第一話 辺境の戦士に憧れた少年
悪役令嬢婚約破棄ものを嗜んでみたいと思い、たまによく見る辺境騎士団って何なのかなと思って、書いていたら、男主人公に謎の力が生えました。本題は、辺境騎士団が屑の美男を集めてる方なので許してください。
タイトルなどにコメディを書こうとしていた名残があります。全8話。
同シリーズの、戒律の厳しい修道院の方の話と同設定なので、聖句関連の説明はそちらを参照していただければと。
ヴェルデン連合王国。翠港都ヴェルダナの下町は、夕刻になると匂いで膨らむ。
運河沿いの通りを歩くだけで分かった。朝は干物と潮の匂いが支配していたそこは、夕暮れになると油で揚げた小魚の香ばしさと、煮込み料理の湯気と、焼き芋売りの煙が入り混じって、石畳にまで這うようだった。多くの店は商いを仕舞い始めている。日射しに褪せて若葉色になった屋根布の下で、果物屋が余った林檎をひと山いくらで叩き売り、それを値切る老婆の声が運河の水面を渡っていく。夏の夕暮れは長い。西の空が橙から薄紅に移り変わっても、まだ暗くはならなかった。
通りの角で、見知った顔の商人が何かをしていた。丸い腹をした羊毛商のドゥーノだ。胸元から小さな護符——天秤を象った真鍮のそれ——を引き出して、頭の上に掲げている。こんな時分に護符を出すのは、余程の商談でもあったのだろうか。向かいに立つ痩せた男が、同じように胸元から護符を出して掲げた。二人は短く何かを唱え合い、手を握った。ドゥーノの丸い顔が満足そうに弛む。護符が胸元に戻る。フェルンは何度もこの光景を見ていたが、意味はよく分からない。分からないが、不思議に思ったこともなかった。商人たちは大きな約束を交わす前に必ずそうするもので、それはヴェルダナの夕焼けと同じくらい当たり前のことだった。
運河を渡る石橋の上で、フェルンは足を止めた。
欄干に肘をつくと、西の空がよく見えた。沖に出る船が三艘、夕焼けの中に黒い帯を引いていた。帆柱は遠く、茜色に染まった海面をゆっくりと滑っていく。
「——星導きの下に」
桟橋の方から声が聞こえた。低い、男の声だ。それに応えるように別の声が重なる。
「星導きの下に——」
今夜出る船の乗組員たちだろう。夕暮れの出航は珍しくない。潮の具合がよければ何時だって出る。空を仰げば、まだ淡い宵の明星がひとつ、港の真上あたりに光り始めていた。今夜の航海神も、船が迷わぬように空に灯を掲げてくれるだろう——フェルンはそう思い、そして、そう思ったことすら意識しなかった。
石橋を渡り切ると、道は細い路地に入る。路地の突き当たりの角を曲がれば——精霊の社だ。通りから一歩引いた石壁の窪みに収まった小さな祠で、刻まれた竪琴の意匠が、夏の斜陽に輪郭を光らせていた。風化した石の罅筋に、ふと目が止まった。古いものの罅は——フェルンの目にはいつも、少しだけ明るく浮き上がって見える。なぜかは知らない。気にしたこともなかった。
今日は花が多い。近所の女たちが二人、祠の前にしゃがみ込んで、野の花を束にして供えていた。色とりどりの雑草の花を、祠の足元にいくつも並べている。特別な日というわけではない。母もときどき同じことをしている。花を置いて、短く手を合わせて、それだけだ。とりたてて祈る言葉はない。ただそうするものだった。
女たちの一人がフェルンに気づいて笑った。「お母さんの煮込み、今日もいい匂いだねぇ」
確かに、路地を抜けると匂いが変わった。腹の減る匂いだ。
角を曲がると、見慣れた木の看板が軒先に揺れていた。ネモリスの宿——フェルン・ネモリスの生家であり、両親が切り盛りする下町の旅籠。ネモリス家は下位貴族で、ヴェルダナの翠工房——魔法工学と魔導具製造の工房街——の片隅に、小さな魔導具の修理店を構えている。曾祖母が森都シルヴァナスの森人で、ヴェルダナの職人と縁組したのが家の始まりだが、フェルンの代ではもう森人の血も薄まって、耳がわずかに尖っている程度だった。七人きょうだいの末っ子。家督は長兄が継ぐ。「自分で食い扶持を見つけろ」がネモリス家の末子への口癖だった。読み書き礼法と一通りの行儀作法だけは叩き込まれたが、それ以外は下町の子どもたちと運河を駆け回る自由だけがあった。
