## 第六話 ありがとう
# 『生きることにつかれた』
## 第六話 ありがとう
「美咲――」
優しい声だった。
どこか懐かしくて。
温かくて。
聞いただけで涙が出そうになる声。
美咲の肩が震えた。
「……お兄ちゃん?」
信じられないという顔だった。
二十年間。
会いたくて。
会いたくて。
ずっと待っていた人。
その声が今、確かに聞こえた。
---
ホームの向こう。
柔らかな光が集まっていく。
そして。
一人の男性の姿が現れた。
三十代くらい。
優しい目をした青年だった。
美咲は立ち上がる。
涙が止まらない。
「お兄ちゃん……」
「ごめんな」
兄は笑った。
「待たせたな」
その言葉だけで。
美咲は声を上げて泣いた。
---
「ごめんなさい……!」
最初に出た言葉は謝罪だった。
「何で謝るんだ?」
兄は困ったように笑う。
「ありがとうって言えなかった……」
「会いに行けなかった……」
「いっぱい迷惑かけた……」
二十年間抱えていた言葉が溢れ出す。
だが兄は首を振った。
「違うよ」
「え?」
「俺の方こそありがとうだ」
美咲は目を見開く。
---
「お前がいたから頑張れた」
兄は静かに言う。
「父さんがいなくなって」
「苦しいこともたくさんあった」
「でもな」
兄は笑った。
涙を浮かべながら。
「お前が笑ってくれるだけで幸せだった」
美咲の涙が止まらない。
---
「だから」
兄は一歩近づく。
「ありがとう」
その言葉。
たった五文字。
それだけなのに。
二十年間凍りついていた美咲の心が溶けていく。
---
「お兄ちゃん……」
「うん」
「ありがとう」
ついに言えた。
ずっと言いたかった言葉。
たったそれだけ。
だけど。
世界で一番大切な言葉。
兄は大きくうなずいた。
「ちゃんと聞いたよ」
---
その瞬間。
美咲の体を包む光が強くなる。
指先だけではない。
全身が優しく輝いていた。
美咲も気づいていた。
終わりの時が来たことを。
---
「悠人さん」
美咲は振り返った。
泣きながら。
でも笑顔だった。
初めて会った日のような。
優しい笑顔。
「ありがとうございました」
悠人は何も言えない。
胸が苦しい。
別れたくなかった。
---
「私ね」
美咲は言う。
「ずっと悠人さんが心配でした」
「俺?」
「はい」
美咲はうなずく。
「昔の私みたいだったから」
生きることに疲れ。
笑うことを忘れていた。
だから放っておけなかった。
---
「お願いがあります」
「何だ?」
「生きてください」
その言葉に。
悠人の目から涙がこぼれる。
「つらい日もあります」
「苦しい日もあります」
「逃げたくなる日もあります」
美咲は笑う。
「でも」
「それでも生きてください」
---
「人生はね」
最後に彼女は言った。
「思ったより悪くないですよ」
---
そして。
光の中へ消えていった。
兄と一緒に。
穏やかな笑顔のまま。
---
ホームには静寂だけが残る。
悠人は泣いた。
子供のように。
声を上げて泣いた。
悲しいからじゃない。
寂しいからでもない。
きっと。
救われたからだ。
---
春が来た。
数か月後。
悠人は教員免許取得のための勉強を始めていた。
簡単な道ではない。
失敗するかもしれない。
夢は叶わないかもしれない。
それでもいい。
歩いている。
前を向いて。
生きている。
それだけで十分だった。
---
ある日の帰り道。
駅のホームを通る。
あのベンチを見る。
誰もいない。
でも。
風が優しく吹いた。
まるで誰かが笑ったように。
---
悠人は空を見上げる。
そして静かに言った。
「ありがとう」
その言葉は。
きっと届いている。
どこか遠い場所で。
あの少女が笑っている気がした。
---
## 完
**生きることにつかれた。**
それでも。
誰かの優しさは、
また明日を生きる理由になる。




