ハローグッバイ
そうしてまたいつもの日常が始まった。学はまたバイトのシフトを増やした。涼子はまた後ろの方の席で友達と授業を受けている。なにも変わらない。二人が一緒にいたあの一年間が特別だっただけで。そう自分に言い聞かす。いつもと違うのは涼子の姿がよく目に入るようになってしまったことだけ。それでももう目を合わすことはない。暗黙の了解のように、きっと二人はお互いを見ているのに、視線は交わさない。まるで夢から覚めてしまったかのように。 バイトが終わり、学が自分のアパートに帰る。寂しく冷え切った部屋のこたつにスイッチを入れる。
「さむっ……。」
まだ外にいるほうがマシのように思えた。寒色のコンクリートは体温をみるみるうちに奪っていく。上着を着たままこたつに入るが、もちろんまだ温まってはいない。
テレビをつけた。よく分からないバラエティ番組をやっている。出演者たちは楽しそうに笑う。いや、もしかしたら腹の中では笑っていないのかもしれない。それでも楽しそうに見えるのだから大人はすごい。自分はまだまだ大人になれてない。体が大きくなっただけの子供だ。いつになったら大人になれるのだろうか。いつになったらもっと物事を割り切れるのだろうか。
頭では割り切った。しっかりと理解もした。それでも体のどこかがまだ痛い。痛いのかすら分からない。痛いままでいたかった。
玄関に置かれたダンボール箱が視界に入った。中には実家から送ってもらった大量のみかんが入っている。一向に減る気配はない。
「こんなたくさん一人で食べれるかって……」
出来るだけ多く送ってほしいと親に頼んだのは自分なのに、少しの時間差で残念な結果になってしまった。もう少し……。あと三週間くらい早ければ、食べてくれる奴がいたというのに。
自分の馬鹿さ加減に呆れて笑う。あの時はこんな風になるなんて微塵も考えていなかった。当たり前じゃないことを当たり前だと思ってしまった。勘違いしてしまった。学はそのままこたつで横になる。疲れた。考えても何も変わらないのにそんなことは理解しているのに、ただ一つのことがずっと頭を巡っている。
気づけば日が昇っていた。どうやらそのまま寝てしまったらしい。時計を見るともう九時だ。久しぶりに熟睡した。つけっぱなしのテレビの雑音が、だんだんと明確になっていく。休みの日でよかった。学校のある日だったら遅刻していた。寝ぼけながら起き上がり、大きく背伸びをした。
「いつまで寝てるのよ。せっかく私が遊びに来てるのにさぁ」
涼子に怒られた気がした。
テレビのチャンネルを回してみる。興味を唆る番組はやっていない。仕方がないからもう一周回してみる。
「一巡でスパッと決めなさいよ!ていうかうるさいから消してよね」
涼子に文句を言われた気がした。
仕方がないのでテレビの電源を消して、大量のノルマであるみかんをダンボールから三個ほど取り出す。こたつに並べて一つ皮をむいた。剥き終わると一つちぎって口に放り込む。甘さも酸っぱさもちょうどいいバランス。相変わらず美味しい。
こたつの向かい側で、涼子が笑って大好きなみかんを食べてる気がした。そんなことを考えてしまった自分に気がついた。静かに一粒、頬を伝ってこぼれ落ちる。また一つ後を追うように溢れる。気づかないほど、自然に。
「バカねぇ。あんたなに泣いてんのよ」
そんな風に呆れてくれる気がした。
大学四年生、冬。
成績表が家に送付される。無事必修単位を取得出来た。卒業だ。長いようで短かった。そういえば誰かが言っていたな。入学したと思ったら卒業していたって。今になってそれが本当だと気づいた。
そして数日が経ち、今日はゼミの飲み会のために街へ行く。ゼミで出来た友達は学科の友達に比べて距離が近い。学科の友達には申し訳ないが、ようやく心を許せる。休日にも遊びたいと思える友達が数人出来た。学にとって大きな変化だった。
