1-1 最初で最後の仕事
真っ赤に燃え盛る炎が、すぐ目の前まで迫っていた。急いで逃げなければ、数分もしないうちに焼け死んでしまう。だが、ここで逃げれば父親を見殺しにすることになる。安倍春樹は残酷な選択を強いられていた。
「春樹、これはお前にしか出来ないことだ。頼んだぞ」
「父さん! どうして俺なんだ!? そういう話なら、俺より兄さんの方が……」
倒れてきた柱の下敷きとなった男は淡々とした口調で話を続ける。
「いずれ、分かる。私でも、奴でも、ダメなのだ」
「そんなこと言われたって……。って、そんなことより、いいから早く逃げないと!」
「残念ながら出れそうにないのだよ。ここでお前に死なれては困るのだ。私のことはいい。さあ、早く行きなさい」
「そんなっ……」
もはや迷っている時間はないことは春樹の目にも明らかであった。この神社は古い木造建築であり、あまり耐久性にも優れているとは思えない。そして既に火はいたるところから立ち上がり、木の弾ける音があちこちから聞こえてくる。
「あとは……頼んだぞ……」
「なんだよそれ……。そんなの、俺なんかにっ……!」
「さぁ……行け、行くんだっ!」
父の顔が歪む。限界が近い。春樹は心を押し殺し、父に背を向け、出口めがけて一心不乱に駆けていった。
「……それでいい。ここからが、お前の物語だ……」
庭に出た春樹が振り返る。風に火が煽られる。一瞬、父の顔が見えた。笑みなど見せることもなく、何を考えているのか分からなかった父親は、どこか満足そうな顔をしていた。そして、また火の中へと消えていった。
平安時代、魑魅魍魎が跋扈した都において一際異彩を放つ者がいた。
陰陽師、安倍晴明だ。
彼は陰陽道を極め、京に蔓延る邪を片っ端から退治していった。その名は妖からも人からも恐れられ、晴明亡き後も、その子孫は長い間朝廷に支えてきたと言われている。平安時代とは、陰陽師無くしては成り立たない時代であった。
だが、妖たちが大々的に行動するのをやめた鎌倉時代以降、安倍家をはじめとする陰陽師たちは表向きの役目を失ってしまう。しかし、妖たちは狡猾に人の世に混じり、邪悪を働こうと画策していた。そこで安倍家の子孫をはじめとする陰陽師たちは、各地に散らばって結界の核となる社を立て、人知れず戦いを続けたのだった。
そして、先日火事で消失したこの熊野神社も、その一つであった。
今、その焼け跡を前に、一人の男が立っている。
阿部春樹。由緒正しき熊野神社の神主、故・安倍清衡の次男である。
「父さん……どうして俺なんだ……」
その答えは、もう二度と返ってこない。だが、父は言った。「いずれ、分かる」と。だが、それを信じて気持ちを切り替えられるほど、春樹は前向きな男ではなかった。今はただ、その言葉の真意を考えるべく、こうして焼け跡を前に一人で物思いにふけることしかできなかった。
その時、後ろから一人の男が足音を立てながら近づいてきた。
「こっちが聞きたいくらいだ!!」
不快感を露わにした聞き覚えのある声に、春樹は仕方なく後ろを振り向く。そして、振り向いた途端、遠慮の欠片もない拳に春樹は殴り飛ばされてしまう。
「どうしてお前がのうのうと生きている? なぜ親父を助けなかった? いや、お前を助けるために親父は死んだんだ。お前が親父を殺したんだよ!」
「……」
春樹は答えない。兄、春香の言葉は、何一つ間違っていないからだ。
あの時、柱に潰されて焼け死ぬのは自分だったのだ。倒れてくる柱の下敷きになるところを、父は咄嗟に春樹を突き飛ばした。父は春樹の身代わりとなったのだ。本来であれば、父親は術を使っていかようにでも脱出できたはず。しかし不幸なことに、ちょうど柱に潰されて、腕が使えなくなってしまったのだ。印を組めなければ大した術は使えない。兄の言葉通り、自分を助けたせいで、父は死んだのだ。
「どうして術もろくに使えないお前なんかのために……!」
春樹は術を使うことができなかった。素質に差はあれど、安倍家の者は何かしらの術を得意としている。しかし、春樹だけは何の力も持たずに生まれてしまった。もちろん、力に目覚める年齢も人それぞれであるため、初めは大器晩成だ何だと言われて可愛がられていた。だが、力に目覚めることはなかった。それ故、今か今かと期待していた周囲の人たちの落胆も大きく、その分だけ扱いもぞんざいなものへと変わっていった。今や安倍家に、春樹の居場所はない。
「何か言ったらどうだ? この出来損ない!」
「俺が、俺が聞きたいくらいだよ。どうして俺なんかのために……」
「くっ……このっ!!」
春香が再び拳を握る。春樹は殴られるのを覚悟して、手を下ろしてそっと目を瞑る。だが、その行為は春香を余計に苛立たせるだけだった。
「そういうところが昔からムカつくんだよ! くそっ!」
春香は拳を握りしめたまま振り返ると、一度も振り返ることなく去っていく。
春樹と春香は、一つ違いの兄弟である。兄の春香は今年20歳になる大学生だ。そして弟の春樹は、高校を出て、これからいよいよ大学に進学するというところだった。だが、今回の事件により、そう悠長なことを言っていられなくなった。
跡継ぎ問題である。
本来であれば春香が大学を卒業し、十分な修行を経てから、父に変わって熊野神社を継ぐはずであった。しかし、その清衡が急逝してしまった今、一刻も早く跡継ぎを決め、体制を立て直す必要があった。そのため春香は大学に通いながら跡継ぎとしての引き継ぎをこなしつつ、臨時で様々な仕事を処理するという大変な目に遭っているのだ。春樹に腹を立てているのは、それに拠るところもあるだろう。
そもそも、将来有望な跡継ぎとして期待と重圧の中で育てられた春香と、落ちこぼれの烙印を押されて何の期待もかけられずに育った春樹とでは、馬が合うはずもないのであった。
熊野神社を後にした春樹は、荷物を纏めていた。余所行きの、大きな鞄である。これから春樹が向かおうとしているのは、父から渡された地図に示された、田舎のとある神社だ。あの時、柱に潰された父の胸元から抜き取ったものである。
春樹は、父の最期の言葉を口に出しながら、自分に与えられた役目について、その真意を探ろうとしていた。
「『これはお前にしかできないこと。お前だけが、奴を滅することが出来る。あとは全て、そこに行けば分かる』か……」
渡された古い地図一枚には、何かを示す丸印がつけられていた。その地点にはどうやら小さな神社があるらしい。あとは、父の言葉を信じ、そこに向かうだけである。
火事から数日で行動に移そうとしている春樹だが、別に父の言葉を全て間に受けて任務を果たそうとしているというわけではない。ただ、その言葉の真意をどうしても確かめたい。無能である自分に一体何ができるのか。それを確かめたいという思いがあったからだ。
春香には父の最期の言葉は告げていない。幸いにして、大学が始まるまでそれなりの日数もある。春樹は覚悟を決めていた。
「これが俺にとって、最初で最後の陰陽師としての仕事だ」
春樹にとって初めての仕事が、そして、長い長い最後の仕事が、いよいよ始まろうとしていた。




