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ひとりでも、ひとりにさせない場所。

疲れた。


生きることに疲れた。


逃げればいいんだろうか。


目撃者も現れないような、森の中で、一生。


俺はそこまでして、生き延びる価値のある男なのだろうか。


俺自身、そんな風に生き延びることを望んでいるんだろうか。


もう疲れた。


疲れたから、身体を休めよう。


温泉に行こう。


/


民宿に泊まった。


酒を買ってはみたものの、一口飲んで捨ててしまった。


数日間惰眠を貪ったあと、料金を支払い店を出た。


その場所に行くのを躊躇していた。


頭の中にある救いの想像地に、現実として足を踏み入れるのが怖かった。


希望がなくなってしまう気がした。


それでも俺は行かなくてはならない。


あとどれだけ、生きられるかもわからぬ命であればこそ。


/


早起きをし、身支度を整える。


バスに乗って目的の場所へと向かう。


平日の朝から、俺と同じ目的地に向かうものはいないようだった。




30分ほど経ち、目的の場所についた。


夏だからか、親父さんの言ってたようなオオハクチョウはまるで見えなかった。


親父さんが死にかけの時間に味わった感動を、俺も味わうことはできないだろう。


来ることに意味があった。


屈斜路湖露天風呂。


頭の中に存在していたそのお伽話に、俺は今まで心を救われていたのだから。


/


俺の他には誰もいないようだった。


円形で囲まれたスペースにお湯が張ってあり、真ん中には大きな岩があった。


左側が女性の湯、右側が男性の湯と記載されていた。


俺が毎朝行っていた温泉と違い、マナーに対する細かい注意書きがあった。


美しい景観を損ねるような人工物は何一つなかった。ここの地を守る人の努力の賜物なのだろう。


脱衣場で服を脱ぎ、足を踏み入れた。


ゆっくりと浸かった。


少し熱く感じたが、雪国の外気の涼しさと相まって、心地よかった。


眼前に広がる湖には何もなかった。


オオハクチョウも、朝日に照らされる神秘的な女性もいなかった。


気持ちの良い青空と、遠くに広がる山の景色だけがあった。


俺は、満足した。


生きてる間にこの地に来られてよかった。


それは諦めに似た悟りというよりは。


少し、希望に近い感情だった。


/


男「幻想的な光景より、現実的な美しさと出会えてよかった」


男「ちゃんと、寝て、食べて、お金を持って、まともな思考ができる状態で。自然な感情で喜びは享受するものなんだな」


男「美しい光景を見て希望を持ち直す、なんて胡散臭い話だと思っていたが」


男「過去や幻想と向き合ったら、どうやら人は自分を認めざるを得ないらしい」


男「貸切状態だ。あの温泉から見える景色の何倍もある自然を、俺が独り占めしている」


男「湯の熱が俺にエネルギーを送り込んでくれるようだ!」


男「力が岩底から湧き上がってくるようだ!」


男「俺はこの大自然の王者だ!!」


男「ふははは!!!」


男「観光!!!」


男「天候!!!」


男「ちんすこう!!!」


男「ここ北海道だけどな!!ふははは!!!」


「また混浴に来たんですか」


俺の背筋は凍り付いた。


/


女「韻を踏んでいたんですか」


男「…………」


女「湯の熱があなたにエネルギーを送り込んでくれるって本当ですか?」


男「…………」


女「この広大な景色を独り占めしてるって本当ですか?」


男「…………」


女「もしかしたら知ってる人が岩一枚隔てたところにいたりしなかったですか」


男「…………」


女「早朝から生きるエネルギーが」


男「もうやめてくれ。死にたい……」バシャバシャ…


女「生きましょうよ。せっかく生きているんですから」


男「なかったことにしてくれ」


女「これが黒歴史ですよ。人が背負う過去の重荷は、このくらいの地獄が丁度いいんです。ということで、忘れてあげません」


/


女「死ぬつもりだったんですか」


男「自殺するつもりはない。ただ、殺されるつもりだった」


女「逃げるつもりだった方がまだ安心です」


男「俺を殺そうとしているやつからか」


女「そう。親父さんの信奉者や、あなたの嫌な記憶から」


男「逃げられないだろ」


女「逃げましょうよ」


男「どこにだ」


