第1章 始まった、名前のない関係
桐谷悠真は、駅構内のカフェでアイスコーヒーを飲みながら、自分が思い描いていた大学生活と現実の違いについて考えていた。
「……自由って、意外と面倒だな」
スマホの画面には、大学の時間割と、まだほとんど使っていないサークル紹介アプリが表示されている。
高校までは、決められた時間に学校へ行き、授業を受け、部活動をするか帰宅するかを選べばよかった。
大学では違う。
空きコマができれば、その時間をどう使うか自分で考えなければならない。昼休みに一緒に食事をする相手も、放課後に過ごす場所も、自分で見つける必要がある。
自由とは、選択肢が多いことだ。
そして選択肢が多いということは、選択をできない人間にはとても不自由だ。
「せっかく大学生になったんだしなあ」
独り言をつぶやき、スマホを触る。
画面に並ぶのは、テニスサークル、軽音楽サークル、写真部、漫画研究会、旅行サークル、ボランティアサークル。
どれも楽しそうではある。
ただ、特にこれをやりたい、というものがあるわけではなかった。
高校時代は、友達と遊んだり、アルバイトをしたり、たまに勉強したり。それなりに楽しく過ごしてきた。
だからといって、大学でも同じことを繰り返したいわけではない。
何か新しいことを始めたい。
せっかく首都圏に来れたんだし。
でも、何を始めればいいのかはわからない。
そんな、いかにも大学一年生らしい悩みを抱えていた。
ふと、画面の中のひとつに目が留まる。
『湘南クリーンリンク』
大学公認のボランティアサークルで、月・水・金を中心に活動しているらしい。
活動内容は、大学周辺や地域の清掃、学内イベントの運営補助、地域行事の手伝いなど。
紹介文の最後には、こう書かれていた。
『初心者歓迎! 仲間が欲しい人も募集!まずはできることから、無理なく一緒にやっていきましょう』
「無理なく、ね」
軽く笑いが漏れる。
悪くない。
特別な技術が必要なわけでもなさそうだし、誰かの役に立つというのも、なんとなく気分がよさそうだった。
何より、運動系のサークルに入って汗だくになる覚悟も、音楽経験ゼロで楽器を始める勇気もない。その他マニアックな趣味も知識も、今のところ持ち合わせていない。
消去法と言われれば、そうかもしれない。
それでも、最初の一歩としては十分だろう。
紹介ページに記載されていた説明会の予定を確認し、スマホをポケットにしまう。
窓の外では、春の風に桜の花びらが舞っていた。
大学生活は、まだ始まったばかりだ。
この先に何が待っているのかなんて、今は想像もつかない。だから、今は可能性を広げる時期だと思っている。今は、世界を広げたい。
湘南クリーンリンクの活動場所は、大学のサークル棟にある味気ない部屋だった。
正確には、複数のサークルが共同で使用している部屋の一角だ。壁際には折り畳み椅子や清掃用具が並び、ホワイトボードには今月の活動予定が書き込まれている。
ここが説明会の集合場所。
やはり緊張はある。が、今日は心を決めている。進む。
すると、すでに数人の学生が集まっていた。
「こんにちは。今日、見学の方ですか?」
最初に声をかけてきたのは、黒髪を肩甲骨のあたりで揺らした女子学生だった。
明るい表情に、よく通る声。
人懐っこい笑顔を向けられると、こちらも自然と表情が緩む。
「はい。新入生です。桐谷です。説明会に参加しようと思って」
「桐谷くんね。私は水瀬美咲。二年生。あ、三年生になった。とっくに二十歳すぎてるけど、学年はそれで合ってる」
一人でなにかはにかんでいる。
「なんか、大学って学年と年齢が一致しない人もけっこういるから、説明するときに一瞬迷うんだよね。理系は特に」
「なるほど。じゃあ、とりあえず水瀬先輩でいいですか?」
「うん。間違いないね」
