第2章 先輩と過ごす、いつもの時間
月曜日の朝。
大学のキャンパスは、週末の静けさが嘘のように賑わっていた。
入学してから日が経って、見覚えのある顔も、少しずつ増えてきたような気がする。
とはいえ、まだ挨拶を交わすほど親しい相手はほとんどいない。
講義を受けて、食事をして、午後の講義を受ける。
それだけなら、高校までと大きく変わらない。移動が面倒なくらいだ。
変わったのは、その合間にある時間を誰と過ごすか、自分で決めなければならないことだった。
スマホを取り出す。
湘南クリーンリンクのグループLINEには、昨日の活動に参加した人たちから、お疲れさまのメッセージがいくつか届いていた。
その中に、美咲先輩の名前もある。
『昨日はお疲れさま! 桐谷くん、初参加なのに頑張ってくれて助かったよ!』
続けて、笑顔のスタンプ。
俺は少し考えてから返信した。
『ありがとうございます。思ったより楽しかったです』
すぐに既読がついた。
『でしょ? また来てね!』
短いメッセージを見て、口元が緩む。
昨日の活動が楽しかったのは本当だ。
それに、今日も大学で先輩に会う予定がある。
そう思うと、月曜日の朝もそれほど悪くない。
午前の講義が終わり、昼休みになった。
大学の食堂は、すでに多くの学生で埋まっていた。
トレーを持った学生たちが列を作り、空いている席を探して歩き回っている。
俺もその一人だった。
空席を探して視線を巡らせていると、少し離れたテーブルから手が振られた。
「悠真くん、こっち!」
美咲先輩だった。
テーブルには先輩のほかに、女子学生が一人座っている。
「こんにちは」
「お疲れさま。こっち空いてるよ」
「ありがとうございます」
俺はトレーを持って近づいた。
「こちら、同じサークルの友達。三年の佐伯さん」
「佐伯です。よろしくね」
「桐谷です。よろしくお願いします」
「昨日の活動に来てくれた新入生だよ」
「ああ、そうなんだ。お疲れさまだったね」
「はい、ありがとうございます」
佐伯さんは軽く話してくれる。美咲先輩の友人ということもあってか、初対面でもそれほど緊張しないタイプらしい。
俺は佐伯さんの隣に座り、箸を手に取った。
「悠真くん、今日の講義はどうだった?」
「午前中は一般教養でした。思っていたより課題が多そうです」
「一年生のうちはそんなものだよ。最初は張り切って全部ちゃんとやろうとするんだけど、だんだん要領がわかってくるから」
「先輩は最初から要領よかったんですか?」
「まさか。私なんて、最初のレポートで何を書けばいいのかわからなくて、友達に相談しまくったよ」
「意外ですね」
「意外ってなんで?」
「いや、先輩は何でもそつなくこなしそうな印象があるので」
「またそういうこと言う」
先輩は少し困ったように笑った。
「キミって、いきなり褒めるよね」
「褒めているつもりはありますけど、特別なことを言っているつもりもないです」
「それが人たらしなんだって」
「まだ言いますか」
佐伯さんが、俺たちのやり取りを見て口を開く。
「美咲、もう後輩と仲良くなったんだね」
「そうなの。この子、なんていうか、近いんだよ」
「それは良かったよ。新入生が馴染んでくれると、サークルとしても助かるし」
「でしょ?」
美咲先輩はなぜか得意そうだった。
俺は味噌汁を一口飲む。
こういう会話は、嫌いではない。
誰かに気を使って話題を探す必要もなく、自然に話が続いていく。
状況的に俺はまだほぼ部外者なのだが、それを感じさせない心地いい時間。
昼食を一緒に食べる相手がいるだけで、少し安心できるものなのだと知った。
「そういえば、桐谷くんは何学科だっけ?」
「農資源科学科です」
「そっか。じゃあ、実験とかも多いのかな」
「本格的なのは二年からみたいですけど、一応今年から実習はあるみたいです」
「理系って面倒くさいよね」
「先輩も理系ですよね?」
「そうだけど、私はもう慣れたから」
「慣れるものなんですか」
