01話 死にたくなったら
僕らが住む日本という国は、とても平和な国だ。飢餓や貧困、戦争の心配がほとんどなく、おまけに義務教育も国の隅々まで行き届いている。他の先進国から見ても、比較的幸せな国だと思われているだろう。
なのに、どうして自殺者の数は多いままなのだろうか。
考えられる理由は沢山ある。ここ数十年に渡っての景気の悪化や、日本特有の陰湿なイジメ問題など、他にも様々な要因が重なるだろう。挙げればキリがない。
自殺者がいつまで経っても減らないというのは、社会全体――ひいては社会構造そのものを根本から変えでもしない限り、人類にとっては永久に付き纏う課題となっていくのだろう。僕は政治家でもないし、そういう勉強もほとんどした事がない。何をどう変えていけば良いかなんてわからない。
――それでも、確信をもって言えることが一つだけある。
自殺という行為は、当人がどれだけ追い込まれ虐げられたとしても、結局最終的な『死ぬか、死なないか』の選択は本人の意思次第だということだ。
けど、もしその選択を死へと後押しするような目に見えない『何か』が、この国だけにあるのだとしたら――
◇◆◇◆
太陽が沈みかけ、空が赤と青のコントラストに彩られる頃。黒髪の少年が公園のベンチにポツンと座り、ひとり寂しく項垂れていた。
公園内には少年の他に、砂場や遊具で楽しそうに遊ぶ数人の子ども達がいる。年の頃は小学校に入るか入らないかぐらいといったところだろうか。その内の一人が公園内に設置された時計を見上げ、無邪気に声を上げる。
「あ、5時だ! 帰らなきゃ!」
17時きっかりを指していた時計をその子が指差すと、一緒に遊んでいた他の子達が一様に時計を見やる。
「バイバイ、また明日ね!」
門限を律儀に守った子ども達は解散し、それぞれがそれぞれの家へと駆け足で帰っていく。きっと、家に帰れば親の温かい笑顔と手料理が待っているのだろう。
「…………はぁ」
その小さい背中達を見送った少年は大きく、そして深く、重たい溜め息をついた。
――少年には、帰る場所がない。
いや、正確にはある。しかしあるのは場所だけであって、今は少年以外誰も住んでいない。心の拠り所となる対象は家ではなく、家族なのだ。
先月、運送会社に勤めていた少年の父が事故で亡くなった。そして、その一週間後には母が父の後を追うように、自宅で首を吊って自殺した。
どういった因果で、少年にここまでの不幸が巡り合わせたのだろうか。三人仲良く、慎ましく暮らしていただけなのに、どうして。
現在の季節は春、それも四月。
少年は進学したばかりの高校一年生。
新たな出会いや青春に、胸を躍らせる時期ではある。
本来であれば――
(――死にたい。僕は今、とても死にたい)
しかし思考の土壌から芽吹くのは、負の感情のみ。救いも希望も見出だせず、ただひたすらに絶望だけが延々と続く。
(どうやって……死のうかな)
俯かせていた顔をゆっくりと上向かせ、少年は公園内に設置されたジャングルジムを見つめる。
(ジャングルジム……高さは三メートルくらい。一番高いあそこから飛び込めば……いや、痛いだけで死ねやしないか)
冷静に、淡々と、少年は自らの死の計画を目論む。
(それとも車道に出て、車に轢かれた方が――)
「おい、どうしたオマエ? すげえ顔色悪りぃぞ?」
自殺の方法についてあれこれと考えていた少年を突如、現実へと引き戻す男性の声。気付いた時にはベンチに座る少年を見下ろす形で、大柄な若い男が目の前に立っていた。
(だ、誰……? びっくりした……!)
