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煌びやかな廊下から一転、質素で実務的な空間に入る。使用人たちの詰め所は、貴族の館とは思えないほど簡素な造りだった。床は木の板張り、壁には実用的な棚が並び、古びた机と椅子が無造作に置かれている。部屋の奥には制服用のエプロンや上着が掛けられた木製のハンガーラックがあり、その前に一人の男が立っていた。


白いエプロンを身につけたトーマスは、がっしりとした体格の中年男性だった。頬はこけ、目の下には疲労の色が濃く残っている。肩を落とした姿勢からは、長時間の取り調べで心が折れかけている様子が窺えた。


「私は無実です」


繰り返されるその言葉には、もはや諦めが混じっていた。普段は威勢の良い料理長の声とは思えないほど、力のない響きだ。バーンズ警部補の追及で、既に賭博による借金の事実は明らかになっている。それでも、まだ何かを隠そうとする様子が見て取れた。


「こんにちは、トーマスさん」


突然の声に、トーマスは肩を僅かに震わせた。その目が、豪奢な館にそぐわない華やかなドレス姿の少女を不思議そうに捉えている。バーンズ警部補の背後から現れた令嬢の存在が、あまりにも場違いに映るのだろう。


「私はジュリア・モリアーティと申します。卿からティアラを探す様に依頼を受けた探偵ですわ」


「たん…てい…」


トーマスの口が呆然と開いたまま固まる。その表情には「まさか、この若い令嬢が?」という困惑が露わに浮かんでいた。厨房で腕を振るう料理長には、社交界の令嬢が探偵を務めるという発想自体が信じがたいものなのだろう。


「さてトーマスさん」俺は相手の困惑など意に介さず、淑女らしい微笑みを浮かべたまま尋ねる。「二日前の夜はどちらに?」


「ずっと厨房で翌日の準備を…終えた後は…部屋に戻りました…」


トーマスは言葉を濁す。その目が僅かに泳ぎ、視線は右上を向く。借金の事実は既に警察に知られているのに、なお真実を語ろうとしない。その態度のちぐはぐさからは何らかの意図が透けて見えた。


さりげなく、俺は彼の上着の袖に触れた。その瞬間、過去の映像が鮮明に浮かび上がる。


——深夜の裏門。トーマスが老年の門番に頭を下げている。「すまない、今夜だけ…誰にも言わないでくれ」懇願するような声。門番は溜め息をつきながらも、密かに門を開ける。その後、近くの安酒場に入り、グラスを重ねていく。「本当にすまない…」呟きながら、酔いつぶれるまで飲み続ける姿——


(なるほど…門番のことを守ろうとしているのか)


事件当夜、彼は確かに館にはいなかった。しかし、その事実を認めることは、自分を密かに外出させてくれた門番までも窮地に追い込むことになる。だからこそ、嘘をつき通そうとしているのだ。金銭的な問題で既に館の評判を落としている自分が、これ以上周囲に迷惑をかけたくない――そんな思いが、その態度から滲み出ていた。


「トーマスさん」俺は詰め所の木製の椅子に座りながら、穏やかに切り出した。「少し気になることがあるのですが…金庫の仕組みについて、ご存知でしたか?」


「金庫…ですか?」トーマスは困惑した表情を浮かべる。「厨房の者には、そんな大切なものの扱いは任されていません」


「まさかね」バーンズが鼻で笑う。「料理人風情に、あんな精巧な金庫の仕掛けなど…」


「その通りです」俺は淑女らしく微笑む。「では警部補殿、なぜ彼が犯人なのでしょう?あの金庫は二段階の解錠システムがあり、その仕組みを知らなければ開けられないとおっしゃっていましたよね?」

バーンズの表情が強張る。「それは…」


「そして」俺は更に続ける。「もしトーマスさんが本当に犯人なら、なぜティアラだけを狙ったのでしょう?金庫の中には他にも換金可能な品があったはず。借金を抱えた人物が、わざわざ最も目立つ品だけを選ぶでしょうか?」


