヒムは、しばらく、何も言わなかった。
鉄格子を握りしめたまま、石の壁の向こうの、見えない少女の方を見つめていた。
「――三年」
ようやく、ぽつりと言った。
「三年も、一人で、抱えていたのか」
「……はい」
「どうして、言ってくれなかった」
「言ったら――先生が、何かしようとすると思ったから」
エルザの声は、静かだった。
「一瞬だけ力が戻っても、ここからは出られません。でも、先生は、きっと、その一瞬で何かをしようとする。……そうしたら、先生が、罰を受けるかもしれない。だから」
*
ヨアヒムは、目を閉じた。
長い間、そうしていた。
それから、目を開けて――静かに、笑った。
「……私は、良い先生じゃなかったね」
「そんなこと――」
「生徒に、そんなことを心配させるなんて」
ヨアヒムは、鉄格子に額を押しつけた。
「ありがとう、エルザ。――三年間、守ってくれて」
壁の向こうで、エルザが、小さく嗚咽を漏らす気配がした。
*
雷夕は、黙って、二人のやり取りを聞いていた。
それから、自分の両手を、もう一度、見下ろした。
(――一瞬だけ、緩む)
典獄長が、誰かに鍵を掛ける時。
その一瞬だけ、封が緩む。劣化が、戻ってくる。
そして――。
エルザの力も、戻ってくる。
触れた人の力を、大きくする力。
(劣化と、増幅――)
頭の中で、何かが、カチリと噛み合った気がした。
「……エルザ」
「……はい」
「その一瞬に、俺の手に、触れられるか」
壁の向こうで、エルザが、息を呑んだ。
「――え?」
「一瞬だけ戻ってきた劣化で、典獄長の封を写す。封は、その時、典獄長が使ってる最中の力だ。写せるはずだ。――でも、一瞬じゃ、たぶん、劣化は細い糸みたいにしか出ない」
雷夕は、鉄格子の隙間から、石の壁の方へ、手を伸ばした。
「その細い糸を――お前の力で、大きくしてくれ」
*
長い、長い沈黙だった。
やがて、石の壁の向こうから――細い手が、一本、伸びてきた。
白い手だった。
その指先が、鉄格子の隙間で、雷夕の指先に、そっと触れた。
冷たかった。
けれど、震えてはいなかった。
「……やって、みます」
エルザの声は、小さかった。
けれど、確かだった。
「八年間、ずっと、この手の中にあったものを。――一度だけ、使ってみます」
向かいの牢で、ヨアヒムが、静かに目を閉じていた。
祈るように。




