春に恋する
俺は春を愛している。
なぜなら、華の数学の二大巨頭の一人、ガウスが四月三十日――俺の誕生日と同じ日に生まれているからだ。
ただ、それだけではない。
冬の冷たさが少しずつ薄れて、街のあちこちに新しい色が増えていく。
桜が咲き、散り、若葉へと変わっていく。
数学の世界では、数字はいつだって同じ顔をしている。
一は一であり、二は二だ。
けれど、春だけは違う。
昨日まで何もなかった場所に、突然、花が咲く。
それが俺には、ひどく数学的な現象に思えた。
悪石平。
高校二年生。
そして、少し前までなら、ただの数学好きな高校生だった。
――少し前までなら。
俺は新しい数を発見した。
正確には、新しい数の構造を発見し、それを論文としてまとめた。
最初はただの興味だった。
数字を並べて、規則を探して、計算して。
誰にも理解されないようなことを、ひたすら繰り返していただけだ。
ところが、それが思いのほか数学界隈で話題になった。
海外の大学から推薦の話まで届いた。
だから、今日の俺は高校二年生になったばかりだというのに、教室に入った瞬間からその話題で持ちきりだった。
「お前すげえな。海外の大学からもう推薦の話きたのか」
声をかけてきたのは、クラスメイトの長嶋茂だった。
「まだ推薦ってだけだよ」
「いや、それがすげえんだって」
「別に」
「出たよ、お前のそれ」
「何が?」
「何がって……」
茂は呆れたように笑った。
俺には、どうしてそこまで騒ぐのか分からなかった。
数学は面白い。
ただ、それだけだ。
そんな他愛もない話をしているうちに、始業を告げる時間が近づいてきた。
「そうだ、体育館行くぞ」
茂が突然思い出したように言った。
「あぁ、そうか。入学式は体育館か」
二年生になった俺たちは、新入生を迎える側だった。
体育館へ向かい、指定された場所に座る。
やがて、新入生の入場が始まった。
何百もの靴音が体育館に響く。
整列する音。
椅子を引く音。
小さな話し声。
教師の注意する声。
俺はぼんやりと前を見ていた。
そのときだった。
体育館の入口から、一人の少女が入ってきた。
少女は白杖を持っていた。
いや。
正確には、白杖をつきながら歩いていた。
杖の先端が床に触れる。
コツ。
左。
コツ。
右。
コツ。
左。
一定の間隔で、音が響く。
その音に合わせるように、少女はゆっくりと歩いていた。
ただ、遅いわけではない。
迷っているわけでもない。
むしろ、歩き方には妙な安定感があった。
白杖が床を探り、少女はその情報を受け取っている。
俺は知らず知らずのうちに、その動きを目で追っていた。
少女の目は開いていた。
けれど、俺たちが普段「見る」と呼んでいるような視線の動きはなかった。
誰かを探すように左右へ目を動かすこともない。
俺はそのことに気づいた。
――見えていない。
そう思った。
けれど、それ以上考えることはなかった。
入学式は進み、やがて下校時間になった。
茂たちは進級記念だと言って、食事会に誘ってきた。
「悪い。俺、図書館行くから」
「またかよ」
「日課だから」
「お前、本当に数学以外興味ないよな」
「そんなことない」
「じゃあ来いよ」
「今日は無理」
そう言って、俺は一人で学校を出た。
図書館へ向かう道は、もう何度も歩いている。
交差点を一つ。
信号を渡って。
角を曲がる。
その途中だった。
道路脇に、一人の少女がしゃがみ込んでいた。
白杖を探している。
すぐに分かった。
入学式で見た少女だった。
白杖は少し離れたところに転がっている。
彼女は両手を地面に近づけていた。
けれど、すぐには見つけられない。
指先が地面を探る。
何もない。
少し横へ移動する。
また探る。
それでも見つからない。