「わかりました、先輩」
「……なんか、急に先輩っぽく扱われると照れるなあ」
水瀬先輩は頬をかきながら笑った。
初対面なのに、妙に話しやすい人という印象。
こちらが何かを言えば、きちんと反応が返ってくる。無理に話題を探さなくても、会話が途切れにくい。こういう人は貴重だ。特に、先輩では。
「こっち座って。もう少ししたら始まるから」
「ありがとうございます」
促されるまま、俺は空いている椅子に腰を下ろした。
水瀬先輩は向かいの椅子に座ると、机の上に置いてあったサークルのパンフレットを手渡してくれた。
「活動内容はだいたいここに書いてあるんだけど、実際に参加したほうがわかりやすいと思う。うちはそんなに堅苦しくないし、毎回絶対参加しなきゃいけないってわけでもないから」
「それは助かります。大学の時間割がまだよくわかってなくて」
「わかる。私も一年の最初は、空きコマって何すればいいの? って感じだったよ」
「今は?」
「友達とご飯食べたり、課題やったり、たまに何もせずにぼーっとしたり」
「最後のが一番魅力的ですね」
「でしょ?」
笑顔。
その笑顔を見ていると、サークルの雰囲気も悪くなさそうに思えてくる。
…もちろん、まだ見学に来ただけだ。
ここで活動していくと決めたわけではない。
それでも、少なくとも最初の印象はよかった。
「水瀬さん、そろそろ始めるよ」
部屋の奥から声が飛んできた。
「あ、はーい」
先輩は立ち上がり、カーテンで仕切られた裏へと移動する。
説明会は、思っていたよりもずっと気楽なものだった。
代表を務める三年生が活動内容を説明し、月、水、金の定例活動について話す。
大学内や近隣の清掃活動が中心だが、地域のイベントに参加したり、他のサークルの活動を手伝ったりすることもあるらしい。
大きな理念を掲げて社会を変える、というよりは、身近なところでできることを少しずつやっていく。
そんな雰囲気だった。
「ちなみに、週末も活動できる人は、別の団体の活動に参加しています」
代表がそう説明した。
「藤沢ネットワークっていう地域の団体で、他大学の学生や社会人も参加しています。この辺は大学も会社も多いから、いろんな人と活動します。自治会の行事を手伝ったり、地域清掃をしたり、フリーマーケットに出たり。うちのサークルからも、予定が合う人は積極的に参加しています」
「へえ、そんなのもあるんですね」
誰かが感心したように声を上げる。
「もちろん、そのあたりの参加は自由です。大学の活動だけでも十分なので、興味がある人は話だけでも聞いていってください」
パンフレットに視線を落とす。大学内の活動だけでも、週三回。そこに週末の活動まで加われば、思っていた以上に予定が埋まることになる。
ただ、毎週参加しなければならないわけではないらしい。
それなら、気が向いたときに参加するのも悪くない。
「桐谷くんは、週末に何か予定あるの?バイトとか」
いつの間にか隣に座っていた水瀬先輩が小声で尋ねてきた。
「今のところは特に。アルバイトもまだ決めてないですし」
「じゃあ、もしよかったら一回行ってみる? 私もけっこう参加してるんだよね」
「先輩も?」
「うん。大学のサークルとはちょっと雰囲気が違って面白いよ。社会人の人もいるし、いろんな大学の人とも知り合えるし」
「なるほど」
「まあ、無理にとは言わないけどね。週末くらい休みたいって人もいるし」
「いや、ちょっと興味あります」
先輩はぱっと顔を明るくした。
「ホント? じゃあ、今度の日曜日の活動、案内しようか?」
「お願いします」
「よし、決まり!」
その勢いに、俺は思わず笑ってしまった。
まだ入会するとも言っていないのに、ずいぶん話が早い。
けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ、自分が知らない場所へ連れていってくれる人がいるというのは、ありがたいことなのかもしれない。
説明会が終わるころには、湘南クリーンリンクへの入会は、ほとんど決まっていた。
最後に簡単な自己紹介を済ませ、連絡用のグループLINE に招待してもらう。
そのあと、活動日や必要な持ち物について説明を受けていると、水瀬先輩が隣から顔を覗かせた。
「桐谷くん、今から時間ある?」
「ありますけど」
「じゃあ、ご飯食べに行かない? せっかくだし、藤沢あたりも案内するよ」
「え、いいんですか?」
「もちろん。新入生を放置するわけにもいかないしね」
「ありがとうございます。嬉しいです」
「うんうん。素直でよろしい」
藤沢駅近くのビストロで食事を済ませたあと、二人で駅のほうへ向かって歩いた。先輩はワインを一杯飲んでいた。
電車で十分くらいだが、大学の周辺とは少し違う賑わいがある。
駅へ続く道には、学生っぽい若者が多いが、その他にも買い物帰りらしき人や、仕事の途中であろう人も行き交っていた。
「この辺、もう少し歩くとカフェも多いんだよ。課題やるときに使えるところとか」
「へぇ。そういうの、まだ全然知らなくて」
「これから覚えればいいよ。四年あるんだから」
「それもそうですね」
「……あ、でも、四年間って長いようで短いんだよね」
先輩は少し遠い目をした。
「私も入学したときは、大学生ってもっと大人だと思ってたんだけどね」
「先輩でも、そう思ったんですか?」
「どういう意味?」
「いや、なんか、しっかりしてるので」
「……桐谷くん」
「はい?」
「今の、もう一回言って」
「え?」
「しっかりしてるってところ」
「いや、聞こえてたじゃないですか」
「聞こえてたけど、もう一回」
立ち止まって詰めてくる。なんなんだ。
「水瀬先輩は、しっかりしてると思いますよ」
「よし!」
先輩は小さく拳を握った。
「いやあ、新入生に褒められると嬉しいねえ」
「そんなにですか?」
「そんなにだよ。最近、後輩に頼られることも増えてきたし。先輩らしくしなきゃなって思ってるから」
「十分、先輩してくれてると思いますけど」
「…桐谷くんって、年上褒めるのに躊躇なし?」
「普通ですよ」
「そうかなあ。なんか、自然に言うよね」
そう言って、また歩き始めた。その隣に並ぶ。
実は年上の女性と話すのは、昔からそれほど苦手ではなかった。
まぁ姉二人で、上は七つ上という環境のせいか。
小さいころから姉の友人が家に遊びに来ることがよくあったし、気づけば大人びた女性たちの会話に混ざっていることも珍しくなかった。
子供にとって、それくらい年上の人はほぼ大人だ。
もちろん、相手の年齢や立場に応じた礼儀は必要なのもよく理解している。
だが重要なのは、必要以上に緊張することはないということだと思っている。
相手が話しかけてくれたなら、こちらも普通に返せばいい。
下手に気を使うと必ず相手は悪い反応をする。多少の気安さは、ある意味での処世術なのだ。
そんな感覚が、自然と身についていた。
「そういえば、桐谷くんって、兄弟いるの?」
「姉が二人います」
「えっ、お姉さん二人?」
「はい」
「社会人?」
「上はそうですね。七つ上なんで。たぶん、今ごろ仕事してるんじゃないですか。下はたぶん大学四年です。地元の大学で」
「どっちもたぶんって……」
「連絡、そんなに取らないので」
実際そんなもんだ。親とは(主に金銭面で)連絡を取る機会もあるが、姉弟ではそんなに連絡することもない。
「やっぱり関係あるのかな。年上と話すの慣れてる感じがする。さっきも全然緊張してなかったし」
「そうですか?」
「うん。もっとこう、先輩相手だと緊張する新入生が多いから。特に男の子は」
「先輩は話しやすいですし」