トーマスは黙って俺の言葉を聞いている。その目には、希望の光が少しずつ戻りつつあった。


「まして、ティアラは非常に特徴的な品。」俺は淑女らしい仕草で説明を続ける。「白金に深い緑色のエメラルドを二十個も配した逸品。名匠の技が込められた、一目で分かる美術品です。そのような品を売ろうとすれば、即座に発覚するはず」


バーンズ警部補の顔が徐々に青ざめていく。机の上で組んでいた太い指が、少しずつ力を失っていくのが見える。


「一介の料理人が、このような高価な品を売り捌けるルートを持っているとは考えにくい。美術品の価値を知る目利きと、それを取引できる闇の人脈。そのどちらも、厨房で働く方には縁遠いものではありませんか?」


論理的な推論が重ねられるたびに、バーンズの確信は崩れていく。その丸々とした頬から血の気が引いていくのが分かった。


「そして…」俺は静かに切り込む。「二日前の夜、本当に貴方はお屋敷にいたのですか?」


トーマスの体が小さく震える。この質問は彼の弱点を突くものだと、その反応が物語っていた。


「嘘をつき続けるには、それなりの覚悟が必要です」俺は穏やかに諭すように続ける。「しかし、この状況で黙秘を続けることに、どれほどのメリットがありますか?既に借金の事実は明らかになっている。それなのに、なお真実を語らないのは、誰かを守るため…ということではありませんか?」


トーマスの目が僅かに揺れる。その疲れた表情に、決意が浮かび上がってきた。


「…実は」トーマスは深いため息をつく。「あの夜、私は近くの酒場で飲んでおりました。門番には…黙っていて欲しいと頼み込んで…」その声は徐々に小さくなっていく。


「つまり」俺は静かに結論づける。「確かに借金という動機はありました。しかし、金庫を開ける手段も、ティアラを換金する機会も、持ち合わせていなかった。そして何より、犯行時刻には館の外にいた。これが真実ではないでしょうか?」


「…確かに」バーンズは渋々認める。分厚い首を傾げながら、更に付け加える。「物証も上がっていないしな…それに、酒場での目撃証言も確認できるか」


トーマスの肩から力が抜けていく。長時間の取り調べで疲れ切った表情が、少しずつ和らいでいった。

「ありがとうございます…本当に…」その声には、深い安堵と感謝が込められていた。「門番には申し訳ないことを…」


朝の陽が窓から差し込み、トーマスの安堵の表情を柔らかく照らしていた。深い疲労の色が残る顔に、やっと穏やかな表情が戻りつつある。


一方、バーンズ警部補は頭を抱えて椅子に深く腰掛けている。「また振り出しか…!」太った体が軋むような音を立て、彼は溜め息をついた。確信していた容疑者を失い、捜査の方向性を見失った焦りが表情に浮かんでいる。


エミリオが俺の背後に近づき、誰にも聞こえないよう慎重に声を潜める。「彼が犯人でないことはわかりましたが…この後はいかがしますか、お嬢様?」


俺は優雅に手を翳しながら微笑む。エミリオには聞こえるよう、でも他の誰にも聞こえない程度の声で呟く。「屋敷に犯人が潜んでいるのなら、話は簡単だ」


エミリオは一瞬、俺の意図を悟って目を見開くがすぐさま執事らしい冷静な態度を取り戻し、同じように小声で忠告する。「あまり、無茶はされませんように…」その声には、主を気遣う執事としての深い懸念が滲んでいた。


バーンズ警部補の方へ向き直り、最も淑女らしい声音で語りかける。「バーンズ警部補」


その声は、まるで銀の鈴が転がるような清らかさを帯びていた。それと同時に絶対に断ることは許さないと言う圧もあった。「屋敷の方全員とお話をさせていただけますでしょうか。使用人の方々も含め、一人一人と」


毎日12時更新予定です。

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