俺はその場で立ち止まった。
いつもの俺なら、通り過ぎていただろう。
困っている人を助けないという意味ではない。
どう声をかければいいのか分からないからだ。
「大丈夫ですか」
なんて聞いてしまえば、逆に相手を困らせるかもしれない。
けれど今日は違った。
なぜか、足が止まった。
俺は白杖を拾った。
そして少女の近くまで歩いた。
「これ」
少女の手の届くところへ、白杖を差し出した。
「ぅん……これ」
少女の声が少し震えた。
俺が話しかけたことそのものに驚いているようだった。
「はい」
彼女は手を伸ばした。
その手が、俺の手首に触れた。
一瞬だけ。
そして、白杖を確認するように握った。
「……あ」
少女は小さく息を吐いた。
安心したのだろう。
「ありがとうございます」
その声は、思っていたよりもずっと柔らかかった。
俺は改めて彼女を見た。
肌は驚くほど白かった。
雪女という言葉が頭に浮かぶ。
肩まで伸びた髪。
整った顔立ち。
一般的には、美少女と呼ばれるのだろう。
ただ、俺が気になったのは顔ではなかった。
彼女の目だった。
瞳は俺の方を向いている。
けれど、俺の顔を見ているわけではない。
俺がどこにいるのか。
声がどこからしたのか。
その情報を頼りに、顔を向けているように見えた。
俺は少し考えてから言った。
「じゃあ、俺はここで」
踵を返そうとした。
「……あの」
少女の声が背中に届いた。
「はい?」
「あの、図書館ってどこですか」
俺は振り返った。
「図書館?」
「はい」
彼女は白杖を両手で持っていた。
その持ち方が、妙に慎重だった。
「今日からこの学校なので……まだ、道がよく分からなくて」
「……」
俺は一瞬考えた。
図書館までなら、俺も行くところだ。
「俺も用があるから案内するよ」
「本当ですか?」
「うん」
「ありがとうございます」
俺たちは歩き始めた。
最初、俺はどう案内すればいいのか分からなかった。
「こっち」
そう言って歩き出したところで、俺は気づいた。
――こっち、では伝わらない。
彼女には俺の指差した方向が見えない。
「ごめん」
「はい?」
「今の『こっち』は分からないよな」
少女は少し笑った。
「大丈夫ですよ」
「どうやって歩くの?」
「音です」
「音?」
「はい」
彼女は白杖を軽く動かした。
コツ。
コツ。
杖の先端が地面に触れる。
「白杖から伝わる感触とか、周りの音とか。足音の響き方とか」
「それで分かるの?」
「全部ではありません。でも、ある程度は」
彼女は少しだけ胸を張った。
「例えば、今は道が広いです」
「分かるの?」
「音が遠くまで返ってきますから」
俺は周囲を見た。
確かに学校から少し離れたこの道は、建物と建物の間が広い。
「それに、さっきから車の音が右側から聞こえています」
「……正解」
「でしょう?」
彼女は笑った。
その笑顔を見て、俺は少し驚いた。
彼女は何も見ていない。
なのに、俺よりも周囲のことを知っているように思えた。
歩いていると、前方から自転車が近づいてきた。
俺は反射的に言った。
「ちょっと待って」
少女の足が止まった。
「自転車が来てる」
「右ですか?」
「うん」
「分かりました」
彼女は少しだけ身体を左へ寄せた。
自転車が横を通り過ぎる。
「ありがとう」
「……今の、見えてた?」
「いいえ」
「じゃあ、どうして右だって?」
「音です」
少女は当然のように答えた。
「自転車の音が右から近づいてきましたから」
俺は黙った。
目が見えない。
だから何も分からない。
俺は、どこかでそんなふうに考えていたのかもしれない。
けれど違った。
彼女は彼女の方法で世界を見ている。
視覚ではない。
音。
触覚。
匂い。
足元から伝わる感触。
空気の流れ。
そして、記憶。