「……あ、そういうこと言うんだ」
少しだけ目を丸くしたあと、にやりと笑った。
「なるほどね。桐谷くん、わりと人たらしタイプなのかな」
「いやいや。普通に思ったことを言っただけです」
「そういうところだよ」
何がどういうところなのか、よくわからない。
ただ、先輩が楽しそうなので、まあいいかと思う。
こういう距離感の近いお姉さんな人と話す機会は多かった。まずは共感。それが何より優先だ。
駅前の交差点で信号待ちをしていると、先輩はスマホを取り出した。
「そうだ。今度の日曜日の活動、詳細送っておくね」
「ありがとうございます」
「集合は朝九時。場所は駅から少し離れた公園。バスがあるよ。わりと大きい公園の清掃活動で、その時に色んな人たちと交流できるよ」
「思ったより本格的なんですね」
「まあ、やってること自体は普通だよ。ゴミ拾ったり、道具運んだり。大変なときもあるけど、楽しいよ」
「先輩がそう言うなら、楽しみにしてます」
「うん。じゃあ、日曜日にね」
信号が青に変わる。
先輩とは駅前で別れた。
俺は改札へ向かいながら、今日一日のことを振り返った。
サークルの説明会に参加して、入会することを決めた。
先輩と食事して、藤沢近辺を軽く案内してもらった。
特別な出来事があったわけではない。
それでも、朝にカフェでぼんやりしていたときより、少しだけ大学生活が始まった気がした。
スマホが震える。
水瀬先輩から日曜日の活動についてのメッセージが届いていた。
『当日、私もいるから安心してね!』
その下には、親指を立てたスタンプが添えられている。
俺は短く返信した。
『ありがとうございます。よろしくお願いします』
送信してから、ふと気づく。
自分は、日曜日の予定を楽しみにしているらしい。
新しい場所へ行くことも、そこで新しい人と出会うことも。
そして、案内してくれる先輩に会うことも。
日曜日の朝。
俺は藤沢駅の改札前で地図を確認していた。
集合場所までは、ここからバスで十五分ほどらしい。
駅前には、休日の朝にしては意外と人が多い印象。地方から出てきた人間にとっては、やはり首都圏の人の多さはまだ鳴れない。買い物や行楽へ向かうであろう家族連れや学生たちがあちこちを行き交っている。
「えーっと、バス乗り場は……」
「桐谷くん!」
聞き覚えのある声がした。
顔を上げると、少し離れたところで水瀬先輩が手を振っている。
今日は大学で会ったときよりもラフな格好をしている。動きやすそうなパンツにスニーカー、薄手の上着。肩には小さなリュックを掛けていた。
「おはようございます」
「おはよう。ちゃんと来たね」
「来ますよ。自分から参加したいって言ったんですから」
「えらいえらい」
先輩は笑いながら、俺の肩を軽く叩いた。
「じゃ、行こっか。バス停こっち」
並んで歩きながら、先輩は今日の活動について簡単に説明してくれた。
藤沢ネットワークは、学生だけの集まりではない。
地域で働く社会人や、他大学の学生、地元の人たちが参加している。活動の内容も、そのときどきで変わるらしい。
今日の中心は、公園周辺の清掃活動。
参加者は二十人ほどの予定だという。
「大学のサークルと比べると、年齢層はかなり広いよ。最初はちょっとびっくりするかも」
「そんなに違うんですか?」
「うん。二十代、三十代の社会人もいるし、もっと上の人もいたりするから」
「なるほど」
「でも、みんないい人たちだよ。わからないことがあったら聞けばいいし」
「水瀬先輩も、最初は誰かに教えてもらったんですか?」
「そうそう。私も最初は何もわからなかったからね」
少し遠い目をする。
「そのとき、すごく頼りになる人がいてさ」
「ほぉ」
「今日も来ると思う。相沢さんっていう人なんだけど」
なんだか嬉しそう語る。