「慣れるよ。慣れないとやってられないとも言うけど」
佐伯さんが続ける。
「メイクとか馬鹿らしくなってきてからが本番だね」
「それ新入生に言うこと?」
「本当のことだし」
そんな話をしながら、昼食はあっという間に終わった。充実した時間に顔がほころぶ。
午後の講義を終えると、俺はサークル棟へ向かった。
月曜日、湘南クリーンリンクの活動日だ。
ただ活動といっても、今回は大がかりな作業をするわけではない。
今日の予定は大学構内の清掃と、次の地域イベントで使う備品の確認らしい。
部屋に入ると、すでに何人かの学生が集まっていた。
「お、悠真くん、来たね」
美咲先輩が机の上の書類から顔を上げた。
「こんにちは」
「こんにちは。今日はこっちの作業を手伝ってもらおうかな」
「何をすればいいですか?」
「まずは備品の数を確認するところから。軍手とかゴミ袋とか、イベントで使うものがいろいろあるんだよ」
先輩は棚を指さした。
そこには段ボール箱や折り畳み式のケースが並んでいる。
「この表と照らし合わせて、数が合っているか確認してくれる?」
「わかりました」
渡された用紙を見る。
軍手、ゴミ袋、火ばさみ、トング、案内用の看板、養生テープ。
思っていたよりも細かく管理されている。
「これ、全部サークルで持ってるんですか?」
「うん。活動のたびに使うものだからね。足りなくなったら買い足すし、壊れたら交換するよ」
「なるほど」
「ただ、誰かが使ったあとに戻し忘れたりするから、こうやって定期的に確認してるの」
「地味に大変ですね」
「そうなの。活動そのものより、準備とか片付けのほうが時間かかるかもよ」
先輩は別の箱を開けて作業を続ける。
俺も軍手の数を数え、用紙に数字を書き込んでいく。
作業は単純だった。
けれど、こういうことを誰かがやらなければ、次の活動で困る人が出てくる。
地味だが、必要な仕事なのだろう。
「こっちの箱もお願い」
「はい」
先輩に言われたとおり、箱を開ける。
中には色分けされたゴミ袋が入っていた。
「これ、種類ごとに分けてあるんですね」
「うん。地域によって分別のルールが違うこともあるから、活動先に合わせて使うんだよ」
「なるほど。思ったより細かい」
「でしょ? こういうのを知るのも、活動の要点で、面白いところかな」
先輩は楽しそうに言う。
ふと、昨日の公園清掃を思い出す。
ゴミを拾うだけなら簡単だと思っていたが、実際には分別や回収場所の確認など、いろいろな準備が必要だった。
何気なく参加しているように見える人たちも、こうした準備を積み重ねているのだろう。
「先輩は、こういう作業も好きなんですか?」
「好きというか、まぁ、嫌いじゃないよ。みんなで何かを準備して、それがちゃんと形になるのって嬉しいから」
「わかる気がします」
「キミは、そういう側の人?」
「そうかもですね。昔から、頼まれるとつい手伝っちゃう方です」
「へえ。じゃあ、ウチに向いてるかもだね」
「そうだといいですけど」
「大丈夫。もう十分戦力だよ」
何でもないことのように言う。
その言葉が、思ったより嬉しかった。
入ったばかりのサークルで、自分が役に立てるのかどうかはわからない。
けど、こうして誰かに必要だと言ってもらえると、ここにいてもいいのだと思えて、安心できる。
備品の確認を終えたあと、俺たちは大学の敷地内を清掃することになった。
キャンパスの外周に沿って歩き、植え込みやベンチの周辺を確認する。
先週の日曜日と似た作業だ。
「大学の周りって、もうだいぶ覚えた?」
「まだ全然です。講義棟と食堂くらいですね」
「じゃあ、今日の活動で少し覚えよう。こっちの道を行くと、図書館の裏に出るんだよ」
「へぇ、そうなんですか」
「うん。あと、あっちの建物には学生が自由に使えるスペースがあるよ。第二学生ホール。自販機もあるし、空きコマに便利」
「それは助かりますね」
「あとで案内するね」
「お願いします」