女「日本地図にダーツを投げて、そこでこっそり暮らしましょう」


男「俺はもう疲れたんだ。だから温泉にきてる。疲れたから、疲労回復」


女「すぐのぼせるくせに」


男「逃げてもいいと思うか」


女「向き合っても、不幸にしかならないことなんてたまにはありますよ」


男「バチがあたらないか。不幸から目を背けて」


女「幸せになろうとしてバチがあたるんなら、幸せなんて存在できないでしょう?」


/


女「それにしても、広大な眺めですね」


男「そうだな」


女「でも、定位置は逆ですね」


男「逆?」


女「湖を正面に、男湯が右側、女湯が左側じゃないですか」


女「湖を正面に見ても、私の視界にあなたが入ってこれません」


男「入れ替わるか。実はそっちが男湯なんだ」


女「どこかの神秘的な女性が言いそうなセリフですね」


男「人が行き来できるほどの隙間が空いてる」


女「男湯も女湯もあったもんじゃないですね」


男「この隙間は男湯と女湯どっちなんだ」


女「混浴なんじゃないでしょうか」


男「世界一狭い混浴だな」


女「そして世界一贅沢な」


/


男「どうやって来た」


女「ホテルからタクシーで」


男「贅沢な奴だ」


女「私のいない日々はどうでしたか」


男「静かだった」


女「寂しかったならそういえばいいのに」


男「寂しかった」


女「…………」


男「でも、それ以上に」


男「お前には感謝していた」


女「だから北海道まで逃げ出してくれたんですね」


男「怒ってるならそう言ってくれ」


女「怒ってます」


男「すまなかった」


女「怒ってるんですよ」


男「申し訳ない」


女「謝ってくれたのでいいです」


男「そうなのか」


女「許すつもりだから謝らせたんですよ」


/


女「男さん」


女「私の人生を見てどう思いましたか」


男「気の毒だと思った」


女「同情しましたか」


男「ああ。同情した。可哀想だと思った」


女「私は可哀想な人生を送っていますか」


男「ああ、そう思う」


女「やはりそうでしたか」


男「…………」


男「俺の人生を見てどう思った」


女「そうですね。哀れな人生だと思いました」


男「どのあたりが」


女「あなたの周りにいた人全員が不幸になってしまっていたあたりが」


男「俺は哀れな人間か」


女「はい、哀れな人間です」


男「そうか。俺もそう思う」


女「そうですか」


/


男「なあ女」


男「生まれ変わったら、もう一度自分に生まれたいか」


女「…………」


女「これからの帰り道次第です」


男「なんだそれは」


女「あなたはどうですか。自分の人生を肯定できますか?」


男「そんなことはできない。何もかもが間違えていたと思う」


女「…………」


男「何もかもが間違えていた」


男「そのせいで、最後にお前と会えたこと以外はな」


女「…………」


女「男さん」


男「なんだ」


女「どうして泣いているんですか」


男「見るな」


女「俯いてたらせっかくの景色がもったいないですよ」


男「覗くな」


女「見てあげますよ。右目が駄目なら左目で。左目も見えなくなったら、声や、手の平で」


男「どうやってだ」


女「こうやって」


女は男の頬に両手を添え、髪を除け、目を見つめて言った。


女「あなたは、正しい」


早朝の屈斜路湖で、二羽の白鳥がキスをした。


/


女「ゆびがふやけてきました」


男「俺も少しのぼせた」


女「おばあちゃんの指もこんな感じです」


男「年をとった時に同じことを思うだろう」


女「私の手がこんな風になった時、あなたは私に何をしてくれていますかね」


男「俺は生きているのかな」


女「18,000個のしあわせをつかいきるまではいきてください」


男「お前といるとあっという間に減っていく」


女「お上手ですね」


男「ため息が止まらないからな」


女「お湯かけますよ」


男「やめてくれ。そろそろのぼせた」


女「あがりましょうか。マナー違反者は立ち去るようにと、看板に書いてありますよ」ザバァ


男「…………」ザバァ


一瞬の幻想の後。


私たちはくだらない会話や、少し深い話をして、お風呂からあがった。


いつもどおり、私もあなたも裸で、指一本触れずにコミュニケーションを取っていたけれど。


この行為は、


