17章 真実を悪意 ③
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時計の針は22時を回っていた。
静まり返ったオフィスには、キーボードを叩く乾いた音だけが響いている。俺以外の所員たちはすでに退勤し、フロアに残っているのは俺一人だけだった。
(……少し、浮かれすぎたな)
今日は、まあ、色々とあったが……。
十九年越しの片思いが実るということが、これほどまでに人間の理性を鈍らせるものだとは。
ポーカーフェイスには絶対の自信を持っていたこの俺でさえ、感情がダダ漏れになっていたという事実に、改めて小さくため息をつく。
残っている仕事を終わらせて早く帰ろう。
そう思って手元の資料に目を落とした時、デスクの隅に置いていたプライベート用のスマートフォンが、着信音を鳴らした。
(……光か?)
光からのLINE通話だと思い、自然と口角を緩めて裏返していたスマホひっくり返す。
しかし、ディスプレイに表示された名前を見た瞬間、俺は予想外の文字に目を見開いた。
「……啓司?」
思わず、低い声が漏れる。
以前、たまたま啓司の所属する球団の親会社で顔を合わせた時以来だ。あの時、別れ際に彼が見せた、後悔に歪んだ顔を思い出す。
でも……なんだ。今更、何用だ?
俺は眉間に微かな皺を寄せながら、通話ボタンを押してスマートフォンを耳に当てた。
「……もしもし」
『もしもし! 秀介!?』
電話口から飛び込んできたのは、驚くほど明るく、裏表のない声。それは、かつて高校の教室で毎日のように聞いていた、あの頃の啓司そのもののトーンだった。
「啓司。……久しぶりだな」
俺は内心の警戒を悟られないように、あくまで平静な声で返す。
以前すれ違った時はかなり沈んでいたように見えたが、今の声の明るさは、俺が今まで光から聞いていた『自分勝手で無神経な青田』のイメージとは少し違っていた。
『いきなり電話してごめん! どうしても話したいことがあって、竹田から秀介の連絡先を聞いたんだ』
(竹田か……)
去年のクリスマスイブ、俺が参加した飲み会にいた、啓司のシンガポール旅行の写真を俺に見せてきた男だ。
「……話したいこと?」
なんだ、話したいことって。
まさか……光とよりを戻したいとか、そういう身勝手な戯言じゃないだろうな。
俺の胸の奥で、冷たい感情が鎌首をもたげる。
すると、啓司は電話の向こうでスゥーッと大きく息を吸い込み、さらに明るい声を出した。
『おう! まず一つ目なんだけど……秀介と一途名、もう付き合ったのかなって!』
「…………え?」
俺は、思いがけない啓司の直球すぎる言葉に、完全に裏をかかれて目を丸くした。
「なんで……お前が、それを?」
『えっ!? ……俺、なんかマズいこと聞いた!?』
俺の反応を聞いて、逆に啓司がひどく狼狽え始めた。
この、何も考えずに頭に浮かんだことを一直線に言葉にしてしまう単細胞なところは、本当に昔から変わっていない。
ふと、高校時代の記憶が蘇る。
誰もが言いにくいような理不尽な状況でも、啓司は空気を読まずにパッと思ったことを口にして周囲を驚かせ、結果的に無意識のうちに困っている奴を助けたりしていた。良くも悪くも、純粋すぎる男なのだ。
そんなかつての記憶を思い出し、俺はピンと張っていた警戒の糸を、少しだけ緩めた。
「いや……なんでお前が俺たちのことを知ってるんだと思って」
俺は誤魔化すことなく、正直に答えた。
『あ、なんだ! え、秀介、一途名から聞いてねぇの!?』
「何をだ?」
『俺、三月の末頃に、一途名に復縁求めて告白したら……見事に振られたんだよ!』
嘘偽りのカケラもない、清々しいほど真っ直ぐな啓司の言葉に、俺は再び言葉を失った。
「……はぁ!?」
光からそんな話、ただの一度も聞いていない。
『あの秀介が本気で驚くなんて、俺もびっくりだわ! 本当に、一途名から何も聞いてなかったんだな!』
「……ああ」
(なんで光は俺に話さなかったんだ……)
そう疑問に思ったが、すぐに答えは出た。きっと、心配性の光のことだ。俺に余計な心配をかけたくないという理由で、自分の中に留めておいたのだろう。