先輩は歩きながら、大学の施設についていろいろ教えてくれた。
図書館の使い方、学生ホール、時間つぶしに使える場所。
どれも、入学時の資料には載っていたのかもしれない。
でも、実際に使っている人から聞く話のほうが、ずっとわかりやすいし有用だ。
「先輩は、大学に友達多いんですか?」
「どうだろう。多い方なのかな」
「いつも誰かと話している印象があります」
「それは、私がよく話しかけるからかも」
「なるほど?」
「待ってるだけだと、なかなか知り合いって増えないからね」
少しだけ真面目な顔になって、
「私も一年生のときは、知り合いがほとんどいなかったよ。最初は同じ講義の人と挨拶するくらいで、サークルに入ってから少しずつ増えた感じ」
「今の先輩からは想像できないですね」
「そう?」
「はい。最初から今みたいに、誰とでも話せる人だったのかと思ってました」
「そんなことないよ。慣れただけ」
軽く笑って。
「だから、キミも焦らなくていいと思う。大学って四年間あるし、これからいくらでも知り合いは増えるから」
「そうですね」
「それに、ここにもいるし」
先輩は自分の胸元を指さした。
「美咲先輩が?」
「そう。困ったら頼ってくれていいよ。先輩だからね」
「それは心強いです」
「でしょ?」
満足そうに頷いてくれた。
その表情を見ていると、こちらまで嬉しくなる。
何か特別なことをしてもらったわけではない。
ただ、こうして話をして、大学のことを教えてもらっている。
先輩といる時間は、素直に、楽しかった。嬉しかった。
水曜日。
講義が終わったあと、俺はまたサークル棟へ向かった。
今日は大学周辺の清掃ではなく、来月に予定されている地域イベントの準備をするらしい。
部屋に入ると、美咲先輩が段ボール箱を開けていた。
「こんにちは」
「あ、悠真くん。お疲れさま」
今日は人がいないようで、先輩は忙しそうだ。
「今日はイベントで使う案内板を作るよ」
「案内板?」
「うん。子ども向けのイベントで、受付とか休憩場所とか、どこに何があるかわかるようにするの」
「なるほどなるほど」
「絵が得意な人がいたらお願いしたいんだけど、悠真くんはどう?イラスト経験とか」
「得意というほどではないですけど、スーパーのPOPなら描いたことあります」
「じゃあ、お願いしてもいい?」
「はい。できる範囲でなら」
「すっごい助かる!」
用意されていた厚紙とペンを受け取り、案内板の下書きを始める。
文字だけでは少し味気ないので、矢印や簡単なイラストを加えることにした。
作業を始めてしばらくすると、先輩が隣に座った。
「何描いてるの?」
「受付のところに、ちょっと目印をつけようかと思って」
「おお。いいね。これ、何?」
「一応、案内している人のつもりです」
「可愛いじゃん」
「そうですか?」
「うん。これなら子どもにもわかりやすいと思う」
先輩は下書きを覗き込みながら、楽しそうに言った。
「じゃあ、こっちの休憩場所にも何か描こうかな」
「飲み物のマークとかでいいんじゃないですか」
「それいいね。じゃあ、お願いしてもいい?」
「もちろんです」
俺が描いたものを見ながら、先輩も自分の案内板を作り始める。
しばらく、二人で黙々と作業した。
時折、ペンの色を相談したり、文字の大きさを確認したりする。
「こういう作業、けっこう好き?」
「嫌いじゃないですね。細かいことをやっていると、時間が経つのが早いです」
「わかる。私も気づいたらずっとやってることあるよ」
「先輩は、何をしているときが一番楽しいですか?」
「うーん。サークルの活動も好きだし、友達とご飯食べたり、出かけたりするのも好きだし……」
先輩はペンを止めて考えた。
「でも、こうやって誰かと一緒に何か作ってる時も好きかな」
「一人でやるより?」
「そうだね。一人だと、途中で面倒になっちゃうこともあるから」
「なるほど、それはわかります」
「でしょ? 誰かと一緒だと、ちょっとしたことでも楽しくなるんだよね」
