終章Ⅱ 嘘
朧実かすみは、兄が眠っていたベッドの隣で体を横たえていた。実時間にして十時間弱、しかし体感的には二年以上もの旅を終えた朧実かすみは、寝起きのはっきりしない頭で、それでも最初に兄の姿を探した。――彼が眠っているはずの、隣のベッドへ。
だが――
「おにい、ちゃん……? ど、こ……?」
そこに、兄の姿はない。
中途半場に顔が良いだけの凡庸な少年。だけど、その少女にとっては神様よりも大きくて大切な存在。起きたら、その寝顔を見つめようと思っていたのに……
「先に、起きたの、かな……っ」
声に出したのは。
そうじゃないと、確信していたからだった。
「どこに隠れてるんだろう……だって、だって……お兄ちゃん、約束、したもん」
胸の奥で静かに鼓動を刻む心臓から、一気に熱が引いたような、そんな息苦しさがあった。上手く呼吸ができなくなって、そのせいでまともに声を出すこともできない。灰の中から、ひゅー、ひゅー、と。壊れた笛みたいな、みっともない音が漏れるだけだった。
声は、出ない。だって、無理やり出そうとすれば、すぐにでも嗚咽に変わってしまいそうだから。だから、我慢しないと……そんな風に意識すればするほど、瞳の奥にじわりと痛みが広がっていった。やがて滲みは痛みだけではなくて、視界にまで及んで……
「ああっ、ああああ……」
そして、ようやく気が付いたのだ。
嘘をつかれた。
兄の最期の説得は、かすみを守るための方便だった。ただの思い付きだった。口から出たでまかせで、彼のいつもの虚言だったのだと。
「いらないっ」
心臓を握り潰されるかのような悲しみがあった。胸に穴が空いたかのような喪失感があった。そして最後に――怒りがあった。
「いらない、いらないっ! いらない! いらないいらないッ! いらないよこんなのぉー!」
これで彼女はもう独りぼっち。朧実幻冶を殺した世界に、たった独り投げ出されてしまった。
拠り所はない。
だけどそれでも――彼女は一人ぼっちで生きて行かなければならない。
「うっ、うう……っ、うぁあああ! ああああああああああああああああああああっ!」
自分のベッドから降り、兄が眠っていたベッドまで歩み寄る。先ほどまで兄が寝ていたはずだった。まるで目を覚まさなかったとはいえど、きちんと生きて眠っていたはずだった。
だというのに、今はもうまるでその残滓すらない。布団は綺麗にたたまれて、シーツは皺が付かないようにベッドの上にかぶせられていた。
もういない。もういないのだ。
結局、最後の最後に、彼の優しい嘘に騙されたせいで。彼の嘘に期待を抱いて、甘えたから。
「よぉーす、いい感じのところ悪いがお兄ちゃんこれからカップラーメン食うわ(笑)」
まあ、嘘ですけどねっ!
自動ドアから中に入り、いつもの軽薄な笑みを浮かべながら、車いすの側部に取り付けられた『腕』を操作し、未だ大企業の看板商品のあれが入ったレジ袋を掲げ、俺は朗らかに言った。
「……………………………………………………………………………………………………は?」
「こら、かすみちゃん。お兄ちゃんはそんな言葉づかいを教えた覚えはありませんのことよ?」
「は?」
「こらこら、お兄ちゃんの言うことを聞きなさい。『は?』は一回でいい」
面白い。とても面白い。目が点になるとはこのことかっっ! ふはっ、ふははははは!
