1 元魔王
男は街の景色を見て目を細めた。
この国の首都である街の中は活気で満ちている。少し前では考えられなかったことだが、人間も魔族も同じ道を争うこともせず行き交っている。石畳の道の端では屋台が建ち並び、そこでは商売に精を出している者たちがいる。
男は、その光景に目尻を下げた。この光景を見て微笑まずにいろと言われる方が無理に決まっている。
元の表情に戻ったあとも、男の目尻には深い皺が刻まれていた。それは長い時を歩んできた男の勲章のようであった。
男は満足そうに頷いて、喧噪の中をゆっくりと歩き出した。
そうしているうちに、心惹かれる匂いが男の鼻をくすぐった。男は匂いのする方を見ると、
「お」
思わず声を漏らした。それほどまで、心惹かれる光景がそこにあった。
その屋台からは、もくもくと煙が上がり、旨そうな串焼きが網の上で焼かれている。男はふらふらとその香りに惹かれるように歩みを進める。
「一本もらえるかな?」
屋台の前に立ったときには、もうその言葉を口にしていた。
「あいよ!」
恰幅のいい女性が、すでに焼き上がった串焼きを渡してくれる。男はすぐにそれにかぶりついた。
「……うまい」
熱くて、肉汁がしたたる串焼きを口にして、男は自然と呟く。
「こんなに美味しいものを食べたのはいつぶりだろう……」
「あっはっは! お客さん、嬉しいこと言ってくれるね」
男が漏らした言葉を聞いて屋台の女性が豪快に笑う。
「いや、本当にうまかった。馳走になったな」
ぺろりと串焼きを食べた男は笑って立ち去ろうとする。すると、屋台の女性が声を上げた。
「ちょいとお待ちよ! 食い逃げかい!? ちょいと、誰かこの男を捕まえとくれ!」
「な……、そ、そうだったな。そんなつもりは……」
男は慌てて荷物を探る。そういう時に限って、肝心のものは出てこない。その間に周りはざわざわと騒ぎ出す。
そのとき、
「失礼しました。この人は私の連れでして。この人はおっちょこちょいなところがありましてね。こちらがお代です」
男にとって見覚えのある顔の若者がどこかからやってきて、屋台の女性に串焼きの代金を渡した。
「なんだ、連れがいたのかい。それならそうと早く言っておくれよ。勘違いしちまったじゃないか。すまなかったね。けど、ここは盗っ人も多いからね。お客さんも気を付けておくれよ」
串焼きの代金を無事にもらえた女性は、打って変わってにこやかになった。周りに集まってきた人たちも、騒ぎが解決したと見るとすぐにどこかへ行ってしまった。
「ふう」
男はほっとして汗を拭う。そして、代金を払った若者を見て言った。
「助かった。けど、こんなところで何をしているんだ?」
「魔王、いえ、前魔王様こそ。本当にお供も付けずに人間界をうろうろして、何をされているんですか」
若者も男に向かって言い返す。
「馬鹿、こんなところでそれを口にするな。誰かに聞かれたらどうする」
「はっ。申し訳ございません」
「まったく。バレたら堂々と歩けなくなるだろう。人間に姿を変えているとはいえ、顔はそのままだしな。意外と気付かれないもんだが。ゼオ、お前も人間の姿が似合っているではないか」
「ありがとうございます。前魔王様」
「だから、やめろと言っているだろう。俺のことはアウィンと呼べ」
「そんな、恐れ多い」
元魔王であるアウィンの影となって働いていたゼオには、確かに本当の名を呼ぶなど恐れ多いことかもしれなかった。そもそも、魔王の座についてからアウィンの名前を呼ぶ者などいない。ずっと魔王様と呼ばれてきた。
アウィンは肩をすくめて、ため息をついた。
「それなら、好きなように呼ぶがいい。ただし、前魔王以外でな」
「はっ。では、ご隠居様でよろしいでしょうか?」
「ん、まあ、確かにな」
アウィンは苦笑いした。魔王の座を次世代に譲り渡して引退した身だと考えれば、その呼び方は確かに正しい。
「まあ、いい。それで頼む。それにしても、どうしてこんなところにいるんだ?」
「それはもちろん、魔王、いえ、ご隠居様の護衛に決まっております。もう引退したから人間界に旅に出るなどと言い出したので、お守りするようにと仰せつかっております」
「あいつか……、心配性め」
アウィンは魔王在位中にあれこれと世話を焼いてきた側近の顔を思い浮かべた。そうとわかれば無理に振り切ってもゼオはついてくるだろう。
「好きにしろ。だが、俺の邪魔はするなよ」
「はっ」
そう言うと、ゼオは雑踏の中に消えていった。
「やれやれ」
アウィンは再び歩き出した。
ようやく数百年間やってきた魔王の座から解放されて、ただの男に戻れたと思っていた。だが、そう簡単にいくものではないらしい。
アウィンは空に向かって伸びをする。そのままあくびが出る。城の中ではこんなことは出来なかった。魔王には威厳が必要だった。
久々の城の外の空気を、アウィンは腹の底まで吸い込んだ。