そう言って、またペンを動かした。
その言葉には、妙に納得できるものがあった。
大学に入るまでは、何かを始めること自体が目的だった。
新しい場所へ行って、新しいことを経験して、自分の知らない世界を知る。
でも、実際に楽しいと感じるのは、そこで誰かと一緒に過ごしている時間なのかもしれない。
「できた!」
先輩が案内板を掲げた。
大きな文字で『休憩スペース』と書かれ、その横には飲み物のイラストが描かれている。
「いいですね」
「ホント?」
「はい。わかりやすいし、可愛いです」
「よし。じゃあ、採用!」
満足そうに腕を組む。
俺のほうも、受付の案内板が完成していた。
二人で並べてみると、色合いも雰囲気もそれなりに揃っている。
「なんか、いい感じになったね」
「そうですね」
「キミが来てくれてよかった」
「いや、そんな大したことはしてないですよ」
「そういうところだよ」
「またですか」
先輩はくすくすと笑った。
「じゃあ、今日の作業はここまで。お疲れさま」
「お疲れさまでした」
片付けを済ませ、部屋を出る。
外は夕方になっていた。
「悠真くん、このあと予定ある?」
「特にはないですけど」
「じゃあ、駅まで一緒に帰ろうよ」
「嬉しいです」
「よし。いい返事だね」
並んで歩き始める。
大学の門を出ると、夕方の風が少し冷たかった。
「そういえば、アルバイトは決まった?」
「まだですね。もう少し新生活に慣れてから考えようと思ってます」
「それがいいかもね。最初から詰め込みすぎると大変だし」
「先輩はアルバイトしてるんですか?」
「今はしてないよ。講義と実習とサークルと、週末の活動もあってけっこう予定があるから」
「忙しそうですね」
「まあね。でも、全部好きでやってることだから」
先輩は軽く肩をすくめた。
「大学生活の中で、自分に合うものを見つけられるといいね。毎日、楽しい」
「そうですね。今のところは、ここが楽しいです」
「湘クリ?」
「はい」
「そっか」
先輩は少しだけ嬉しそうに、
「じゃあ、これからもよろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
金曜日。
講義が終わり、図書館で少し課題を進めたあと、サークル棟へ向かった。
今週三度目の活動日だ。
入会してまだ何日も経っていないのに、ずいぶん頻繁に顔を出している気がする。
まぁ特に負担には感じていない、というか、楽しい時間になってきている。
部屋に入ると、美咲先輩が一人で資料を整理していた。
「あ、悠真くん。お疲れさま」
「お疲れさまです。今日は何をするんですか?」
「今日は来週の活動の確認と、イベント準備の続きかな。あ、そうだ」
先輩は机の上の紙を一枚手に取った。
「藤沢ネット、次の日曜も活動があるんだけど、どうする?」
「明後日ですか?」
「うん。今度は地域の集会所で、子ども向けイベントの準備を手伝うんだって」
「へぇ」
「私も参加する予定。もしよかったら、また一緒に行かない?」
先輩は、いつもの明るい表情で尋ねてきた。
日曜日の公園清掃は、思っていた以上に楽しかった。
社会人や他大学の学生と話す機会もあったし、普段の生活とは違う経験ができた。
それに、玲奈さんとも会った。
あの場所には自分の知らない世界が、様々な人や仕事があり、もう少し見てみたいと思った。
「行ってみたいです」
「ほんと? じゃあ、また一緒に行こう」
「お願いします」
「よし。じゃあ、あとで詳細送るね」
先輩はスマホを取り出し、何かを確認している。
「玲奈さんも来ると思うよ」
「そうなんですか?」
「うん。来週の準備を担当してるって言ってたから」
「ほうほう」
「玲奈さん、こういうイベントの準備も得意なんだよね。前に一緒にやったときも、すごく助けてもらったんだ」
「先輩、本当に玲奈さんのこと好きですね」
「好きだよ」
即答だった。
「私、玲奈さんみたいに周りを見られる人になりたいんだよね。自分のことだけじゃなくて、他の人が困ってないかとか、何をしたらみんなが動きやすいかとか」