俗にいうセックスというものよりも。


深くて暖かい、結びの行為だったのだろう。


/


この日初めて、私と男さんは温泉以外で行動を共にした。


はじめに一緒にご飯を食べた。


雪国の魚は、冷たくて新鮮で、感動するほど美味しかった。


ソフトクリームを買って食べさせ合うという、男さんにとっては拷問のような行為もさせた。


動物を観にいったり、ブーメランを投げたり、子どもたちに紛れてソリで滑る遊びもした。


男さんに似合わないことをさせるのを、性格の悪い私はこの上なく楽しんだ。




寄り道をしながら日本を下っていった。


仙台で牛タンを食べて、栃木でいちごを食べて、何故か新潟にちょっと寄ってお米を食べた。


今まで訪れたことのない地に足を運んだ。


暗闇の中で生きていた頃の私なら決して許さないような愉快な気持ちになり、明かりの中に必死で飛びでていた私なら決して感じなかったような安堵感を覚えていた。


毎日長距離を移動していたにも関わらず、自分の居場所はここだという確信を、隣の肩に頭を寄せながら思った。


頭のどこかでは、生き急いでいることを理解していたのだろう。


残り50年では幸せにはなれない計算式で、もしも多大な幸せを感じているのだとしたら。


生きる日々という分母が、極端に減っていたのかもしれない。


/


俺たちは、帰宅中の学生やサラリーマンが大勢いる駅のホームに立っていた。


女「ここでお別れですか」


男「ああ」


女「お引っ越しですか」


男「そんなには離れていないさ」


女「私が遊びに行ってあげますからね」


男「あの温泉にもまた行こう」


女「大丈夫ですか」


男「時間帯によるな」


女「何時がいいですかね」


男「どうだかな」


話しているうちに、電車の到着を告げるアナウンスがなった。


女「お別れですね」


男「ああ。お前も気をつけて帰れよ」


女「なんだかドラマチックな別れですね」


男「俺の電車に飛び乗ったりするなよ。挟まれるかもしれないからな」


女「ロマンの欠片もないですね。いいですよ、どうせ5駅分だし」


男「お前との旅は楽しかった」


女「私もです。これでもう老後は文句を言いません」


男「指がふやけるまで生きろよ」


女「指がふやけるまで一緒に浸かりましょうね」


電車のドアが開き、俺は乗り込んだ。


人混みに押し流されまいとしながら、女は俺を見送ろうとしてくれた。


/


女「夏祭りの約束、わすれないでくださいね」


男「お前もな」


女「私、やきそばを食べますからね」


男「好きなものを食えばいい」


女「線香花火もするんですからね」


男「何でもしてやる」


女「わたし……」


女が目に涙を浮かべ、感情を堪えながら俺を見つめている時、発車の合図が聞こえた。


男「それじゃあ、また……」


女「あのっ、言い忘れてたんですけど」


男「何だ」


女「私、実家にいる時は、お風呂でトイレしちゃいます!」


男「はぁ?」


女「それではまた早朝!」


閉じた電車のドアの向こうで、女は一人顔を赤らめ、涙を流しながら腹を抱えて笑っていた。


男「ロマンの欠片もないのはどっちだ」


閉ざされたドアのせいで俺の声は届かなかった。


俺は呆れた顔を向けようと頑張ったが、あまりの無邪気さにつられ、一人で車内で笑ってしまった。


素敵な人生だった。


/


ばんっ。


早朝五時の音を私は知っている。無音であるはずだ。


ゲームセンターや映画で聴き飽きたその音は、あまりにもこの場には似つかわしくなかった。


私は足を早めて山道を進んだ。


おばあさんにお金を渡し、服も脱がずに、急いで中を確かめた。




ごつくて、でかくて、今ではあんまり怖くない人が座っていた。


お湯は、色とりどりの火花が夜空を照らしたあの夜のように、赤く染まっていた。


深く目を瞑っているその人に私は声をかける。




女「知ってますよ。あなたが死にかけてたこと。またいつもみたいにのぼせてるだけですよね」


女「みんな、気絶しているあなたを放っておいていたとしても。私は、ちゃんと、あなたが死にかけて、さみしかったこと、怖かったことにきづいてあげますからね」


女「あなたの友達も、恩人も、お母さんも、誰もあなたを見ようとしなくても」


女「私が、ちゃんと見ててあげますからね」


女「だから、目を覚ましてくださいよ」