ただ、幼い頃から一つだけ不思議なことがあった。父が壊れた魔導具を修理する時、罅の入った部品の繋ぎ目が淡い筋になって光って見えるのだ。「父さん、ここ光ってる」と指さしたら、父は首を傾げて「何も光ってないよ」と笑った。それ以来、口にしなくなった。
一階が食堂と台所、二階が客室と家族の居間——父の修理店は翠工房にあるから、宿とは別だ。木の扉を開けると、煮込みの匂いが一段と濃くなった。母の自慢は魚の煮込みだ。その日に獲れたいっとう活きの良い魚を仕入れて、香草と根菜で半日かけて煮る。今日は白身の魚が旨いらしい。食堂に並んだ卓の上には、客の夕餉のための皿がもう伏せてあった。
フェルン・ネモリスにとって、世界はまだこの運河と路地と古い旅籠の匂いの中に収まっていた。
「フェルン、井戸の水を汲んできておくれ」
台所から母の声がした。いつもの頼み事だ。夕飯前に裏手の井戸から水桶を運ぶのは、フェルンの日課だった。
だが裏口を出た時、いつもと違う空気を感じた。
裏口の向こう——荷を降ろすために空けてある裏路地に、見慣れない影があった。
*
裏路地に、黒い箱馬車が停まっていた。
荷降ろしの通路に馬車が入ること自体は珍しくない。だがこの馬車は、宿に荷を届ける商人のものではなかった。窓がない。両側面の高い位置に細い隙間がいくつか空いているだけで、それ以外は全面が黒く塗られた厚板で覆われている。扉には金属の錠前が三つかかっていた。三つ。高価な品を運ぶ商人なら二つ掛けるんだろうねと、些かぐらついた掛け金をそのままにしている母が言っていた。三つの錠前は——中にあるものの値打ちを示しているのか。あるいは、外に出してはならないものの危うさを示しているのか。
フェルンはまだ十歳だった。三つの錠前と、板壁にわざわざ空けた通気の隙間を結びつけて考えるには幼すぎた。
だが、馬車の傍らに立っていた少年兵には、目が吸い寄せられた。
幾つか年上だが、青年とは言えない。日に焼けた肌、短く刈り込んだ亜麻色の髪、少年にしてはがっしりした肩幅。頬にはまだ子供の丸みが残っているのに、纏う空気は、市場で見かける巡回兵のそれとは全く違っていた。
手が、剣の柄の上にあった。
握っているのではない。置いてあるだけだ。
フェルンは港の桟橋で、碇を繋ぐ水夫の手を何度も見ていた。年季の入った水夫は、繋索を指に掛ける時に力を入れない。いつでも解ける位置に、いつでも繋げる位置に手がある。それは教わって身につくものではない。長い日々が体に染み込ませたものだ。
この少年兵の手は、それと同じだった。肩に力が入っていない。目は静かだ。しかし水夫の手が綱のためにあるのだとすれば、この手は——刃のためにある。いつでも抜ける位置に、まるで最初からそこに生えていたかのように自然に在った。
市場の巡回兵たちも、剣の柄に手を添えて歩いている。しかしそれは不届き者を思い留まらせるための護符のようなものだ。この少年兵の手は、誰の目もない所で、何かに備えたものだった。
馬車がわずかに揺れた。中から微かな音——金属が擦れるような。少年兵の目が一瞬だけ馬車に向いた。無表情のまま、しかし確実に。そして直ぐに元の位置に戻る。
フェルンにはその短い目配りの意味が分からなかった。だが少年兵の目が馬車を見る時の色は、荷を見張る商人のそれとは違った。大事なものを——あるいは危ういものを——預かっている者の目だった。
夕日がいよいよ沈む時、少年兵の胸元に紋章が光った。フェルンの目は——森人の血を引く者にはよくあることだが——細かな意匠を読み取るのに少しだけ長けている。紋章は三つの輪を重ねた意匠だった。外側の輪は草の蔓のようで、中の輪には刃を思わせる鋭い形がぐるりと並んでいる。その刃が内側に——中央に向かって——突き立てられているように見えた。一番内側の小さな輪の中に棒のような形があるが、そこまでは読み取れなかった。市場の巡回兵が帯びている波と翡翠の文様には、こんな鋭さはない。見たことのない紋だった。
綺麗な細工だ、とフェルンは思った。それがどんな組織の印であるのか、十歳の少年には想像もつかなかった。ただ、紋章全体が放つ空気が重くて鋭いことだけは感じた。