「社会人の人で、仕事もしながら、活動にもよく来てくれるんだよ。すごくテキパキしてて、困ってる人がいたらすぐ気づいてくれるし。あと、何ていうか……カッコいいんだよね」
「カッコいい?」
「うん。仕事ができる大人の女性って感じ」
なるほど、どうやら『そういう人』らしい。
「私もあんなふうになれたらいいなって思う」
「先輩も、十分しっかりしてると思いますけど」
「それとこれとは別!」
先輩は即座に言い切った。
「相沢さんはね、なんかこう……余裕があるんだよ。忙しいときでも慌てないし、周りをちゃんと見てるし。それでいて、偉そうにしないの」
「なるほど。会うのが楽しみですね」
「でしょ?」
今日の活動に、一つ楽しみができたらしい。
公園に着くと、すでに何人もの参加者が集まっていた。
広場の一角に長机が置かれ、その上には軍手やゴミ袋、火ばさみなどが並べられている。
参加者たちは互いに挨拶を交わしながら、道具を受け取ったり、担当する区域を確認したりしていた。
「おはようございます!」
先輩が声をかけると、近くにいた男性が振り返った。
「おはよう、水瀬さん。今日は新しい子が一緒?」
「はい。湘南リンク新入生の桐谷くんです」
「桐谷です。よろしくお願いします」
「こちらこそ。俺は藤沢ネットワークの運営を手伝ってる佐々木。まあ、今日はそんな難しいことはしないから、気楽にやってよ」
「ありがとうございます」
佐々木さんは三十代くらいの男性で、日に焼けた顔に気さくな笑みを浮かべていた。
その後も、何人かの参加者を紹介してもらう。
社会人もいれば、大学生もいる。家族参加なのか、中学生くらいの子までいる。年齢も服装もさまざまだが、初参加の人間を特別扱いするような雰囲気はなかった。
それがありがたかった。
新しい集団に入るとき、最も困るのは、どう振る舞えばいいのかわからないことだ。
けど、ここでは必要なことを聞き、頼まれたことをすればそれでよさそうだった。
「じゃあ、そろそろ始めようか」
佐々木さんの声を合図に、参加者たちが集まった。
今日の作業内容と担当区域が説明され、いくつかのグループに分かれる。
俺と水瀬先輩は、ほかの大学生二人と一緒に、公園の外周を担当することになった。
「桐谷くん、火ばさみはこうやって持つといいよ。ゴミは分別して各色の袋に入れてね」
「わかりました」
「よし、じゃあ行こうか」
皆で、空き缶や吸い殻などを拾って歩く。
清掃活動そのものは、想像していたとおりだった。
落ちているゴミを拾い、分別し、袋がいっぱいになれば回収場所へ持っていく。
ただ、実際にやってみると、思ったよりも細かいゴミが多かった。植え込みの奥に押し込まれた紙くずや、ベンチの下に落ちた菓子の袋。普段なら気にも留めないようなものが、いざ拾おうとすると目につく。
「こんなところにも……」
「ね。普段はあんまり気にしないよね」
美咲先輩が隣で頷いた。
「でもね、きれいになると結構気持ちいいよ」
「それは、ちょっとわかります」
俺は拾ったゴミを袋に入れた。
作業を続けるうちに、最初に感じていた緊張も薄れていった。
他の参加者とも自然に会話を交わすようになり、作業の合間にはちょっとした冗談も飛び交う。
先輩は慣れた様子で周囲に声をかけ、誰かが困っていればすぐに手を貸していた。
確かに、大学で見た時と同じだ。
明るくて、気さくで、周囲をよく見ている。
新入生の自分に親切にしてくれるだけではなく、誰に対しても自然にそう接する人なのだろう。
そう思うと、なんだか少し安心した。
「桐谷くん、そっち終わった?」
「はい。こっちは大丈夫です」
「じゃあ、あっちのベンチ周りも見てみようか」
「了解です」
二人は並んで歩き出した。
そのときだった。
「美咲ちゃん、そっちは終わった?」
