四話|禁書庫に眠るもの
本の匂いが、フィオルは好きだった。
紙の擦れる音も、静かな空気も、頁をめくるたびに知らない世界へ少しずつ触れていける感覚も。
だから翌日の授業が『魔導文学』だと聞いた時だけは、フィオルの心もほんの少し軽くなった。
加護がなくても、知識を得ることはできる。
魔法を使えなくても、物語を読むことは許されている。
それだけが、フィオルにとって救いみたいな時間だった。
「今日は蒼天の塔で屋外授業だってさ!」
朝からロイは目を輝かせていた。
「塔の中って、めちゃくちゃ広いんだろー!? オレ、一回行ってみたかったんだよな!」
「うん。僕も楽しみだよ」
「な! 遠足みたいだよな!」
けらけら笑うロイにつられて、フィオルも少しだけ笑った。
やがて生徒たちは、王都セプティムの中央にそびえる巨大な尖塔――蒼天の塔へ向かった。
青硝子で形作られた塔は、朝の陽光を受けて淡く輝いていた。見上げても頂上は遠く、今日も空を支えているように見える。
塔の内部へ足を踏み入れ、案内された部屋へ入った瞬間、生徒たちから小さなどよめきが漏れた。
「すげぇ……」
「なにここ……」
フィオルも思わず息を呑んだ。
蒼天の塔、大書庫――
そこは、本で出来た迷宮だった。
天井へ届きそうな本棚が幾重にも並び、古びた革表紙の本、銀箔で飾られた魔導書、青白い光を放つ記録結晶が静かに眠っている。細い空中回廊や梯子が複雑に入り組む様は、まるで巨大な樹の中を歩いているみたいだった。
「うわぁ……! すげー!!」
ロイが目をきらきらさせながら辺りを見回した。
「なあなあ、フィオル! これ全部読むのに何年かかるんだろーな!」
「多分、一生かかっても無理だと思う……」
フィオルは小さく笑った。
けれど、その視線はふと二階奥の『ある場所』へ吸い寄せられた。
そこだけ、空気が違う。
その中が、気になる。
本棚の奥に、巨大な白銀の扉が静かに佇んでいる。扉の前には、白く発光する無数の文字列が浮かんでいた。まるで扉を開ける者を拒む鎖のように、幾重にも重なって揺れている。
「あれが、禁書庫よ」
澄んだ声が響いた。
振り返ると、一人の女性教官が立っていた。黒髪を後ろで束ね、無駄のない教官用スーツに身を包んでいる。落ち着いた黒い瞳には、厳しさよりも穏やかさがあった。
イリス教官だった。
「書庫の中では騒がないようにね。本が拗ねると面倒だから」
軽い冗談に、生徒たちが小さく笑う。
その一言だけで空気がやわらぐあたり、彼女が慕われている理由が分かる気がした。
イリスに連れられ、生徒たちは『禁書庫』の前へ歩み寄った。近づくほど、白銀の扉を囲む文字列が淡く明滅して見える。
「今日は、この封律文字について学びます」
その言葉に、周囲の空気が少しだけ引き締まった。
イリスは扉の前に浮かぶ光文字へ指先を向ける。
「封律文字とは、結界魔法を文字として固定化する技術です。普通の魔法は発動と共に消えていくけれど、文字という形に変えることで、長く維持できるの」
白い文字が、ゆっくりと揺れた。
「つまり、これは意味を書いた文字ではなくて、文字の形をした結界そのものなのよ」
ロイがぽかんと口を開ける。
「文字なのに、結界……?」
イリスは微笑んだ。
「そうよ。この禁書庫は、いくつもの封律文字を重ねた『重複封律』で守られてる。簡単には、触れることもできません」
「ほんとに、文字だけで結界になるのかよー?」
クロフトが疑わしそうに呟く。
「なんか弱そうだな」
レオルルも少し笑った。
イリスは怒らず、静かに振り返る。
「それなら、実際に触れてみましょうか」
「えぇっ!? いいの!?」
生徒たちの間にざわめきが広がった。
順番に呼ばれた生徒たちが、恐る恐る手を伸ばしていく。
しかし、その指先は白い文字へ届く前に止められた。見えない壁に弾かれたように、空気そのものが手を押し返す。
「うわっ、ほんとに触れねえ!」
「なにこれ、硬いど……」
クロフトも、レオルルも、ミリオも同じだった。
誰の手も、封律文字の先の扉へは届かない。
「分かったかしら。封律文字は『拒絶の意思』を込めた立派な結界だってことよ」
イリスはそう説明し、それからフィオルの方を見た。
「さ、フィオルくん。次はあなたの番よ」
その瞬間、周囲の空気がわずかに揺れた。
後ろから、小さな笑い声が漏れる。
「加護なしが触ったらどうなるんだろうな」
「むしろ、すりぬけちゃったりする?」
「ぷぷっ。加護に反応できないもんな」
フィオルは一度だけ息を飲み、ゆっくりと前へ出た。
禁書庫の前に立つ。
目の前の光文字は、静かに揺れていた。
けれど、他の誰の時とも違うような、かすかな違和感がある。
拒まれている感じがしない。
むしろ。
待たれているような気がした。
「大丈夫よ。怖がらないで」
イリスの穏やかな声に、フィオルは小さく頷いた。
震える指先を、そっと伸ばす。
白い光へ触れた、その瞬間だった。
封律文字が、フィオルの指先に応えるように震えた。
浮かび上がった文字列が、点滅する。
消えて、灯る。
消えて、また灯る。
それはまるで、長い眠りの中から誰かが目を覚まそうとしているみたいだった。
「……え?」
フィオルが息を呑む。
イリスが、静かに目を細めた。
その時、禁書庫の扉の奥で、何かが小さく鳴った気がした。