「先輩も、そういうところありますよ」
「え?」
「一昨日の案内板の作業でも、俺が何を描けばいいか迷っていたら、すぐに案を出してくれたじゃないですか」
「それは普通だよ」
「普通にできるのがすごいんですよ」
先輩は少しだけ黙った。
それから、照れくさそうに笑う。
「……悠真くんって、ほんとにそういうことをさらっと言うよね」
「思ったことを言っただけです」
「うん。そういうところ、いいと思うよ」
そう言って、資料を机に戻した。
「じゃあ、日曜もよろしくね」
「はい」
そのあと、俺たちはイベント準備の続きを手伝った。
特別なことは何もなかった。
けれど、月曜日から金曜日まで、何度も顔を合わせて、話をして、一緒に作業をして。
その積み重ねが、少しずつ日常になっていく。
大学に入ってから、まだ一か月も経っていない。
それなのに、サークル棟に行けば美咲先輩がいる、ということが、いつの間にか当たり前に、定期的な楽しみになりつつあった。
日曜日、朝、八時半。
藤沢駅で美咲先輩と待ち合わせた。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日はよろしくね」
「こちらこそ」
先輩は、前回と同じように動きやすい服装だった。
肩には小さなバッグを掛けている。
「今日は集会所だから、前回の公園よりは体力使わないと思うよ」
「そうなんですか?」
「うん。会場の設営とか、飾り付けとか、受付の準備とか。いろいろあるけどね」
「それなら、俺でも手伝えそうですね」
「もちろん。難しいことはないよ」
バスに乗り、目的地へ向かう。
車窓から見える街並みは、前回とは少し違っていた。
駅前の賑わいから離れると、住宅街や小さな商店が増えてくる。
「この辺は、地域の人が多いんですか?」
「そうだね。自治会の人たちが中心になったイベントがいろいろあって、私たちはそのお手伝いをする感じかな」
「藤沢ネットって、いろんなところから依頼が来るんですね」
「うん。できる範囲で協力してるんだと思う」
「先輩は、どうして週末も参加するようになったんですか?」
「最初は友達に誘われたんだよ。世界を広げるってのもあって、大学の活動だけじゃなくて、地域の人とも関わってみたいなって思って」
「それで続いてるんですね」
「そう。思っていたより楽しかったし、いろんな人と知り合えたから」
少し遠くを見て、
「それに、ここで知り合った人たちと話すのも好きなんだよね」
「玲奈さんとか?」
「そうそう。玲奈さんもそうだし、他にもいろんな人がいるよ」
やがてバスが停まり、俺たちは集会所へ向かった。
集会所には、すでに何人かの参加者が集まっていた。
入口にはイベントの案内が貼られ、室内には机や椅子が並べられている。
「おはようございます」
挨拶すると、奥から玲奈さんが顔を出した。
「美咲ちゃん。おはよう」
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。あ、桐谷くんも来てくれたんだね」
「おはようございます。よろしくお願いします」
「うん。今日もよろしくね」
玲奈さんは、前回と同じように自然な笑顔を向けてくれた。
今日は薄い色のシャツに、動きやすそうなパンツを合わせている。
前に会ったときよりも、少しだけ仕事中の人という印象が強かった。
「今日は会場の準備が中心だから、まず机を並べてもらえるかな」
「わかりました」
「重いものは二人で運んでね。無理しないようにね」
「はい」
玲奈さんはそう言うと、別の参加者に声をかけに行った。
美咲先輩が俺の隣に来る。
「じゃあ、こっちから運ぼうか」
「そうですね」
机を壁際から運び、指定された場所に並べる。
椅子も必要な数を出し、受付用のテーブルを入口近くに置いた。
作業をしていると、玲奈さんが何度か様子を見に来た。