結果的に啓司をきっぱりと振っているのなら、別に問題はない。
『でもさ、その時一途名に言われたんだ。「今の好きな人は、私のことをすごく大切にしてくれるから、その人しか見てない」って。それで、見事に玉砕したわ!』
啓司は、あっけらかんとした声で笑った。だが、その声の端には、少しだけ悔しさを隠しているような微かな震えが混じっていた。
「……そうか」
啓司の言葉を聞いて、俺の胸の奥がジーンと熱くなる。
光が、高校の三年間ずっと片思いをしていて、それでやっと付き合えた初恋の人で……振られてからもずっと未練を断ち切れずにいた啓司ではなく。他の誰でもない『俺』を選んでくれたという事実が、どうしようもなく嬉しかった。
『それでさ! 一途名がそんな風に大切に思ってる相手っていったら、秀介しか浮かばなくて! 別れ際に「その好きな奴って秀介だろー!?」って叫んだら、一途名の奴、図星って感じで目まん丸にしてたから! それで確信したんだ!』
……自分が振られた相手の去り際に、そんなことを叫ぶ奴がどこにいるんだ。
色々とツッコミどころは満載だが、啓司らしいと言えば啓司らしい。
「教えてくれてありがとう。……でも、啓司的に、自分が振られた元凶である俺に、わざわざ電話を?」
俺だったら絶対に、自分の元カノと付き合った相手に連絡などしない。
『そんなこと、何も気にしてねぇわ!! ただ純粋に、お前ら二人を応援したいなって思ったのと、結局どうなったかが気になっただけだ!』
啓司は、裏表の全くない、カラッとした明るい声で答えた。
その言葉に、俺は背中をポンと押されたような感覚になった。
……そうだ。
光を雑に扱った啓司に対して、ずっと強い怒りと軽蔑を抱いていたが。彼自身の根っこの部分は、あの頃から何も変わっていなかった。
裏表がなくて、素直で、直球で物事を言う。それが時として最悪の方向に働くこともあったが、今の俺のように、自然と誰かの心を軽くしてくれることもある。
どこか無邪気で、感情がすぐに顔に出る裏表のないところ。光と少しだけ似ているそういう部分を、俺はどうしても憎みきれなかったのだ。
だから、光が高校時代に啓司のことを好きになったのも……あの時は、少しだけ納得してしまっていた。
だが。
それならどうして、そんな奴が光のことをあんな風に泣かせたんだ?
「……なあ、啓司。なんで、復縁を乞うくらいだったのに、一度光と別れたんだ?」
俺も、彼に倣って直球で疑問をぶつけた。
すると、電話口の啓司の声が、急に申し訳なさそうな色を帯びた。
『あーー……。正直言って、俺が未熟だったせいなんだ。二軍で燻ってた時は、一途名の支えがなかったら絶対やっていけなかった。だから、一軍に上がれた時は、本当に一途名のおかげだって思って付き合ったんだ』
その話は、光からも聞いていた。俺は静かに頷く。
『でも、一軍でレギュラーとしてチヤホヤされるようになって、俺の悪いところなんだけど、見栄張りな部分が出ちゃってさ……。周りの選手がモデルや女子アナと遊んでるのが当たり前な環境で、高校の同級生っていう『普通』の一途名の存在が、なんか物足りなく感じちまったんだ。そこから距離を置いて、都合よく扱うようになって……。本当に、サイテーなことしたと反省してるよ』
啓司は、淡々と、自分を卑下するように声のトーンを落としていった。
それを聞いて、内心では「ふざけるな」という静かな怒りも湧いたが、心の底から反省している様子の彼に、それ以上追及する気にはなれなかった。
「……そうだったんだな。で? なんで別れることになったんだ?」
俺は冷徹に事実だけを確認する。たしか、光が三十歳になる年に、啓司から一方的に別れを切り出しているはずだ。
『ああ、それは……。その時、ちょうどテレビ局の仕事で出会った、女子アナウンサーのことが本気で好きになっちまって。それで、別れたんだ』
啓司の口から出た言葉に、俺はピタリと動きを止めた。
眉間に深い皺を寄せ、思わず口元を手で覆う。
(……アナウンサー?)