それらを組み合わせて、自分の中に地図を作っている。
「名前、聞いてもいい?」
俺が尋ねると、少女は少し間を置いた。
「私の名前は――」
風が吹いた。
桜の花びらが一枚、俺たちの間を通り抜けた。
「諏訪之瀬宝です」
「宝……」
「はい」
「変わった名前だね」
「よく言われます」
「俺は悪石平」
「平さん」
「平でいいよ」
「では、平くん」
その呼び方が、妙に新鮮だった。
俺は数学の世界なら、未知の数を見つけたときに興奮する。
だが、今目の前にいる少女については、何も分からない。
見えないということさえ、俺には完全には理解できない。
どんな景色を見ているのか。
どんな色を知っているのか。
あるいは、色というものをどう認識しているのか。
聞いてみたい気持ちはあった。
けれど、初対面でそんなことを聞くのは失礼な気がした。
だから聞かなかった。
「宝」
「はい?」
「図書館、もうすぐだから」
「本当ですか?」
「うん」
宝は少しだけ顔を上げた。
その目は、俺のいる方向を正確には捉えていない。
それでも、なぜか俺を見ているような気がした。
「楽しみです」
「図書館が?」
「はい」
「本、好きなの?」
「好きです」
「何の本?」
「いろいろです」
「数学も?」
「数学……」
宝は少し考えた。
「嫌いではありません」
「じゃあ、好きでもない?」
「まだ、よく分からないんです」
「何が?」
「数学が、どんなものなのか」
俺は思わず笑った。
「それ、結構難しい質問だよ」
「でしょう?」
宝も笑った。
そして、白杖を前へ伸ばす。
コツ。
コツ。
コツ。
その音が、春の道に響いた。
俺はその横を歩いた。
目の前には、桜が咲いている。
風に花びらが舞っている。
暖かな春の日差し。
そんな景色を、俺は当たり前のように見ていた。
けれど隣にいる宝には、その景色がない。
その事実に、俺は初めて気づいた。
――いや。
本当に、ないのだろうか。
宝は何も見ていない。
それでも歩いている。
音を聞き、杖で地面を探り、風を感じ、匂いを拾い、記憶の中に道を描いている。
俺が「見る」という一つの方法に頼っているのに対して、宝は別の方法で世界を組み立てている。
それは数学に少し似ていると思った。
目に見えるものだけが、すべてではない。
数字だってそうだ。
目に見えない規則を、俺たちは式にして初めて理解する。
ならば。
彼女が感じている世界にも、俺には見えない規則があるのかもしれない。
「平くん」
「何?」
「どうしました?」
「いや」
俺は少し考えてから答えた。
「……なんでもない」
宝はそれ以上聞かなかった。
ただ、歩き続けた。
コツ。
コツ。
白杖が地面を叩く。
その音が、一定のリズムで続いていく。
やがて、俺たちは図書館の前に着いた。
「着いたよ」
「ありがとうございます」
宝は立ち止まった。
そして、図書館の入口へ顔を向けた。
「……ここですね」
「分かるの?」
「匂いが違います」
「匂い?」
「本の匂いがします」
俺は思わず入口を見た。
俺には何も感じない。
ただの図書館だ。
けれど宝にとっては違う。
紙の匂い。
木の匂い。
空調の風。
人の気配。
足音。
それら全部が、彼女にとっての「景色」なのだ。
「すごいね」
俺がそう言うと、宝は少し困ったように笑った。
「何がですか?」
「いや……」
俺は言葉を探した。
「世界って、いろんな見方があるんだなって」
宝は少し黙った。
そして、
「そうかもしれません」
と答えた。
春の風が吹いた。
桜の花びらが舞う。
俺には、それが見えていた。
宝には見えていない。
でも――
もしかしたら。
この春、俺が初めて見つけたものは、新しい数ではないのかもしれない。
そんな気がした。