大学近くのバス停に並ぶ。中途半端な時間のせいかバス停には自分一人。
待っているとあとから後続がチラホラと並び始める。お目当てのバスが到着した。バスの窓に反射した自分を見て、そういえばあの時は二人だったなと、ふと思い出していた。
学は風の噂で涼子が無事卒業出来たことを知る。渡しそびれたプリントもこれで後悔する可能性がなくなった。
だんだんと外の空気は温かくなる。
こうしてまた一年が終わり、始まっていく。自然と笑顔が溢れる。学生も今日で終わりだ。卒業式はスーツに振袖。みんなすごく楽しそうだ。学もゼミの友達と一緒にいた。泣いている奴はさすがに見当たらない。学長の姿を生で見たのはこれでようやく二回目。
ギュウギュウにつめられたパイプ椅子から立ち上がり体育館をあとにする。
学科ごとに集まっているはずだが、今更になって初めて見た顔も多い。教室で卒業証書をもらう。本当に筒でもらえるのだなと少し感動した。まずまずのレベルの大学だが、やはり学びにきていたのだなと最後の日に実感する。校舎の前でゼミの友達と最後の挨拶を交わす。言い残したことはないが、最後となるともっとどうでもいいことを話したいと思った。
学の後ろから春一番の強風が突然吹いた。
学は手にもっていたプリントを飛ばされてしまった。仕方なく走って追いかけた先に女の子がいた。飛ばされたプリントを拾ってくれた。
「スーツ、まぁまぁ似合ってるじゃない」
「涼子も振袖、綺麗だよ」
「バ、バカっ。いきなりキレイだとか言うんじゃないわよ。でもありがとう」
優しく涼子は微笑んだ。約一年ぶりくらいだろうか。あの日となにも変わらず。
「それにしてもアンタ卒業出来たんだねぇ。友達いないしすぐ寝坊するし無理だと思ってたわ」
「あぁ、新しく友達も増えてさ。ちゃんと卒業も出来たよ」
「うっ、アンタ相変わらずね。そのボケ潰し。私が性格悪い人みたいじゃない」
また会うことが出来たなら、また話すことが出来たなら、言いたいことはたくさんあったはずなのに。全部忘れてしまった。
「ほら、友達待ってるわよガク。私ももう行かなきゃ」
「うん」
「じゃあね」
別々の方向へ歩き出す。学がふと振り返ると、涼子もこっちを振り返って見ていた。
「卒業おめでとう」
いつもの笑顔で涼子はそう言った。
それがなんだかとても懐かしくて、胸が温かくなった。出会えてよかった。今なら心からそう言える。
五年後。
十二月二十四日。
雪が降っている。
学は大学がある県内での就職が決まり、会社員として働いていた。
夜の八時過ぎ。いつもの公園の横を通る。ヒラヒラとキレイな雪は、まるで恋人たちの楽しい日々を彩るかのように。
今でもたまに仕事終わり、この公園で肉まんとコーヒーを買って一服することはある。しかし今日は先約があるのでまっすぐに帰路につく。
公園の中を横目で覗く。よかった。今日は雪の中ベンチの前で寝ている女は誰一人としていないようだ。もう10年近く住んでいるアパートの扉を開ける。鍵はかかっていなかった。玄関には見慣れない靴が置いてある。キッチンの横を通りぬけ、こたつのあるワンルームの扉を開けた。
見慣れた後ろ姿が一人。相変わらずテレビは付けない主義のようだ。
「それおいしいだろ?」
「まぁまぁね。この甘さと酸っぱさの絶妙なバランスが……」
「つまりおいしいんだな?」
「うん……。」
相変わらずだなぁと学は思った。
「メールでも送ったけど、アンタ遅くなりそうだったから先に隠してあった鍵使って入ったから」
「あぁ、うん」
「相変わらずね、あんた。最後に会ったのいつだっけ?」
「五年前くらい。卒業式の日」
「もうそんなに経つっけ」
「うん」
「久しぶりガク。元気だった?」
振り返ったその顔は、あの時よりも少し大人っぽくなって、またみかんを美味しそうに食べながら、なにも変わらない笑顔をくれた。