そうだろう、意味がわからないだろう。シリアスを壊されて戸惑っているだろう。
「ん? どうしたんだかすみ? 何か目が赤くないかね?」
「ッッッ!? っ! な、え!? お兄ちゃんっ? い、生きてっ!?」
「死んでほしかった?」
「そっ、そんなわけない!」
声がデカイ。もう少し声量下げて、ここ病院だから。
「で、でも。、何で……? だって、お兄ちゃんのベッド、何もなくて、だから、もう……っ」
「ああそれ? 部屋出る前に看護師さんに頼んだんだよ。めっちゃ綺麗にしてくださいって」
目元を真っ赤に腫らし、涙の跡が未だに頬に残るかすみの顔は、身内びいきを引いても可愛かった。違う、そうじゃない。呆けたような顔をしていた。うん、これだな。
「え、ってことは……まさか、それって」
「ああ。かすみ、お前にドッキリをかますためだ」
風が吹くはずのない病室なのに、なぜか木枯らしが俺たちの間を通り抜けたような気がした。
「なんっ、なん。なん……ッッ」
お、これは爆発寸前か。俺が他の女の人と仲良くしてるとき(スーパーの店員さんにお釣り貰うレベル)に発動する怒りヤンデレモードの前兆である、暗黒オーラが漂ってきた。
「なんっっっっっっっっっんでそんなことしたのぉーッッ!?」
「いや、仕返し」
エベレストが噴火したような怒りをぶつけてくるかすみに対し、俺はそっけなく返した。
「しかえ、しぃ?」
くいっ、と首を傾けてそう問うてくる妹に、俺は嫌味たっぷりな笑みを返す。
「ああそうだ。今回はお前にさんざん振り回されたからな。もはや俺の完全敗北だ。兄なのに妹にここまでコケにされたのはあまりにも悔しい。それでなんか腹立ってきたから復讐した」
「…………え、ちっさ」
「ガチトーンやめろ」
今のわりとガチで失望してたよな。いいけどさ。
「……えへへぇ、でもそんな駄目で小物なお兄ちゃんもステキぃ~!」
まじかー。駄目はお前だし、ステキなのはお前の頭の中だよ。一面ピンクのお花畑かよ。
「でも、ほんとうに――独りにしないでくれてありがと」
「兄が妹を一人残して消えるわけないだろう。信じろよ」
「いや、どの口が信じろとか言ってるの……無理だよ……」
呆れたように言いながら、かすみは病室のカーテンを開けた。東部屋だったのだろう、まばゆい光が部屋の中を照らし、俺とかすみにぬくもりをくれた。
「やっぱ、海はないんだな」
「ないよ。県内の病院だからね」
ようやく現実に帰ってきた。おそらく『眠界』で過ごしていた時間がそう長くないためだろう、過ごした時間の体感にズレは特になかった。
「思い出したよ、昨日のこと」
「…………っ、うん」
「安心しろ、かすみ。もうお前にばれたんだ。だったら、これ以上あいつらと一緒にいることはねえ。ここから逃げるなり、あいつらを脅すなりすればいい」
まあ、色々を手は打ってある。……と、かすみには言っておいた。全く信じてくれなかった。
だが少なくとも、もう二度とかすみに心配をかけて泣かせるようなことだけは誓う。彼女には何も言わず心の中にしまったが、これは真実だ。少なくともそうなるよう願ってはいる。
他にも二つ、どうしても彼女に尋ねなければならないことがある。
「かすみ」
「なに?」
「夢飼のことなんだけどさ……あいつは、」
「大丈夫だよ」
俺の声に混じっていた不安を感じ取ったのだろうか、慮った――それでいてなぜか不機嫌な――声音で、そんな風に言った。
「あの時の鉄砲水では死んでない。そうならないように、あの子とは約束したから。……それと、海奈さんがわたしたちと一緒に来なかったのは、彼女が望んだことで、今でもどこかで笑っていると思う。だから、心配しなくていい。だから大丈夫だよ。――わたしの娘なんだから」
妙に説得力のある言葉だった。俺を納得させて、安心させてくれるくらいには。
「あの世界に一人で放り出しちゃうことになるけど、それでもきちんと生きてくれるって信じてる。きっと、向こうでお兄ちゃんを悪い笑顔で待ってるよぉー。……それにさ、もしかしたら、海奈さんは共犯者のわたしよりも、お兄ちゃんを信じていたかもしれないんだし」
それは何となく、俺も思っていたことだった。最期まで俺の敵であろうと。最期まで己の夢を叶えようと。一つの幸せさえ蹴った夢飼が、大人しく俺を失うことを良しとするだろうか。
うぬぼれとかではなく、彼女の性格や生き方からして、全く似合わないような気がする。