あの手になりたい、と思った。
父も包丁を握る。兄たちも真似事で木剣を振る。通りの巡回兵も剣を帯びて歩いている。だがどの手にも、この少年兵の手にあるような——まるで最初からそこに生えていたような静けさはなかった。
「——あの」
気がつけば声を出していた。自分でも驚いた。
少年兵の目線が動いた。馬車からフェルンへ。警戒ではない。ただ、視線を寄越しただけだ。フェルンは必死に言葉を探した。
「あなたは——すごく強い方ですか。私、あなたのような人になりたいんです。どうすれば、なれるでしょう」
我ながら不格好な問いだった。しかしそれ以外の言い方を知らなかった。
少年兵は一拍の間を置いて——目を丸くした。そしてふ、と口元を綻ばせた。まだ少し高さの残る声で言う。
「戦士ってのは違うな。俺はまだ見習いだ」
そう言ってから視線を馬車に戻し、独り言のように付け足した。
「お前、ここの宿屋の倅か。なら親御さんは貴族だろう。順当に騎士団に入れ。ちゃんとした訓練を積め」
少年兵はこの宿を知っているようだった。護送の任務で各地を巡る時に、この手の勝手の分かる宿に立ち寄ることもあるのだろうか。
それだけだった。多くを語る気のない口ぶりだった。
しかしフェルンにはそれで十分だった。道があるのだ。この人のようになるための道が確かにある。それだけで胸が熱くなった。
「——ありがとうございます!」
深々と頭を下げた時、少年兵はもう馬車の方を向いていた。三つの錠前を一つずつ、慣れた手つきで確かめている。
翌朝、黒い箱馬車も少年兵も、跡形もなく姿を消していた。
夏の朝日が裏路地に差し込んで、宿の壁を蜜色に染めている。路地には轍が残っていた。フェルンはしばらくその轍を眺めていた。
名前も知らない。話したのはほんの一瞬だった。しかし剣の柄の上で微動だにしなかったあの指の形は、少年の目の奥に、消えない焼き印のように残った。
——私は、あの人のようになる。
夢が定まった朝だった。
*
四年が過ぎた。
ヴェルデン貴族学院。翠色の細工硝子の窓が、朝日を翠色に変えて降り注ぐ。白い練兵場も、磨き込まれた廊下の石畳も、すべてが翠の光に沈んでいた。美しい場所だった。静かで、清潔で、下町の匂いのしない場所だった。
ネモリス家の末席の爵位と、曾祖母から受け継いだ森人の血。その二つがフェルンに入学の門を開いた。大貴族の子弟が大手を振る中で、下町の旅籠の末の倅は居心地の良い身分ではない。だが——剣の腕と学業でしだいに上位に食い込み、教官にも一目置かれるようになった。
その「一目」が何を意味するか知った頃から、翠の光の中に薄い翳りが差し始めた。教官の覚えめでたき者を中心に徒党を組み、互いの足を引く。フェルンの腕を買って派閥に引き込もうとする者もいた。
号令。突き。号令。突き。教本通りの型を、教本通りに繰り出す。——それだけが求められていた。
あの少年兵の手は違った。型は美しくても、あの裏路地で見たような——教本の外にある重みは、ここにはなかった。
——これは違う。これは、あの手ではない。
四年間、その感覚は日ごとに重くなった。翠の細工硝子は美しい。だが此処にいるかぎり、あの手には届かない。
*
その噂が立ったのには、きっかけがあった。
学院の卒業祝賀会で騒ぎが起きたのだ。上級生の侯爵家の嫡男が、婚約者を祝賀の場で衆目に晒し、婚約の破棄を宣言した——しかもその理由が、フェルンのような下位貴族の令嬢に懸想したからだと言う。元より素行の悪さで知られた男であったから、「真実の愛」の顛末は下級生にも瞬く間に広がった。そして祝賀会の翌週、その男が黒い箱馬車に乗せられて学院から姿を消したという話もまた、廊下を風のように駆け抜けた。
「——あいつ、辺境に連れていかれたらしいぞ」
そこから先は、噂の奔流だった。窓辺に寄りかかった同期の生徒たちが、声を潜めてその名を口にした。
「変……辺境騎士団って知ってるか?」