少し離れた場所から、女性の声がした。
先輩が顔を向ける。
「あ、玲奈さん!」
その声には、さっきまでとはまた違う明るさがあった。
女性がこちらへ歩いてくる。
腰のあたりで揺れる、落ち着いた色合いの髪。動きやすい服装なのに、どこかきちんとした印象がある。
手にはゴミ袋を持ち、歩きながら周囲の様子を確かめていた。
「こっちはもう少しです。相沢さんのところは?」
「私の担当は終わったよ。回収場所に持っていくところ」
「さすが、早いですね」
「いやいや、今日は人数が多かったからね」
女性は笑いながら立ち止まり、初めて俺に視線を向ける。
「そちらは?」
「あ、紹介しますね。大学の後輩の桐谷くんです。湘クリに入ったばかりなんですよ」
「桐谷悠真です。よろしくお願いします」
俺が頭を下げると、女性も軽く会釈してくれた。
「相沢玲奈です。二十四歳会社員。よろしくね」
落ち着いた声だった。
なるほど、先輩が憧れるのもわかる気がする。なんというか、ごく自然に、綺麗な人だ、などと思う。
けど、近寄りがたいという感じでもない。目が合うと自然に微笑んでくれるし、こちらが挨拶をすれば、きちんと返してくれる。
「初参加?」
「はい。大学のサークルの新入生で、週末の活動も紹介してもらって」
「そうなんだ。じゃあ、最初はわからないことも多いよね」
「はい、まぁそうですね。でも、みなさん親切なので助かってます」
「それならよかった」
玲奈さんは頷き、俺の手元を見た。
「軍手、少し大きい?」
「え?」
「指先が余ってるから。作業しづらくない?」
「ああ、確かに。ちょっと余ってますね」
「予備があるから、あとで交換するといいよ。細かいゴミを拾うとき、ズレると危ないし」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
それだけ言うと、玲奈さんは美咲先輩に向き直った。
「美咲ちゃん、あとで回収場所に来てくれる? 分別の確認をしたいから」
「わかりました!」
「じゃあ、よろしくね」
玲奈さんは軽く手を振り、別のグループの方へ歩いていった。
「……やっぱりカッコいいなあ」
「そんなにですか?」
「そんなにだよ!」
力強い返事だった。まぁ、わかるが。
「今の見た? 私たちの作業が終わってないこともちゃんとわかってて、必要なことだけ伝えて、すぐ次の仕事に行くんだよ」
「確かに、手際がいいですね」
「そうなの。ああいうところ、見習いたいんだよね」
絶賛だな。だがまぁ理解できる。確かに、仕事のできる人なのだろう。
ただ、それ以上に印象に残ったのは、初対面の自分にも普通に、自然に話しかけてくれたことだった。
必要以上に緊張することもなかった。
むしろ、あの短いやり取りだけで、話しやすい人だと思った。
「桐谷くん?」
「はい?」
「ぼーっとしてるよ。あっち、まだゴミ残ってるから」
「あ、すみません」
「ふふっ。玲奈さんに見とれてた?」
「いや、そういうわけじゃないですよ」
「ほんとかなぁ?」
俺は苦笑して、再び火ばさみを握った。
まさか初対面の相手に見とれるほど単純ではない。
……たぶん。
十一時五十分、集合時間。参加者たちは公園の広場に集まった。
回収したゴミを分別し、道具を片付ける。最後に簡単な振り返りをして、今日の活動は終了となった。
俺は、思っていた以上に疲れていた。
体力を使ったというより、普段は意識しないような細かい作業を続けたせいだろう。
「お疲れさま、桐谷くん」
美咲先輩がペットボトルの水を差し出してくれた。
「ありがとうございます」
「どうだった? 初めての週末ボランティア」
「思ったより楽しかったです。最初は何をすればいいのか、ちょっと不安でしたけど」
「でしょ? けどね、慣れると結構楽しいんだよ」