俺の脳内に、ある記憶のピースがカチリと音を立ててはまった。
「……啓司。実は俺、去年のクリスマスイブの時、竹田たちと飲みにいってたんだ」
『あっ! 中村が誘ってくれて、俺が都合で行けなかったやつな!』
俺の意図にも気づかず、啓司は無邪気に答える。
「ああ。その時、竹田が言ってたんだ。啓司は『今、アナウンサーの彼女と一緒にシンガポールに行ってるから、今日の飲み会は行けない』って。お前と、その彼女が一緒に写っている写真も見せてもらった。……もしかして、そのアナウンサーって、お前が三十の時に好きになったっていう奴か?」
『えっ!! そうだけど、なんで秀介がそこまでわかったんだ!?』
啓司は、純粋に驚いたような声を出した。
おかしい。
俺の知っている事実と、決定的な矛盾が生じている。
「……それと、実を言うと俺は。去年のクリスマスイブの『ある出来事』がきっかけで、光と幼馴染だけの関係じゃなくなったんだ」
『え!? なんの出来事!?』
全く裏の感情を感じさせない、直球の問いかけ。
「……光は、あのクリスマスイブの日。お前と約束していて、ずっと来ないお前を極寒の外で待っていたんだ」
俺は、低く冷たい声で真実を突きつけた。
『え……? ……なに、それ……? 俺が……?』
啓司の声が、完全にショートした。
その反応で、俺は確信した。啓司は、あのクリスマスの夜のことを……光との約束をドタキャンしたことを、『本当に何も知らなかった』のだ。
「そうだよ。待ちぼうけを食らっている光のところに俺が駆けつけて、そこから全てが始まったんだ」
『えええええええ!!!! 嘘だろ!? 俺、そんなの全然知らない!!!』
電話口で、啓司がパニックに陥ったように叫ぶ。
『俺はあの時、竹田が言ってた通り、そのアナウンサーの彼女とシンガポールに行ってただけだ!! 一途名と約束なんて、一切してない!!』
この取り乱しよう。絶対に嘘はついていない。
「……落ち着いて聞け、啓司。あと二つ、確認したいことがある」
俺は、自分の仮説を実証するために、一つずつ質問を投げた。
「まず、なんでお前は、そのアナウンサーの女と別れて、光に復縁を求めたんだ?」
『落ち着いていられっかよ!! ……別れたのは、シンガポールから帰ってきた後、急にその彼女と全く連絡が取れなくなったからだ! 完全に音信不通にされて……同じ立場になって初めて、自分が一途名にしてきたことの愚かさに気づいて。やっぱり、俺には一途名しかいねぇ! って思ったからだよ!』
パニックになりながらも、啓司は答える。
「じゃあ……最後だ。その『アナウンサーの彼女』って……誰だ? もしかして、俺と光の『面識がある人間』じゃないか?」
俺が、最後のパズルのピースを要求すると。
啓司は、ハァハァと息を荒げながら、決定的な名前を口にした。
『そうだよ!! 山田みよりだよ!!!』
「っ……!!」
『俺はずっとアイツに片思いしてて、でも全然相手にされてなかったのに! あのクリスマスが近づいてきた頃になって、急にアイツの方から「付き合おう」って言ってきたんだよ!!!』
――完成した。
すべてのピースが繋がり、一枚の悍ましい絵が完成した。
「……やっぱり、な」
『やっぱりなって何だよ!! 何がわかったんだよ! てか、なんで秀介、相手がみよだってわかったんだよ!!』
頭が追いついていない啓司が、電話口で騒ぎ立てる。
「……いや。ずっと引っかかってたんだ。あのクリスマスの日、啓司が光をドタキャンしたって事実が」