「……あいつ、そう言えば自分が『THE・Mazis』だとは一言も口にしなかったな。それに……俺が生きている場所を『現実』とは言わず『本当の世界』だと言ってた」
「うぅううー……あの泥棒猫、ほんとぶっ飛ばしてやる……」
だけど、そのおかげで俺とかすみは今こうして生きている。もう一度本当の意味で再会できた。彼女が最後に口にした言葉を思えば、きっと彼女は、かすみを救ってほしかったのだろう。
「じゃあ夢飼の件についてはこれで一件落着だ。次は――お前のことだ、かすみ。お前と、それから十年前のこと」
「あ、え……ぅー」
「かすみ――俺はお前の兄だ。昔は違ったかもしれない。お前に恋をしていたよ。だけど今は、紛れもなくお前の兄だ。だから、お前の気持ちに応えることはできない」
「…………やだ」
「……、」
「そんなの関係ない! 兄妹とか血が繋がってるとか! そんなの知らない! 全部後付けだもん! わたしたちは兄妹である前に『げんやくん』と『姉ちゃん』だったもん!」
どうやら、是の判は押されなかったらしい。
「だから――覚悟してよね、げんやくん! いつか必ず、もう一度あなたを振り向かせて、最低のシスコンとして法廷に突き出してあげるからっ!」
日差しが、照らす。
冬の日差しが。
寒々しい現実を暖かく包む、優しい光が朧実かすみという女の子を輝かせていた。
◇ ◇ ◇
「はあ、あは……ふふ、ふ……ねえ、幻冶くん」
薄暗い場所だった。昼だというのに日の光が入ってこない、ビルとビルの隙間の裏路地。日光が永久に仕事をしてくれない、じめじめとした暗い場所。そこに響く声があった。
「幻冶くん、……やっぱり、勝ったのね」
少女は一人だった。彼女の周りには何もなかった。何一つ、誰一人、隣に立てる者はいない。
たった一人で、たった独りで、夢飼海奈という被造物はこの『冥界』という戦場を渡り歩く。
「信じてたよ。ああ、信じていたよ……っ」
この一ヶ月で、多くの戦いを経験した。様々な人間がいた。利用しようとする者、体目当てで寄ってくる者、殺そうとする者。多くの人間がいた。そして――その全てを、叩き潰した。
あたしはもう利用されない。
「ここで待ってるから。いつか、また――幻冶くんと戦える(あそべる)日を、楽しみにしてる」
そこに狂気はない。片思いの相手との次のデートを楽しみにするような、そんな笑顔だった。
ある人に恋をして、その人の一番になりたいと願ったからこそ、敵として生きる道を選んだ。
それは彼女の選択で、貫こうとした生き方で信念だ。
だから、この答えがたとえ誰にも――想い人にさえも理解のされないものだとしても。
少女はこの道を正しいと信じているし、間違っているとしても、後悔しないだろう。
――恋する少女は今も、暗い『冥界』の果てで、朧実幻冶を待っている。
☆ ☆ ☆
結局、入院だ何だかんだと言ったところで、俺とかすみがやることなんて決まっていた。
一日だらだらと過ごしていると、あっという間に消灯時間がやってきた。もう寝る時間。夢に入る時間。そうなると――当然、俺たちはここに来る。
「やっぱり冥界だよなあ」
「ついさっきここで散々な目に遭ったって言うのに、お兄ちゃんは結局ここに来るんだね」
「当たり前だろ。あとあれだ、寝付けないから強制的に睡眠を促し、肉体を休めるという――」
「ああ、はいはい。嘘だよね、知ってるよもうー」
全然信じてくれない。何でだろうな。
「よォー、朧実とかすみちゃん、体調はどうだ?」
大型スーパーの総菜コーナーで雑談をしていた俺とかすみの元に、馬鹿の声が届いてきた。
「遅刻だ」
「テメエ、この前オレを一週間ぐらい待たせたくせになに言ってやがんだ」
「そ、それはすまん……」
軽いやり取りもそこそこに、飛浮が話題を変えた。
「そんで今日はどうすんだよ」
「何も考えてない。けどまあ、適当にどっかの軍にちょっかいかけてたらいいだろ」
「それもそォだな」
「お兄ちゃん、飛浮さん、それほんと危ない橋渡ってるのわかってる……?」
飛浮とかすみの間には、特にわだかまりや変な雰囲気はなかった。飛浮にとってあの騒動は楽しかったバトルでしかなく、肝っ玉の太いかすみはあまり引きずるタイプではないらしい。
「んじゃ、そろそろ行くか!」
そんな風に飛浮が歩き出そうとした時だった。
ジジ! ザザザッ! と電気が通っていないはずの館内スピーカーからノイズが漏れた。
訝しげに視線を上げる俺の腕に、全身を絡めるようにかすみが抱き着いてきた。不吉なことに、飛浮が愉しそうに口を三日月に引き裂いて好戦的な笑みを浮かべている。
