点の感覚
「それって……点字?」
俺は思わず尋ねた。
宝の指先が、本の表面をゆっくりと滑っている。
撫でているようにも見える。
けれど、ただ触れているわけではない。
指先が小さな突起を一つずつ拾い上げ、その並びを確かめるように動いている。
「そうだよ。点字」
宝はそう答えながら、指を止めなかった。
右手の人差し指が、紙の上を滑っていく。
少し進む。
止まる。
また進む。
その動きには、一定のリズムがあった。
「それで読めるの?」
「うん」
「どうやって?」
「どうやってって……」
宝は少し考えた。
「普通に読むよ」
「普通に?」
「うん。文字を見る人が目で文字を追うでしょう? 私の場合は、指で文字を追うの」
そう言って、宝は自分の指先を俺に見せた。
「この小さな点の並びが、一つの文字になってるの」
「……」
俺は点字を見つめた。
小さな点が、いくつも並んでいる。
俺にはただの凹凸にしか見えない。
規則性があることは分かる。
構造も理解できる。
けれど、それを「文字」として認識することはできない。
「悪石先輩も読む?」
「いや、俺は点字……」
そこまで言って、俺は言葉を止めた。
「……」
宝が首を傾げる。
「?」
俺は点字の本を見る。
そして、宝の指先を見る。
俺は数学が好きだ。
数字を見れば、その背後にある規則を探したくなる。
点が六つ。
組み合わせ。
配置。
規則。
そういうものなら、俺にも理解できる。
けれど――。
宝が今感じているものだけは、分からない。
「そうだ」
俺は言った。
「俺、点字を感じることができない」
「……うん」
「だから、教えてくれないか」
宝が顔を上げた。
「何を?」
「その感覚を」
「感覚?」
「うん」
俺は点字の本に視線を落とした。
「俺は今、この点を見てる。でも、宝は見てない」
「……」
「指で触って、文字を読んでるんだろ?」
「そうだよ」
「なら、俺にも教えてほしい」
宝はしばらく黙っていた。
「でも……」
「ん?」
「点字って、そんなに特別な感覚じゃないよ?」
「それでもいい」
俺は答えた。
「俺には分からないから」
宝の指が、点字の上で止まった。
「……どうして知りたいの?」
俺は少し考えた。
数学なら、理由は簡単だ。
分からないから知りたい。
未知だから知りたい。
答えがあると思うから、追いかける。
でも、今回は少し違った。
「宝が見ている世界を、少し知りたい」
自分で言ってから、少し恥ずかしくなった。
宝は何も言わない。
ただ、しばらく俺の方を向いていた。
やがて――。
「じゃあ」
宝が、自分の隣の椅子を軽く叩いた。
「ここに座って」
「え?」
「教えてあげる」
俺は椅子に座った。
宝は点字の本を閉じると、一枚の点字カードを取り出した。
そして、それを俺の前に置いた。
「まず、触ってみて」
俺は指先を置いた。
ざらり。
最初に感じたのは、それだけだった。
小さな突起。
ただの点。
「これが……?」
「うん」
「何も分からない」
「最初はね」
宝が笑う。
「じゃあ、指をこうして」
宝の指が、俺の指のすぐ横に置かれた。
「力を入れすぎないで」
「こう?」
「もう少し優しく」
俺は指先の力を抜いた。
「そう。それで、点を一つずつ探すんじゃなくて、指をゆっくり動かして」
「……」
俺は言われた通りにした。
指先が点の列を滑っていく。
一つ。
二つ。
三つ。
俺にはまだ何も分からない。
けれど、宝はそれを見ていた。
いや。
見てはいない。
感じていた。
「どう?」
「……不思議だ」
「何が?」
「文字が、目の前にあるのに見えない」
宝が少し笑った。
「それ、私からすると逆なんだけどね」
「逆?」
「文字は見えないけど、指で分かるから」
俺はその言葉を聞いて、しばらく黙った。
数学では、目に見えないものを数式にする。
宝は、目に見えない文字を指先で読む。
俺と宝は、まったく違う方法で世界を理解している。
なのに――。
なぜか、その違いが少しだけ嬉しかった。
「もう一回、教えて」
「うん」
宝は笑った。
その笑顔を見ながら、俺は思った。
数学なら、未知のものはいつか解ける。
けれど。
宝の感じているこの世界だけは――
もしかすると、答えを出すものじゃないのかもしれない。
ただ、少しずつ触れていくものなのだ。
俺はもう一度、点字に指を置いた。
そして初めて、宝の世界に触れた。