大きく跳ね上がった鼓動が余震のようにまだ胸を打つ。声をかけられる今の今まで、全く存在に気付けなかった。それはこの男が気配を消す達人だからとかではなく、単純に少年の意識が半分どこか彼方へと失せていたからだ。公園の時計はいつの間にか、10分ほど針が進んでいた。
「家出少年か? こんな誰もいない公園に一人で何してたんだよ?」
少年に向けてまるで生活指導でもしているかの如くそう言う彼の見た目は、ウニのようにツンツンとしたセットの明るい金髪と、両耳には沢山のピアスが空いていた。目つきは悪いがどこか芯のある眼差しを覗かせたその顔付きを見るに、年齢は二十代前半くらいだろうか。
更にはオーバーサイズのシャツとハーフパンツに、腰にはジャラジャラと何重ものチェーンと、いかにもなチャラついた風貌だった。
(見ず知らずのあんたなんかには関係ないだろっ……とは言えない、よね。逆ギレされて殴られでもしたらたまったもんじゃない)
学校のクラスの中でも比較的大人しめなグループに属していた少年にとって、現れた彼はハッキリと言ってしまえば真逆なタイプの人間だ。水と油くらいに親和性が無いだろう。もちろん、できることなら関わり合いにはなりたくない。
「別に……なにもしてないですよ」
少年はそう思い、当たり障りのない返答をした。
「そうなのか? なんか随分と思い詰めてそうだったし、車道にでも飛び込むんじゃねえかと思っちまったよ」
「えっ……っ」
再び心臓が大きく跳ね上がる。図星を突かれかけた少年だったが、それでも平静を装うとする。
「き……気のせいですよ」
「オマエ、ウソつくの下手だなあ」
特に何か悪いことをした覚えもないが、罪悪感に似た感情が少年の胸を締め付ける。
(なんでもいいだろ、ほっといてくれ……!)
仮に今『死にたい』と告げたところで、両親が他界した事実を打ち明けたところで、一体彼に何ができようか。せいぜい同情が良いとこだろう。余計なお世話でしかない。
「……本当になんでもないですから」
そう思い至った少年は、外方を向くように冷たく突き放した。男は、おかしいなと言ったように首を傾げ、少年を観察し続けている。
「オマエ、名前は?」
「……名前なんて聞いてどうするんですか」
「聞いただけだよ。俺は詠人っていうんだ、オマエは?」
「…………陸」
先に名乗られてしまった手前、自分も名乗り返さないといけないような義務感に苛まれたリクは、ボソリと小さく名を告げた。
「そうか……リクか。うっし、じゃあコレやるよ。お近付きのシルシってやつだ」
エイトはそう言うと、ポケットからセンスを疑うような蛇柄の長財布を取り出し、その中から一枚の名刺をリクに無理矢理と渡すように握らせた。
(なんだ……?)
手の平サイズほどの白い名刺には、恐らく彼が活動の拠点としているであろうオフィスの住所に加え、携帯電話の番号やメールアドレスが記載されている。だが何よりも目を引いたのが『特殊音楽療法心療士 蒼井詠人』という、彼のフルネームの横に載っていた聞いたこともない肩書きであった。
(怪しい、というか胡散臭すぎる……!)
「うおっ、やっべ! バイト始まっちまうんだった!」
名刺を凝視したリクが疑念を募らせるのを余所に、エイトは本来の所用を思い出したようだ。すると瞬く間に焦った様子へと早変わりを見せ、駆け足で公園を後にしていく。
「またな、リク! それと――」
そして、去り際に一度だけ振り返ると――
「――死にたくなったら、いつでも電話しな」
リクが手にした名刺に向けて指差しそれだけを告げた彼は、繁華街がある方角へ颯爽と走り去っていったのだった。
「…………」
みるみる内に小さくなっていくエイトの大きな背中を、見えなくなるまでリクは黙って見続けている。いきなり吹き荒れては通り過ぎていく、突風のような男だった。
(悪い人では……ないのかな)
風貌こそ近寄りがたい雰囲気な上に、名刺に記載された肩書きの胡散臭さは拭えないが、案外まともな人なのかもしれない。
――『死にたい』という感情は、少しだけ和らいでいた。
4月20日