女「私となら、目を合わせられるでしょう?」


/


女「湯の花の花言葉って知ってますか」


男「湯の花は、花じゃないだろ。温泉の成分の塊みたいなものじゃなかったか」


女「ここの温泉、凄いですよね。お土産に湯の花が販売されてるのも見えました」


男「良い入浴剤になりそうだ」


女「それで、なんだと思いますか」


男「何だ」


女「心まで浸かりたい」


男「…………」


女「もう一つあるそうですよ。さぁ、どうぞ」


男「どうぞって……」


女「さぁ」


男「…………」


男「君といると、のぼせてしまう」


女「キャー!」


男「うるさい」


女「キャーキャー!」


男「静かにしろ!」


女「素敵です」


男「知らん。寝る」


女「ふて寝ですか」


男「…………」


女「あなたが気絶していても私が見ていてあげますからね」


男「…………」


女「じー」


男「…………」


女「じー」


男「…………」


女「やっぱり起きて下さい」


男「…………」


女「本当に気絶してませんよね?」


男「…………」


女「起きてくださいってば!」


/


「おきてってば!」


女「わっ!」


娘「風邪引いちゃうよ」


女「今何時!?」


娘「10時」


女「よかったー。パパ帰ってきた?」


娘「まだ」


女「あんたお風呂もう入った?」


娘「まだ」


女「早くお風呂入りなさい」


娘「やだ!!!!せっかく起こしてあげたのに!!!」


女「パパとかぶっちゃうでしょ」


娘「朝入るもん」


女「朝起きられないでしょ」


娘「お風呂も起きるのも嫌い!」


朝起きられることは幸せなことなのよ。


なんて言葉は、言わない。


女「いいから入りなさい!!」


しぶしぶ娘がお風呂に入っていく姿を見て、大変だなぁと思う。


子供の頃の大人は完璧に見えたが、そんなことはなかった。


私はこの子を怒る資格なんてないくらいに、今でもお風呂に入るのはとてもめんどうくさいし、朝起きる時も二度寝したくてたまらない。


それでも愛しい家族との日常を回すために、お風呂に入るし朝も起きる。それどころか、お風呂も沸かすし、朝になったらみんなを起こす。そしてご飯もつくる。


「ただいま」


女「おかえりなさい」


「インフルエンザが流行しているよ。今日も患者さんが多かった」


女「うちも気をつけなくちゃね」


「そうだな。ところで、娘はどこ?」


女「お風呂に入ったわよ」


「そっか。じゃあ飯食う」


女「はいはい」


「お前も気をつけるんだよ」


夫が髪を撫でてくれた。


幼いころ望んでいたような、幸せな生活だった。


/


生きていくことは、つらいことの連続で。


かたまりかけたものが溶けてなくなってしまったり。


ふくらんだ希望が泡のようにはじけてしまったり。


とても、大変な日々の連続だけれど。


ひとりで、お風呂に入って。


涙も、悲しい出来事も、全部お湯に流して。


冷え込んだ心は身体の芯からあたためることで癒やして。


沈んだ気持ちはのぼせるまで浸かって高揚させて。


時々お風呂の中で100を数える呪文を唱えれば。


また、次の日を受け入れる準備が出来ている。


もしも、熱さが我慢できなかったら、さっさとあがってしまえばいい。


そして寒さに耐えられなくなったら、また入りにくればいい。


ひとりでも、ひとりにさせない場所。


もしもまた、涙を流す日が訪れたら。


お風呂のお湯で、拭えばいい。


屈斜路湖露天風呂にいた数多の白鳥のように。




少し身体をあたためたら。また、自由に飛び立っていけばいいのだ。



~fin~

参考文献:絶景混浴秘境温泉2017(MSムック) 大黒敬太 著


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踏切交差点@humikiri5310

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[良い点] 踏切交差点さんらしい(ニコニコから来てます)作品だなと思いました。語彙力ないのでこんなことしか言えませんが凄く心に残りました。僕は読み聞きしたことに考え方の影響をかなり受ける方なのですが、…
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