辺境騎士団。黄昏辺境区に駐留する防衛部隊だ。アルカディア王国を中心に、碧月海商都連盟、聖盾公国、ヴェルデン連合王国を含む四カ国の支援からなる混成の騎士団であると、軍制学の授業で習った。辺境区の瘴気帯で魔物と対峙する、いわば大地の「蓋」。その辺境伯にはアルカディア王家から人が出る——だが学生たちの口から出てくるのは教科書にはない話ばかりだった。
「あそこは放蕩貴族の流刑地だろ。各国で問題を起こした家の息子を片っ端からかき集めてるって話」
「それだけじゃないぜ。美男ばっかり集まるらしい。家柄が立派だからだろうけど」
含み笑い。声を潜めた目配せが、次の話題を引き寄せる。
「しかも城壁の中に女は入れないんだと。一人もだよ。だからまあ、つまり……」
「おい、それ以上言うなよ」
「お前だって思ってるだろ」
一人が笑い声を噛み殺しながら続けた。
「団長は『黒髪の怪物』って呼ばれてるらしい。アルカディアの王族なのに黒髪なんだと。城の奥に引きこもって美男を侍らせているとか——」
「それはもう噂の噂だろ」
「でもアルカディアの王兄の子だって話は本当じゃないのか? あの——暗殺された方の。五つの歳で辺境に送られたって噂もあるし」
笑い声がまた上がった。
「変……辺境騎士団」。生徒たちは必ず「辺境」の前に一字入れた。「変」に流刑と得体の知れぬ怪物の影を全て込めて、それを口にすること自体が学院の一種の流行になっていた。
フェルンは笑えなかった。
あの裏路地の少年兵が胸に掛けていた紋章。三つの輪を重ねた不思議な意匠。紋章学の暗記を課されて「草の蔓・剣・王笏の三重の輪」を知った時、試験のための図版と夏の記憶が、離れていた鍵と錠前のように嵌まり合った。不思議なことに図版の剣は、内側に刃を向けていなかったけれども。
あの手の静けさを持つ人間がいた場所が、「美男の流刑地」で済むわけがない。
フェルンは廊下の壁に背をつけたまま、小さく呟いた。
「——変……辺境騎士団、ねぇ」
蔑称が心に引っかかった。刺のように。抜こうとすると食い込む類の引っかかりだ。
*
翠波騎士団に入団したのは十六歳の春だった。
ヴェルデンの正規騎士軍。翡翠海の海上警備を担い、国内では「翠玉の騎士」ともてはやされる。学院の成績上位者は推薦枠で入団できた。フェルンはその枠に乗り、幼い日にあの少年兵に言われた通り、「順当に騎士団に入った」。
だが現実は、学院の延長だった。派閥争いが洗練された形で続いている。剣の腕前が物を言う場面は訓練以外にほとんどない。精霊魔法を用いた「翠流魔法剣・艦上戦術」は確かに見事だったが、練兵場のそれは演武の域を出なかった。
入団して三ヶ月が過ぎた頃、辺境への物資輸送から戻った連絡官が酒場で吐き捨てた。
「飾り物の翠玉が、また港で旗を振ってたよ。俺が碧月海回りで三週間も船に揺られてる間に」
飾り物。その一言が、積もり続けていたものの名前を与えた。自分がいるのは飾りの棚だった。
護衛任務に出たのは、入団して半年が過ぎた初秋だった。辺境区へ向かう物資を積んだ荷馬車を護衛する任務で、碧月海沿岸まで陸路で送り届ける。翠波騎士団の兵二十名がつき、翡翠海沿岸をまず南下し、碧月海沿岸の街道に入る経路だった。
碧月海沿岸に入った四日目。翠嶺の峠を越えて植生が変わり、空気に微かな重みが加わった。
正午、森を抜ける街道で——それは起こった。
先頭の斥候が足を止めた直後、木々の間から飛び出した影が、声ごと斥候を薙ぎ倒した。
瘴霧狼だった。紫黒の瘴気を纏った群狼が、森の薄闇から一斉に飛び出してきた。五頭、いやそれ以上——瘴気帯の手前に棲む魔物が、異常な瘴気拡散に乗じてこの地域まで流れてきたのだ。
二十名の護衛兵に連携はなかった。精霊魔法の詠唱を始めた者の横で、別の一頭が荷馬車に飛びかかる。声だけが飛び交って、誰も制御できていなかった。
その瞬間、横合いから一切の声もなく——影が割り込んだ。
叫ばなかった。走りながら陣形を組み、一言も余計なことを言わず、飛びかかった瘴霧狼を仕留めた。二番手が直ぐに空いた隙間を塞ぎ、三番手が木立の向こうから回り込んで残りを追い立てる。声を交わす必要がなかった。全員が全員の位置を知っていた。
五名。たった五名だった。
