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第二話 Bパート




 ――同時刻。医王山家の門前には一人の女性が佇んでいた。若々しくはつらつとした印象の、まだ二〇代に見える女性――だが実際にはもう結構いい歳になっている。飛鳥の同僚で交際相手、恋路いるかだった。

 長い時間門前でためらっていたいるかだが、やがて覚悟を決めたようだ。悲壮感に満ちた表情でいるかは医王山家の呼び鈴を押す。屋内で鳴る呼び出しの電子音、そして誰かの軽い足音がどんどん玄関に近付いてくる。いるかは緊張でこわばった顔を掌で揉みほぐした。

 玄関のドアが開いてことりが顔を出す。いるかは幼児番組のお姉さんのように朗らかに「こんにちわ、ことりちゃん!」と挨拶をした。


「……」


 が、ことりは沈黙したままだ。敵意に満ちた視線を向けられ、いるかの笑顔が引きつってしまう。


「……あの、久しぶりねことりちゃん。覚えてないかな、わたし恋路いるか。去年の駐屯地の盆踊りのときに一緒にお店を回ったでしょ?」


「覚えてますよ、いるかおばさん」


 いるかはますます頬を引きつらせるが必死に笑顔を繕った。


「ええとね、今日は飛鳥さんとことらちゃんがちょっと遅くなるらしいの。それでことりちゃんが一人になっちゃうから、様子を見るよう飛鳥さんにお願いされて」


「別に要らないです。さよなら」


 ことりが即座に玄関のドアを閉めようとする。いるかはダッシュで飛びついてぎりぎりでそれを防いだ。


「ちょっ、ちょっと待って! わたしが自分から買って出たことなの! お願いだから面倒見させて!」


 といるかはことりを拝み倒す。見下ろすような目をいるかへと向けることりだが、


「……わたし、主婦だから忙しいんです。家の掃除と晩ご飯の用意をしなきゃいけないから」


「あ、それなら掃除を手伝うよ! 掃除は得意だから任せて!」


 ことりは勿体ぶった態度を取って、


「……それならどうぞ」


 しぶしぶ、といった体を取りつついるかを家の中へと招き入れる。いるかは露骨に安堵しながら「お邪魔します」と入っていった。

 そのときことりが悪辣な嗤いを見せていたことをいるかが知る由もない――ほどなく理解することにはなるが。


「それじゃここからお願いします」


 とことりがいるかを案内した先はトイレである。いるかは(内心どう思ったかはともかくとして)「うん、判った」とその依頼を承諾。懸命に掃除をし、便器の内から外までぴかぴかに磨き上げた。

 小さな一戸建ての小さなトイレが一つだけであり、大して時間がかかったわけではない。掃除後のトイレを確認したことりは「なるほど」と頷き、


「それじゃ次はこっちです」


 とは続いて風呂場へといるかを案内した。


「それじゃお願いします」


 とことりが去っていく。スポンジと洗剤の容器をそれぞれの手に持ったいるかは少しの間呆然としていたが、やがて気を取り直して風呂掃除に取りかかった。

 ……いるかには結婚の経験はないが、


「噂に聞く姑の嫁いびりってこんな感じなのかな」


 と思わずにはいられない。風呂掃除の後は廊下の掃除を命令され、いるかは廊下を何往復も雑巾がけした。廊下もぴかぴかに磨き上げ、いるかは自分の仕事に満足していると、


「……」


 ことりは無言のまま人差し指の腹で廊下の一番端をなぞる。そしてその、埃で汚れた指の腹をいるかに見せつけた。


「……はい、やり直します」


 いるかは再度廊下を、端っこを中心に清掃。どうやってもいちゃもんが付けられないくらいに磨き上げる。その頃には体力のほとんどを使い果たしてへとへとである。


「それじゃ次はこっちです」


 だがことりは容赦しなかった。今度は庭の草刈りだ。半ば自棄になったいるかは残った気力体力を注ぎ込んで、親の敵を取るような勢いで鎌で草を刈っていく。夕陽はすでに沈み、とっくに夜になっている。それでもいるかは夜闇の中で草刈りを続けた。

 草刈りが終わる頃には時刻はもう夜の8時を回っており、いるかは精も根も尽き果てている。ちょうどそこに飛鳥が帰宅してきた。


「飛鳥さん」


 といるかの顔が、花が咲くように明るくなった。車庫に飛鳥が自家用車を駐車しようとしているのが庭からも見える。だが、


「お父さんが帰ってきたからあなたはもう要りません。ここからは家族の時間ですので」


 ことりはいるかを追い立て、門の外へと追い出してしまった。いるかの眼前で医王山家の門扉が冷たく閉ざされる。


「お帰りなさい、お父さん」


「遅くなって悪かったな。……その、恋路君は?」


「誰も来なかったよ?」


 家の中での会話がいるかの耳にも届いている。だがそこにいるかの入る余地はなかった。


「……はあ」


 泥と草の汁に汚れた自分の姿に、いるかは悲しげなため息をついた。疲れ切った様子で肩を落とし、医王山家に背を向け、悄然としたいるかが帰路に着く。いるかは夜の住宅街を力ない足取りで歩いていった。

 ……そのいるかに、何か良からぬものが近付いていた。路上にはいるかの他に誰もおらず、何もいない。だがそこには目に見えない何かがいた。月明かりがアスファルトの上に、一つの人影の他に四つ足を付く獣の姿を写し出している。その獣の影がいるかの影に接近し、接触する。いるかの影に入り込み、混ざり合っているかの影と一つとなる。

 だがいるかはこれっぽっちも気が付かなかった――自分に何かが取り憑いたことに。




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