「水瀬先輩のおかげで今日も楽しくできました。ありがとうございます」
「……うん。そういうことなら、素直に受け取っておこうかな」
少し照れくさそうに笑って
「また来てくれる?」
「予定が合えば、ぜひ」
「やった。じゃあ、また誘うね」
そのとき、少し離れたところから玲奈さんの声がした。
「美咲ちゃん、帰る前にちょっといい?」
「あ、はーい!」
ぱっと振り向いて
「ごめんね。ちょっと玲奈さんに呼ばれちゃった」
「大丈夫ですよ」
「駅まで一緒に帰ろうと思ってたんだけど、少し時間かかるかも」
「じゃあ、先に帰ってます」
「うん。また大学でね!」
振り向いて、駆け出す瞬間にまたこちらを向く。
「あ、あと」
「はい?」
「今日でわかったと思うけど、私はここでは美咲ちゃんなんだ」
「は?」
何を言ってるのかわからない。
「だから、私のことは美咲でね。」
…あぁ、なるほど、そういうことか。
「わかりました、美咲先輩」
「ものわかりのいい後輩は好きだよ、悠真くん」
「それは嬉しい」
美咲先輩は満足そうに頷き、玲奈さんのもとへ駆けていった。
なんともムズ痒いというか嬉しいというか、複雑な心境に足が動かない。
俺は隠れるでもなく、なんとなく二人の様子を眺めた。
玲奈さんは書類らしきものを出して、次回の活動について話しているようだった。
先輩は真剣な表情で頷き、ときどき質問をしている。
五分程度のやりとりで連絡事項は終わったらしく、
「玲奈さん、今日このあと予定ありますか?」
女子トークに移る。が、
「うん。彼氏と約束あるから、そろそろ行かないと」
「あ、そうでしたか。じゃあ、また来週!」
「うん。またね」
大人の女性、って感じだな。余裕がある。
今日一日で、二つのことがわかった。
湘南クリーンリンクは、思っていたよりも居心地がよさそうだ。美咲先輩との時間は楽しいし、また会いたいと思う。
藤沢ネットワークには、まだ自分の知らない世界がある。その中には、相沢玲奈という女性がいた。
それも、けっこう大きいかも。
駅へ向かう途中、スマホが震えた。
画面には、美咲先輩からのメッセージが表示されている。
『今日は初参加お疲れさま!』
続けて、もう一通。
『明日、湘クリの活動あるから、良かったら参加してね!』
『はい、参加します』
すぐに返信が来る。
『やった! じゃあ、また明日!』
短いやり取りだった。
けれど、画面を見ていると、自然と口元が緩んでしまう。
新しい生活の中に、少しずつ知っている顔が増えていく。
そういう小さな変化が、嬉しいし楽しい。
スマホをポケットにしまい、駅へ向かった。
春の風が、頬を撫でていく。
まだ、何も始まっていない。
美咲先輩とは、これからもっと仲良くなるだろう。
玲奈さんとは、次にいつ会うのかもわからない。
そもそも、彼女には彼女の生活があり、仕事があり、そして恋人もいる。
今日出会ったばかりの自分が、その日常に入り込む理由などない。
だから、今はただ、日々の生活を楽しめればいい。
俺はそう考えながら、改札を抜けた。
そのとき、ふと思い出したように足を止める。
玲奈さんが、軍手のサイズを指摘してくれたこと。
美咲先輩が憧れる理由を、少しだけ理解できたこと。
そして、初対面なのに、妙に自然に会話ができたこと。
「……また会うこともあるか」
独り言をつぶやき、苦笑した。
週末の活動に参加すれば、会う機会はあるだろう。
それだけだ。
そのときの俺には、まだわからなかった。
何気ない会話を交わしただけの年上の女性が、やがて自分にとって、誰よりも気になる人になっていくことを。
そして、その人と過ごす短い時間が、大学生活の中で当たり前のように増えていく時間よりも、ずっと待ち遠しいものになることを。
春は、まだ始まったばかりだった。




