ナメクジ女
とある女子大生が、電車から降りる時、自身の腕に指先大のナメクジが一匹這っているのに気付いた。
彼女は短く悲鳴を上げ、払い落とそうとする。
一緒に降りた他の乗客達や駅にいた人々が、何事かと一瞬視線を送るが、すぐに興味を失い、また歩を進め始めた。
ナメクジは落ちていない。彼女はバツが悪そうな顔をしながらホームの端っこへ移動し、腕の不快感を我慢しながら再び払ってみた。
しかし、何も変わらない。触ることが出来ない。
(何なの……気持ち悪いよぉ……)
ナメクジ男に貼り付けられたこれは、不可視の存在ではあるが、性質が似ていたり波長が合ったりすると他者にも見えることがある。
彼女は腕のナメクジを見ながら、どこから来たのか、いつ付いたのか、考えてみたが、皆目見当がつかなかった。
それからというもの、人生を食い荒らすナメクジとの生活が始まった。
一週間が経ち、二週間が経ち、寝ても覚めても、食事の時も入浴の時も、常に這っていて気が気じゃなかった。
友達に腕を見せてみたが、やはり普通の人には見えないらしく、何の反応も得られなかった。
(キミは一体、どこから来たの)
しかし、特に悪さをすることもなく、ただ腕に貼り付いているだけだった。
大学に顔を出した時のこと、一回生前期の単位を落としてしまったのだ。
幸い、後期や次年度での受講で取り戻せはするものの、彼女の心に少なからず暗い影を落とした。
茹だるような暑さのお昼過ぎ、講義から帰宅する電車の中で、彼女は汗を拭った後に香水を吹いた。
その直後、腕を這うナメクジが二匹に増えていた。
(え……何で……)
彼女は、ふとデジャヴュを感じていた。
そう、初めてナメクジが貼り付けられた時、今日と同じく電車内で香水を吹いたのだ。
彼女が周囲に目を向けると、視線を逸らす人、ハンカチを当てている人、離れていく人、車両を変える人がいることに気付いた。
スマホを取り出し、『電車』『香水』と検索する。
すると、オートコンプリート機能により、検索候補がずらりと並ぶ。
『電車』『香水』『臭い』『うざい』『迷惑』『吐きそう』
候補を見ただけで、彼女は自分がこれまで何をしてきたのかを理解した。
(そっか……そういうことだったんだ……)
それからの彼女は、香水を持ち歩かず、吹くこともやめた。
別の日、午後の講義を受けに行く途中、以前の自分と同じことをしようとしている人が、目の前の座席にいた。若いカップルだった。
女性の方が香水瓶を取り出したところで、彼女はそっと手で制した。
「電車で香水を吹くと、臭いで気分が悪くなる人もいます」
そう伝えると、
「車両変えりゃいいじゃん」と、彼氏の方が面倒くさそうな声色で返した。
彼女は残念さを顔に表しつつ、「ですね……」と答えた直後、女性は躊躇なく香水を吹いた。
ふと自分の腕を見ると、ナメクジが一匹動き、女性の方に移って行った。
このことから、自分と同じ迷惑行為をする他者を諫め、なおかつ改善されないと伝播していくのだと分かった。
香水の臭いが車内を漂い、空調で充満し、彼女は軽い眩暈を覚えた。
(自分のだと気付かなかったけど、他人のだとこんなにキツイんだ……)
一ヶ月が経った。腕のナメクジとの共同生活も少し慣れた頃。
講義帰りの電車の中で、彼女の隣には制服姿の女子高生らが三人座り、姦しく会話を弾ませていた。
そのうちの一人が、おもむろに鞄からコロンを取り出し、吹こうとした。
彼女はそれに気付き、再び諫めてみることにした。
「ダメですよ。電車の中で吹くと、臭いで気分が悪くなる人もいますから」
すると少女は、
「あ、はい……すみません、気を付けます……」と、子供っぽい素直な反応を示し、コロンを鞄に素早く仕舞った。
理解が得られたことに彼女がほっと一息吐いた時、腕からナメクジがぽとりと落ち、干からびて消えた。
過去の自分と同じ迷惑行為を窘め、相手に聞き入れられた時、ナメクジは行き場を失くし消滅する。
(きっと、私の過ちを戒めるために、どこからか来て貼り付いてたんだね)
彼女は腕を擦りながら思い、心のしこりも取れた気がした。
(バイバイ、ナメくん)
了
ご精読ありがとうございました。
前作『ナメクジ男』
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