俺は静かに語り始めた。
「あの時は純粋に光が傷ついている姿を見て、お前のことが許せなかった。でも……高校の頃からのお前を知っている俺からすれば、お前は『絶対に自分が言った約束は守る奴』だったから。そもそも行く気がないのなら、最初から約束なんてしないはずだとな」
まあ、光と付き合っていたなら最後まで一途に守り通せよとは思うが。結果的にそのおかげで光と俺が付き合えているのだから、そこは不問にしておこう。
『しゅっ……秀介ぇぇ!! やっぱお前、最高の友達だよ!!!!』
俺の言葉を聞いた啓司は、電話の向こうで感動したように泣きそうな声を上げた。
だが、すぐにハッとして、息を呑む音が聞こえた。
『待って……じゃあ……あのクリスマス、誰が……一途名と約束したんだ?』
「……心当たり、あるんじゃないか?」
俺が低く尋ねると、啓司は震える声で言葉を紡いだ。
『あっ、そうだ……!! 思い出した!! それを秀介に言おうと思ってたんだ!!』
「何をだ?」
『俺、身に覚えがないうちに、一途名のLINEが俺のスマホからブロックされてて……。それで、こないだ一途名に告白した時にも、なんか「クリスマスに酷いことされて、今の好きな奴に助けてもらった」って言ってたんだよ! でも、俺が一途名に酷いことしたのは三十歳の別れた時までで……その時、秀介は日本にいなかっただろ!?』
「……ああ、そうだ」
『だから……みよ、いや、山田が、俺のスマホを勝手に操作して、一途名を呼び出したんじゃないかって……。それで、頭のいい秀介に相談したくて……っ!』
啓司から出たその言葉が、俺の推理を完全に裏付けた。
「俺も全く同じ結論だ。あのクリスマスイブ、啓司のLINEを使って光と約束を取り付け、放置したのは……間違いなく、山田みよりだ」
すべては、光の心を徹底的に破壊するための、あの女の悪辣な罠だったのだ。
その後、啓司との通話は数分で終わった。
彼の要件は「俺と光がどうなったかを知りたかった」ことと、「山田が何か怪しいから秀介の意見が聞きたかった」ということ。
そして最後に、『また何か山田の動きがあったら、すぐに教えるからな!』という、今の俺にとっては非常に心強い言葉を残して電話は切れた。
「…………」
俺は、プライベート用のスマホをデスクの上に置き、再び静まり返ったオフィスで一人、PCのモニターを見つめた。
啓司との電話によって、あのクリスマスイブの不可解な謎がすべて解明された。
そして、きっと、当日すでに関係は終わっていた2人だったが、光がプロ野球戦と付き合ってたのが気に食わなくて、青田にその時は近付き、別れるように仕向けたのと山田みよりだ。
だが……同時に、俺の胸の奥で、警鐘がけたたましく鳴り響いていた。
(あの女……想像以上に、やばい)
山田みよりの光に対する執着と、その悪意の深さは、俺の想定を遥かに超えている。
人の心を弄び、緻密な罠を張り巡らせることに、一切の躊躇がない。
(だからこそ……あの女が、このまま大人しく引き下がるわけがない。絶対に、また何かが起きる)
俺は、キーボードの上に置いた自分の手が微かに震えているのを感じた。
恐怖ではない。愛する者を脅かす底知れぬ悪意に対する、静かな怒りと焦燥だ。
「……早急に、対応しなければ」
光を守るために。
俺は冷たい決意と共に、水面下での徹底的な反撃の準備を進めるため、再びキーボードを強く叩き始めた。




