②
約束の日、薄曇りの空の下、俺たちは指定された住所を訪れた。裏通りに佇む一軒家は、まるで時間が忘れ去った場所のように、ひっそりと佇んでいた。長年の風雨に晒された外壁には無数のしわが刻まれ、所々剥落した箇所には蒼白い蔦が這い上がっている。錆び付いた雨樋からは、時折水滴が落ちる音が響いていた。
マリーの手が震えているのが見えた。彼女は深く息を吸い、真鍮のドアノッカーに手を伸ばす。重々しい音が静寂を破り、路地に反響した。
「…」
返事を待つ数秒が、異様に長く感じられた。
「おかしいですわ…」マリーの声には不安が滲んでいる。「確かにこの時間に、とはっきり約束したはずなのに…」
その時、俺の目が扉の隙間に留まった。かすかに開いている。風が通り抜ける度に、古い蝶番が悲鳴のような軋みを上げている。エミリオと視線が交差し、彼もまた同じ違和感を感じ取ったことが分かった。
「失礼します」
俺は淑女としての作法など忘れ、慎重に扉を押し開けた。埃の舞う空気が鼻をつき、かび臭い匂いが漂ってきた。薄暗い廊下には、誰かが突然姿を消したかのような、異様な静寂が満ちていた。
足音を殺しながら進むと、廊下の突き当たりにリビングらしき部屋の入り口が見えてきた。カーテンが引かれた窓からは、わずかな光が差し込んでいる。
その時だった。
「っ…」
思わず息を呑む。目の前の光景に、体が凍り付いたかのように動かなくなった。
天井から吊るされた男性の姿。グレーがかった短髪に整った髭。首には太い麻縄が巻き付けられ、その命を失った肉体は、まるで古びた人形のように虚空に浮いていた。机の上には封蝋で封をされた手紙が一通。そして、その傍らには空のブランデーグラスが転がっていた。
「お父様…!」
マリーの悲鳴が、埃っぽい空気を震わせた。その声には、15年分の未完の言葉が全て詰まっていたかのようだった。次の瞬間、彼女の細い体が力なく崩れ落ちる。
「エミリオ!」
咄嗟の判断で命令を下す。執事は一瞬の躊躇いもなく動きだした。
「はい!」
エミリオは手際よく梁に登り、遺体を丁寧に下ろし始める。その仕草には不慣れな様子が見られず、俺は一瞬、彼の経験の深さに思いを巡らせた。遺体が床に横たえられると、エミリオは首に触れる。だが、既に死後硬直が始まっているようだった。
「マリーさん…」俺は優しく声をかける。「残念ですが…」
言葉を終える前に、彼女は静かに意識を失っていた。苦悩に満ちた表情が、かえって痛ましい。
「エミリオ、警察を呼んで。周囲の人に中に入らないよう取り計らって」俺は短く息を継ぐ。「そしてマリーさんを病院に連れて行ってくれ」
「かしこまりました」
エミリオは素早く行動を開始する。彼の足音が廊下に消えていく中、俺は死体の周囲を注意深く観察し始めた。令嬢のドレス姿で現場検証というのも滑稽だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「本来なら触れるべきじゃないんだけどな…」俺は呟きながらドレスの裾を整える。「依頼人がいる以上、確認はしておかないと」
リビングの様子を改めて見渡す。古びた家具が無造作に配置され、長年人が住んでいない印象を受ける。埃を被った窓からは薄暗い光が差し込み、浮遊する埃の粒子が幻想的な光の帯を作っていた。
男の遺体に近づき、観察を始める。首に巻かれていたロープは麻製で、新しいものではない。その端は天井の梁にしっかりと結び付けられており、結び目は複雑だ。横倒しになった椅子。グラスの染みが付いたテーブル。一見すると、典型的な首吊り自殺の現場のように見える。
だが、何かが違う。直感的にそう感じていた。
慎重にテーブルに手を伸ばす。過去視の力を使えば、最期の真実が見えるはずだ。指先が冷たい木の表面に触れた瞬間—。
過去の映像が意識を満たしていく——。
深夜のリビング。曇り空の合間から漏れる月明かりが、レースのカーテンを透かして室内に差し込んでいた。その光は家具の影を不気味に歪め、壁に這わせている。アンティークの置時計が深夜零時を指す中、二人の男が意識を失った男の体を抱え上げていた。
男たちの服装は、機械油のような黒い染みで無造作に汚れている。その染みは月明かりに反射して、まるで生き物のように蠢いているように見えた。
「早くしろ!」低く沈んだ声が静寂を切り裂く。その声には若干の焦りが滲んでいた。
「わかってる」もう一人が短く返す。呼吸が僅かに荒い。
一人が躊躇なく椅子の上に立ち、手慣れた動作でロープを梁に掛けていく。その手つきには明らかな慣れが感じられ、結び目を作る指の動きは無駄がなかった。もう一人の男は、フォスターの首に丁寧にロープを巻き付けている。
「これで終わりだ」
その言葉と共に椅子が蹴り飛ばされ——。音を立てて床に転がる椅子の音が、静寂の中で不自然なほど大きく響いた。
「…他殺か」
俺は過去視から意識を現実に戻し、冷静に状況を整理する。他殺、犯人の顔はわかった。次はそれを立証できるように情報を集める段階だ。改めて部屋を見回すと、より多くの不自然な点が浮かび上がってきた。
床に残された黒い足跡。微かに油のような艶を帯びている。被害者の靴の裏には…無い。慎重に足跡に触れると、新たな映像が浮かび上がる。
広大な工場の内部。重機が並び、床には機械油の染みが点々と残されている。作業員たちが忙しなく行き交う光景。
机の上に目を移すと、乱雑に積まれた手紙の山が目に入った。黄ばんだ封筒や折れ目のついた書類が、まるで崩れそうな砂の城のように不安定に重なっている。一通一通丁寧に確認していく。紙の質は安っぽく、インクの滲みが時間の経過を物語っていた。
「全て借金の催促か…」
請求書、督促状、最終警告。それぞれの封筒から覗く債権者からの容赦ない文面が、まるで追い詰められた男の人生を映し出すように並んでいる。高利貸しからの脅迫めいた督促状や、銀行からの冷たい取り立て通知。遺産相続の話を持ち出した、あの上品な紙質の手紙とは、あまりにも状況が違いすぎる。
給与明細を見ると、工場労働者としての月給は最低限の生活すら満足に送れないほどの額だ。遺産を残したと娘に連絡するような経済状況では、到底ない。封筒の端に残された指紋や、シワになった紙の質感からは、幾度となく開封され、悩み苦しんだ痕跡が伝わってくる。
ふと積まれた手紙の束の中に、一通の不可解な文書を見つけた。一見すると無秩序に見える数字と文字が、何かの規則に従って整然と並べられている。その配置には明らかな意図が感じられた。
過去視を試みる。だが、まるで濃い霧の中を覗き込むように、不自然なぼやけ方をする。普段なら鮮明に浮かび上がるはずの過去の映像が、まるで誰かに意図的に かき消されたかのように、焦点が定まらない。この違和感は、先ほどの遺産相続の手紙と同じだった。
(これは…まさか)
閃きが走った瞬間、背筋に冷たいものが走る。マリーが父から受け取ったという手紙—あの手紙に触れた時の違和感が蘇ってきた。過去視が霧の中を彷徨うように曖昧になる感覚。そして今、目の前の現場でも同じ現象が起きている。
警笛の音が近づいてくる中、俺の確信はより強まっていった。
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