「その机、もう少し右かな」
「ここですか?」
「そうそう。ありがとう」
「これで大丈夫ですか?」
「うん。いい感じ」
短いやり取りだった。
それでも、何をすればいいのか迷わずに済むので助かる。
玲奈さんは、指示を出すときも必要なことだけを簡潔に伝える。
その一方で、作業している人に対しては、きちんとお礼を言う。
美咲先輩が憧れる理由は、こういうところなのだろう。
「こっちの箱をお願いできる?」
美咲先輩に声をかけられた。
「はい」
箱の中には、イベントで使う飾りや文房具が入っていた。
「これ、どこに置きます?」
「受付の近くかな。あとで使うから、すぐ出せるところに置いておこう」
「わかりました」
箱を運んでいると、玲奈さんが近づいてきた。
「桐谷くん、ありがとう。もう慣れてきた?」
「少しずつです。前回よりは何をすればいいかわかるようになってきました」
「それはよかった。最初はみんなそんな感じだからね」
「玲奈さんは、こういう活動を長くやっているんですか?」
「そうだね。もう五年くらいになるかな。仕事の都合で毎回は来られないけど」
「忙しいんですね」
「まあ、社会人だからね。平日は普通に仕事だし、休みの日も予定が入ることはあるよ」
「それでも参加しているんですね」
「うん。好きでやってることだから」
小さな笑顔。
「それに、こういう活動って、一人で頑張っても仕方ないから。来られる人が来られるときに、できることをやればいいと思ってる」
「なるほど」
「あなたも無理しないでね。大学生は、勉学が一番大事なんだから」
「はい。ありがとうございます」
「うん。じゃあ、私はあっちを見てくるね」
会話はそれだけだった。
けれど、こういう人がいると、初めて参加する側としてはありがたい。
何かを強制されるわけでもなく、できる範囲で参加すればいいと言ってくれる。
藤沢ネットワークが居心地よく感じる理由の一つは、そういうところなのかもしれない。
準備が一段落したころ、休憩時間になった。
参加者たちはそれぞれ飲み物を手に取り、机の周りに集まっている。
俺もペットボトルのお茶を持って、壁際の椅子に座った。
「お疲れさま」
美咲先輩が隣に座る。
「お疲れさまです」
「今日はどう?」
「ちょっと疲れたけど、わりと楽しくやれてます。前回とはまた違いますね」
「でしょ? こういう準備も、実はけっこう楽しかったりするのよ」
「先輩は、本当にここの活動が好きなんですね」
「うん。大学のサークルとは違う人たちと一緒に何かできるのが、楽しい」
先輩はペットボトルの蓋を開けた。
「それに、玲奈さんもいるし」
「やっぱりそこなんですね」
「そうだよ。なんか、安心するんだよね」
「頼りになる人みたいですからね」
「うん。何かあったときに、どうすればいいかすぐ考えてくれるし。誰かが困っていると、自然に声をかけてくれるし」
先輩は、少し離れた場所にいる玲奈さんを見た。
玲奈さんは別の参加者と話しながら、机の配置を確認している。
「私も、あんなふうにできたらいいな」
「先輩なら、できると思いますよ」
「そうかな」
「少なくとも、俺は助かってます」
「……そっか」
先輩は小さく笑った。
「じゃあ、もう少し頑張ろうかな」
そのとき、玲奈さんがこちらに歩いてきた。
「二人とも、休憩中?」
「はい」
「ちょうど一息ついてたところです」
「そうか。美咲ちゃん、あとで受付の飾り付けを手伝ってもらっていい?」
「大丈夫です」
「ありがとう。桐谷くんも、時間があったらお願いできるかな」
「わかりました」
「助かる。じゃあ、もう少し休んでからでいいから、よろしくね」
玲奈さんはそう言って、別のテーブルへ向かった。
「ね?」
「何です?」
「玲奈さん、いつもあんな感じでしょ」
「あぁ、確かに」
「誰かに頼むときも、ちゃんと相手の様子を見てくれてるんだよね」
「なるほど、そうですね」
「私も見習わないと」
先輩は、また玲奈さんのほうを見た。
