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きみの描く雨が、僕のセカイを塗り替える  作者: あるふぁ
第2章:重なり始める音――カタカタとサラサラ

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14話 世界で一つの「宝物」、絶対的な証明

♢世界で一つの「宝物」、絶対的な証明


 その日の夕方。窓の外から差し込む影が長く伸び、学校の放課後時間が過ぎた頃。


「わたし……そろそろ、帰りますね」


 結乃が申し訳なさそうに立ち上がった。制服に着替え、玄関へと向かう彼女の華奢な背中を見つめながら、錬慈は数日前のあの光景を鮮明に思い出していた。

 自分が寝坊したあの日、午前11時の冷たいコンクリートの上で、インターホンも押さずに健気に座り込んでいた、あの小さく凍えていた彼女の姿を。


「……小桜さん。ちょっと待ってろ」


 錬慈はデスクの引き出しの奥から、まだ真新しい、金属独特の硬い光を放つ一本の鍵を取り出した。


「……こ、これ、お前の分な」


 彼は少し照れくささを隠すようにぶっきらぼうな口調で、結乃の小さな手のひらにその冷たい金属を落とした。


「は、え……っ? これ……って、お部屋の、鍵……ですか?」


 結乃は信じられないというように、掌の上の銀色の鍵をじっと見つめ、それから縋るような目で錬慈を見上げた。

 錬慈は彼女の指をそっと包み込むようにして、その鍵を優しく握らせた。彼の大きな手のひらの高い体温が、彼女の冷えやすい指先にダイレクトに伝わっていく。


「もう、外で待ってなくていいから。次からは勝手に入って、中で座って……好きに寛いでて良いからな」


「……っ、でも……」


「お前が外で縮こまってると、俺の寝覚めが悪いだけだ。……だから、遠慮すんな」


 理由を自分のためと偽る彼の不器用な優しさに、結乃の瞳がみるみるうちに熱を帯び、じんわりと潤んでいく。

 彼女にとって、それは単なる合い鍵ではなかった。

 家にも学校にも居場所がなかった自分に、いつでも入っていいと与えられた、この世界で唯一の、物理的な居場所の証明だった。


「……あ、ありがとうございます、です。宝物、にします……っ」


「宝物って……ただの合い鍵だろ」


 錬慈は照れ隠しに首の後ろをバリバリと掻いてフイッと視線を逸らしたが、彼女が鍵を両手で胸元にぎゅっと愛おしそうに抱きしめる姿を見て、自分の中にある暗い独占欲が、静かに、けれど決定的な形を成したことを自覚せざるを得なかった。この小さな少女を、自分のセカイだけに閉じ込めておきたいという衝動が、胸の奥で燻り始める。



♢ 無意識の境界、間接キスという毒


 その日の午後のリビングは、窓の外で降り始めた小雨の静かな音と、錬慈が叩き出すキーボードの打鍵音だけが支配していた。

 錬慈は物語の佳境に没頭していた。ディスプレイに映る文字の羅列だけに意識を集中させ、現実世界の輪郭が薄れていくほどの凄まじい熱量でタイピングを続けている。極度の集中状態にある彼にとって、周囲の音や光はもはや背景の一部に過ぎなかった。


「……っ」


 喉に張り付くような強い渇きを覚え、錬慈は視線を画面に固定したまま、デスクの端に置かれていたマグカップを無意識に掴んだ。指先に伝わる陶器の質感を確認することもなく、彼はそのまま中身をゴクゴクと喉を鳴らして一気に飲み干した。


「……あ」


 背後から、結乃の小さく短い、けれど驚きに満ちた声が聞こえた。

 同時に、錬慈の口内に予想外の衝撃が広がる。いつも彼が飲んでいるブラックコーヒーの鋭い苦味ではない。ミルクと砂糖がたっぷりと入った、とろけるような濃厚な甘さと、柔らかなカフェオレの香りが鼻腔を優しく抜けていった。


「…………ぶふっ……!?」


 錬慈はむせ返りそうになりながら、手に持ったカップを凝視した。

 自分の愛用する無骨な黒いマグカップではない。それは、彼が結乃のために貸し出した、丸みを帯びた白いマグカップだった。陶器の縁には、彼女が先ほどまで口を付けていた名残のような、微かな温もりがまだ残っている気がした。


「あ、すまん……! つい集中してて、間違えた。……っ、すぐ洗って淹れ直す!」


 錬慈は生々しく動揺し、カップをひったくるようにしてキッチンへと逃げ込んだ。シンクの蛇口を勢いよく捻り、冷水を注ぎ込む。カップを洗う彼の手は、自分でも驚くほど不自然に震えていた。


(……あいつが、さっきまで口をつけてた場所を、俺が……)


 ブラックコーヒーの苦味で麻痺していたはずの感覚が、今さらになって「間接キス」という強烈な事実を突きつけ、彼の理性を激しく削っていく。心臓が胸の内で狂ったように警鐘を鳴らしていた。


 キッチンから、逃げるようにリビングの様子を盗み見る。

 結乃は絨毯の上にうずくまったまま、自分が先ほどまでカフェオレを飲んでいた、白いマグカップが置いてあったはずの空間を、呆然と見つめていた。

 彼女は、おそるおそる自分の細い指先を自身の唇に当て、そのまま首筋から耳の裏までを真っ赤に染めて完全にフリーズしていた。


 ただの同居人のような、守られているはずだった安全な距離感。その境界線が、甘いカフェオレの雫一滴によって、音を立てて脆く崩れ去った瞬間だった。

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