1話 薄暗いガレージの違和感
♢薄暗いガレージの違和感
世界が、厚い水の幕に閉じ込められていた。
六月の午後は、本来なら湿り気を帯びた光が差し込むはずの時間だが、今日の空はそれらすべてを拒絶するようにどす黒い雲に覆い尽くされている。
降り注ぐ雨は、もはや降るというより叩きつけるという表現が相応しかった。バケツをひっくり返したような凄まじい豪雨がアスファルトを激しく打ち据え、激しい音を立てて跳ね返った水飛沫が視界を白く塗り潰している。周囲には容赦なく肌を刺すような冷たい湿気と、激しく叩きつけられる水の激昂した匂いが充満していた。
月島錬慈は、フルフェイスのヘルメット越しにその白濁した世界を睨みつけていた。
愛車のスクーターのエンジン音は、あまりの雨音にかき消されて自分にさえ満足に届かない。厚手のレイングローブを伝って、冷たい水滴がじわじわと袖口から侵入し、不快な冷たさが手首から腕へと這い上がってくる。買い出しの荷物を積んだ足元には、すでに小さな水溜まりができていた。ビニール袋が雨に打たれてぐしゃぐしゃと音を立てる。
「……最悪だな」
ヘルメットの中で吐き出した毒づきは、曇ったシールドを白く染めただけで、誰に届くこともなく消えた。
二十歳。Web小説家という、ある種の浮世離れした職業を選んだ錬慈にとって、外出は数日に一度のやむを得ない義務に過ぎない。やや長めの黒髪を湿らせ、猫背気味の背中で激しい雨を受けながら、彼は心底うんざりした気分でようやく自宅へと辿り着いた。早く暖かい部屋に戻り、冷え切った身体を休めたい。その一心だった。
自宅は、古いベランダの下がそのままガレージを兼ねている造りになっている。
いつも通り、そこへスクーターを滑り込ませようとした時、錬慈は小さな違和感に動きを止めた。雨音の激しさの中で、視界の隅に映った光景が、妙に胸をざわつかせる。
――門が、開いている。
今朝、ゴミ出しに出た時に閉め忘れたのだろうか。記憶を辿るが、確証は持てない。普段なら何てことのない不注意だが、この豪雨の中、開け放たれた門の先にある薄暗いガレージは、どこか異質な空気を孕んでいた。冷たい雨のカーテンに遮られたその空間だけが、周囲の喧騒から切り離されたように、奇妙な静寂を保って息を潜めているように思えた。
♢ガレージの先客
スクーターのヘッドライトが、暗いガレージの奥をなぞる。
普段は何一つ置かれていない、剥き出しのコンクリートの壁際。どんよりとした薄暗がりの底に、雨の飛沫を浴びてぼんやりと浮かび上がる影があった。
――そこに、何かがいた。
「……なんだ?」
錬慈はエンジンを切り、スタンドを立てた。
ヘルメットを脱ぎ捨てると、容赦なく吹き込んできた湿った冷気が、首筋や肌へ容赦なくまとわりつく。やや長めの前髪の隙間から、眠たげな目を少し見開いて、暗がりに潜むその正体を探った。
それは、ただじっとうずくまっている人間だった。
ずぶ濡れのブレザー。制服のスカート。泥が跳ねたソックス。
少女は、スクールバッグに顔を埋めるようにして膝を抱え、小さく、けれど止めることのできない震えを刻んでいた。コンクリートの冷たさが染み込んでいるのだろう。カタカタと歯の根が合わないような微かな音が、激しい雨音の隙間から微かに鼓膜を震わせる。その姿は、激しい雨に打たれて行き場を失い、冷え切った隅っこに逃げ込んできた小動物のようにも見えた。
錬慈の胸の中に、まず浮かんだのは、面倒なことになったという気怠さだった。
警察に連絡すべきか、あるいは厳しく注意して追い出すべきか。Web小説家として何よりも静寂と平穏を愛する彼にとって、見知らぬ他人が、それも制服姿の少女が自分の敷地内にいるという状況は、全力で回避すべきトラブルそのものだ。関われば、今日これからの執筆スケジュールも、穏やかな夜もすべて壊れてしまうかもしれない。
しかし、彼女があまりにも濡れすぎていることに気づいた瞬間、その気怠さは別の感情へと塗り替えられた。
彼女の着ているブレザーは大量の水を吸ってどす黒く変色し、薄い身体のラインに重く張り付いている。編み込んだ髪の先から、冷たい水滴が絶え間なくコンクリートの床へと滴り落ち、彼女の周りに小さな水溜まりを作っていた。
この豪雨の中、傘も持たずにどれほど彷徨っていたのだろうか。肌は青白く透け、生きているのが不思議なほどの生気を失っている。そのただごとではない気配と、見過ごせば本当に壊れてしまいそうな危うさが、錬慈の足を一歩、少女の方へと進ませた。