午後になり、会場の準備はほぼ終わった。
机や椅子の配置も決まり、受付の飾り付けも済んだ。
あとは当日の確認を残すだけらしい。
「お疲れさま。湘クリの二人も、今日はありがとう」
玲奈さんが、俺たちのところへやってきた。
「いえ、こちらこそ」
「桐谷くん、初めての会場準備なのに、ずいぶん手際がよかったね」
「そんなことないですよ。美咲先輩に教えてもらって動いてただけなので」
「そうなんだ。美咲ちゃん、ちゃんと先輩してるね」
「えへへーそうですか?」
「うん。新しい人が入ってくれるのは嬉しいね」
「はい。悠真くんが来てくれて、私も嬉しいです」
「それならよかった」
玲奈さんは笑顔で頷いた。
「また都合が合ったら参加してね。無理のない範囲で」
「はい。また来ます。よろしくお願いします」
「じゃあ、私は片付けの確認をしてくるね。二人とも気をつけて帰ってね」
玲奈さんは軽く手を振って、会場の奥へ向かった。
「やっぱり、カッコいいよね」
「そうですね」
「私、玲奈さんと一緒に活動するの好きなんだよね。なんか、楽しい」
「先輩にとって、目標みたいな人なんですかね」
「うん。そうかも」
少しはにかんで、
「でも、いつかは追いつきたいかも」
「追いつけると思いますよ」
「ありがとう。キミにそう言ってもらえると、なんか自信が出てくる気がする」
「それなら良かったです」
俺たちは荷物をまとめ、集会所を出た。
帰り道、先輩は駅までのバスの中で、今日の作業についていろいろ話してくれた。
次のイベントでは子どもたちが来ること。
地域の人たちが楽しみにしていること。
準備は大変だけれど、当日になればきっと楽しいこと。
先輩の話を聞いていると、次の活動にも参加してみたくなる。
「ね、来週も来られそう?」
「たぶん大丈夫だと思います」
「じゃあ、また連絡するね」
「お願いします」
「ふふ。これからもよろしくね」
「こちらこそお願いします」
バスが駅に着く。
先輩と一緒に降りて、改札へ向かった。
「じゃあ、私はこっちだから」
「はい。今日はありがとうございました」
「ううん。こちらこそ。気をつけてね」
先輩は手を振って、人混みの中へ歩いていった。
俺も改札を通り、ホームへ向かう。
スマホを取り出すと、新しいメッセージが届いていた。
『今日もお疲れさま! 来週の活動予定はまた送ります』
美咲先輩からだ。
俺は返信を打つ。
『お疲れさまでした。また来週もよろしくお願いします』
送信して、スマホをしまった。
ふと、なんとなく、思う。
月曜日にはサークル棟へ行き、水曜日には先輩と案内板を作り、金曜日には次の活動の準備をする。
週末には、大学の外で、また別の人たちと一緒に作業する。
少しずつ、自分の生活が形作られていく。
そして、美咲先輩と過ごす時間は、やっぱり楽しい。
話していると自然に笑えるし、何かを一緒にやっていると時間が経つのも早い。
玲奈さんは、まだ何度か会っただけだが、なんというか、強い印象の人。
仕事もしていて、恋人もいて、活動にも積極的な大人の女性。
あの人がいると、活動の場が少し落ち着いた雰囲気になるような気がする。
今は、それくらいの印象。美咲先輩が絶賛するのも納得の、素敵な女性。
次に会うときも、きっと普通に挨拶をして、少し話をするだろう。
それで十分だと思っていた。
スマホがもう一度震えた。
画面には、美咲先輩からまたメッセージが届いている。
『今日はありがとう! 悠真くんがいてくれて助かったよ』
続けて、もう一通。
『明日、大学でお昼一緒に食べない?』
俺は少しだけ考えてから返信した。
『いいですね。ぜひ』
すぐに返事が来る。
『やった! じゃあ、また連絡するね』
電車がホームに入ってくる。
俺はスマホをポケットにしまい、乗車口へ向かった。
大学で過ごす時間が、少しずつ楽しみになっている。
そんな自分に気づいて、少しだけ笑った。
来週も、きっと楽しい一週間になる。
そう思っていた。