瘴気の拡散経路を追跡していた辺境騎士団の一隊が、この地域を通りかかったのだ。胸元に刻まれた紋章——三つの輪を重ねた、あの見覚えのある意匠。六年前の夕暮れに見た時と同じだった。
翠波騎士団の二十名を総崩れに追いやった群狼を、彼等が——物も言わずに——制圧した。
フェルンは剣を握りしめたまま立ち尽くしていた。自分の剣は振る隙すらなかった。
辺境の部隊は制圧後の確認を手早く済ませ、翠波騎士団の兵たちには目もくれなかった。瘴気の拡散経路を追っているのであって、護衛隊の始末には用がない。その素っ気なさこそが、二つの部隊の間に横たわる距離を何よりも示していた。
そのうちの一人が、仕留めた瘴霧狼の残滓を振い落し、手にした長柄の武器を背の固定具へ収めながらフェルンの前を通り過ぎた。
亜麻色の短髪。日に焼けた肌。広い肩幅。——長槍。
それが彼の主武装であることに、フェルンは息を呑んだ。六年前、あれほど完成された剣の手に憧れ、彼を剣士だと信じて疑わなかった。しかし、魔獣に覆われた過酷な辺境において、彼が実戦で振るっていたのは間合いと突き崩す威力を備えた槍だったのだ。
動揺は、しかし直ぐに別の感情へと切り替わった。
槍を背け、彼の右手が自然としなやかに腰の剣の柄の上に戻った時——あの静けさは、昔と何一つ変わっていなかった。
腰の剣は決して飾りや予備ではない。長槍を主武装として縦横無尽に振るいながらも、抜くべき時に備えられたその剣の手には一切の緩みがなかった。それは、剣でも槍でも何ら遜色なく死線を潜れるという、圧倒的な練度の証明だった。
己が憧れたあの完璧な剣は、彼の深淵のような武練のほんの一部に過ぎなかったのだ。
あの少年兵だった。六年のあいだにすっかり青年の体つきになっていたが、彼が放つ静かな圧力に、フェルンは更なる畏怖と憧憬の念を覚えた。
声をかけようとした——が、かけられなかった。相手は任務の最中だった。
辺境の部隊が森の中へ消えていく間際、先頭にいた年嵩の男が短く呼びかけた。
「——ガルス、南が先だ」
ガルス。それが名前だった。六年越しに知った名だった。
彼等はそのまま森の中へ消えていった。
——あっちが本物だ。
考えるまでもなかった。
翠波騎士団本営に戻ったフェルンは、兵舎の書庫で辺境区の防衛協約を調べた。各国の騎士団には「正規出向枠」が設けられている。ヴェルデンにも年に数名分の枠がある。だが過去五年で志願した者は一人もいなかった。志願者が出ない年は多額の分担金が支払われる。人の代わりに金で義務を果たす——それが慣例だった。
翌朝、フェルンは上官の前に立った。
「辺境騎士団への正規出向を志願します」
上官の眉が上がった。成績上位で将来を嘱望されていた新兵が、自ら流刑地同然の辺境を望むなど聞いたことがない。
「理由は」
「——本物の戦場を見たいからです」
己の声が、いつもと違うことに気がついた。港町の旅籠の息子は敬語で話した。学院でもそうだった。「私」はそうやって生きてきた。だがこの時、フェルンの内側にいたのは「私」ではなかった。
——俺は、あの場所に行く。
路地の角の、あの小さな祠のことをふと思い出した。母が野の花を置いて、短く手を合わせる、あの手つき。穏やかで、迷いのない手つきだった。俺が今しようとしていることも、あの手つきに似ているだろうか——そんな考えが一瞬よぎって、直ぐに消えた。
枠が空いている。書類を出せば通る。止める者はいなかった。
変……辺境騎士団。
学院で笑い話の種にされていたあの名を口に出してみた。笑えなかった。
生まれ育った翡翠海を離れて碧月海の商船に便乗し、月昏水道を越えた。碧月海の青い海面が、水道を境にして鈍い灰色に変わった。黄昏海。潮の匂いに、何か名のつけようのない重みが混じっている。
暮光港の桟橋に降り立った時、フェルンはようやく、自分が本当に温室を出たのだと実感した。
空気が違う。光が違う。夕日がこの地では茜色ではなく、鉛を溶かしたような紫灰色に沈んでいく。沈む直前の一瞬だけ——地平の際が鮮血のように赤く滲んだ。瘴気の鈍い空に、その赤はあまりにも鮮烈で、直ぐに灰色の闇に呑まれた。
俺は行く。
ガルスという名の男が見た景色を、俺も見に行く。