数秒……機材の調整でもしていたのか、その声が聞こえてくるまで時間はかからなかった。
『私は大日本夢界国軍の非正規部隊「貝塚」を率いる徳院黄金だ。現実時間の本日未明、『冥界』では416年前、穿千が敗北したという報告を受けたもので、その下手人を探していたのだ』
これはまた大物が現れたというか、変なところで因果が結ばれたな。
『我々徳院家が、日本国民を陰から守る大日本夢界国軍を実質的に支配する一族だとは理解してくれていると思うので、この辺りは割愛しよう。結局、言いたいことは一つだけなのだしね』
新たなスリルの出現に俺の口元に笑みが刻まれた。かすみもまた、どこか不敵な笑みを浮かべ、飛浮に至っては夢奏を発動していた。
『本家を出奔したとはいえ、よくも私の妹を泣かしてくれたな。ぶっ殺してやる』
権力を持ったシスコンだった、手に負えねえな。……けど、面白い展開だ。
だが――俺の口から付いて出た言葉は、それらの感情には全く起因しない別の台詞だった。
「なあ――あんたのその奥には、もしかしたら俺たちのよく知る子がいたりするのか?」
『……? 何を言っているんだ?』
とぼけているのか、何も知らないだけか、はたまたあいつはこの件には関係がないのか。
誰に似たのか、誰の真似なのか、もしもこれに彼女が関わっているのだとしたら、曖昧で茫洋としたゲームを仕掛けてくれたものだ。あるいは、この思考をこそを望まれてるのか。
まあ、でも、わからないなら今は考えないでおこう。何はともあれ、目の前の喧嘩だ。
「かすみ、飛浮」
言葉ではなく視線と態度で先を促してくる二人に対し、俺は告げる。
「――今度の敵は日本の暗部ってことらしい。どうする? 俺と一緒に、このゲーム買うか?」
「「もちろん」」
「了解。じゃあ行こう。今度も真正面から正々堂々、清々しいほど大胆に騙し切るぞ」
『――ジジッ、ジ ジジジザザザザッ、ザッ――――――――――』
『ジジッジッザ――あはっ! あは、! ちょっ見てこいつゥ、めっちゃ血吐いてるじゃーん!』
『おらッ、おらッッ! おら痛いだろテメエ! ほら謝れよおいッ! おいほらぁ! 生れてきてごめんなさいって! こんな陰キャ野郎が生きててすみませんってよ!』
『す、すみま、せん……っ』
『きゃはははははは! あははは! きっもー、こいつ吐いたよー? あはははは やれやれー! もっと殴っちゃえっ! ほらほら、あははは!』
『なあなあ、あのラノベってやつ? あれで殴ってやるよ? ほら、好きなんだろ? 好きなもので殴られたら嬉しいだろ! へーい!』
『『『やっちまえぇーい! へいへーい! きゃはははは!』』』
『おらっ! おらっ! どうだ? 嬉しいよなあ』『嬉しいに決まってるよな、だって俺たち友達だもんな!』『友達なんだからお願い聞いてくれるのは当然っしょー』『友達だもんな』『そうだ財布かせよ』『ぐっ……ぐがっ!』『ほら早く早くぅー』『どうせキモイ本にしか使わないんだろ?』『だったらあたしらが使った方がお金も喜ぶってかー?』『ほら、俺たちの服に換えてやるよ』『胴上げしようぜー!』『大切な友達だもんなー』『そうそう』『友達だからこれはただのスキンシップだよなあー』『はいわーっしょい!』『わーっしょい!』『『『わーっしょいッ!』』』『ってあぶねえ、落ちてんじゃねえよ!』『あれ、こいつ頭から血流してない?』『あ、やべえーかもこれ』『だっ大丈夫だって、絶対!』『そ、そうだよ……こ、こいつは』『そうだこいつ、こいつ、階段で勝手にこけただけじゃん! そ、そうだよな!?』『あ、ぅ……っ?』『そうだって言えよこのくそが!』『てめえは階段でこけて頭打ったんだよなあ。なあッ!?』『ぐぼっ、お……ッ』『妹に手を出さずお前と友達やってやってんだ、それくらいの気は使えよ』『気を遣うとかじゃなくて普通にこいつがこけただけっしょー?』『ほら言って?』『言って?』『『『『『『『『『言えよ』』』』』』』』』
『う、あ……俺は、階段で、こけた、だ……け』
『ハイよくできましたー。じゃああとの片づけよろしくぅー。大丈夫、血は吹いてあげるから。じゃ、ばいばーい。明日もよろしくねー』
『……』『…………』『……………………………………………………………………………………』
『……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………』
『――まあ、嘘なんだけどな』
『――――ピ』