第二話 戦えない才女の防壁術式
黒い狼型魔獣が、土煙を巻き上げながら集落へ突っ込んでくる。
鋭い牙をむき出しにし、飢えたような赤い目をぎらつかせたその姿に、子どもたちの悲鳴が重なった。
「北の柵の向こうにもまだいるぞ!」
「女と子どもは下がれ!」
「槍を持て、槍を!」
怒号が飛び交う。
だが、集落の男たちの顔には、明らかな焦りが浮かんでいた。手にしているのは古びた槍や斧ばかりで、防具もろくに揃っていない。これまで何度も襲撃を受けてきたのだろう、戦う前から消耗しきっているのがわかった。
エレナは息を呑み、地面へ視線を走らせる。
崩れかけた木柵。その根元に半ば埋もれた古い石杭。苔に覆われ、打ち捨てられていたそれらは、今の彼女には別のものに見えていた。
――防壁術式の基点。
おそらくかつて、この集落を囲う簡易防壁が張られていたのだ。砦跡に付随する集落なのだから、当然といえば当然だった。だが年月とともに管理する者がいなくなり、術式は途切れ、石杭はただの残骸になった。
けれど、完全に失われたわけではない。
繋げられる。
そう判断した瞬間、エレナの体はもう動いていた。
「みんな、柵から離れてください!」
叫びながら、彼女は井戸のそばに置いたままの炭片を拾い上げる。
男の一人がぎょっとした顔をした。
「お、おい嬢さん、何してる! 危ねえぞ!」
「防壁を起こします!」
「はあ!?」
信じられない、という顔だった。
それも無理はない。王都ですら誰も理解しなかった術式だ。辺境の集落で通じるはずがない。
それでも、説明している時間はない。
エレナは駆けながら、乾いた地面に炭で線を引いた。石杭と石杭を結ぶように、鋭く、速く、正確に。
円環は間に合わない。広域展開も無理。必要なのは、魔獣の突進を一瞬だけでも殺すための簡易防壁――局所展開型の衝撃緩和術式。
左手で古い石杭に触れ、魔力の残滓を探る。
薄い。だが、ゼロではない。
「接続点、四つ……いや、三つで十分」
呟きながら補助線を書き足す。炭が砕け、指先が黒く汚れる。構ってはいられない。
狼型魔獣はもう目前まで迫っていた。
唸り声。荒い息。飛び散る土。
距離にして十数歩。
男たちが慌てて槍を構えるが、隊列はばらばらだ。このままでは正面から食い破られる。
「下がって!」
エレナは最後の線を引き切り、地面に手をついた。
「――簡易防壁、起動!」
一瞬、何も起こらなかった。
直後、石杭同士を結ぶように、淡い青白い光が走る。
ぱち、と小さく火花のようなものが散った次の瞬間、透明な壁のような膜が、木柵の手前に薄く立ち上がった。
狼型魔獣がそのまま飛び込み、
どん、と鈍い衝撃音を立てて弾かれた。
「なっ……!」
「止まった!?」
男たちが目を見開く。
完全に防いだわけではない。防壁は薄く、衝撃で大きくひびが入っている。それでも、魔獣の勢いは確かに殺された。
前脚がもつれ、狼型魔獣の体勢が崩れる。
「今です!」
エレナが叫ぶと、最初に我に返ったのは、先ほど井戸の前にいたやせた男だった。
「やれぇっ!」
怒声とともに、彼が槍を突き出す。
続いて二人、三人と男たちが飛び出し、よろめいた魔獣へ一斉に襲いかかった。槍先が肩に刺さり、斧が足を打ち、最後に別の男が横から首元を深く薙いだ。
獣の絶叫が響く。
巨体が地面に倒れ、土を巻き上げて動かなくなった。
だが、安堵は一瞬だった。
「まだ二匹いるぞ!」
北の柵の外から、別の叫びが飛ぶ。
エレナは荒く息をついたまま顔を上げる。防壁のひびはもう限界だ。この簡易術式では、一度大きな衝撃を受ければ持たない。
それでも、基点は使える。
次は強度ではなく、誘導だ。
エレナは視線を巡らせ、崩れた石積みの位置を確認する。集落の北側には、かつて通路だったのだろう細い隙間があり、その先は砦跡の外壁に挟まれて狭くなっている。あそこへ魔獣を流し込めれば、包囲しやすい。
「皆さん、北の石壁の方へ!」
「は?」
「正面で受けないでください! あの狭いところへ誘い込めば、一匹ずつしか来られません!」
やせた男が舌打ちしながらも叫ぶ。
「聞いたな! 北壁へ下がれ! 正面を開けるな!」
やはりこの男には人を動かす力があるらしい。混乱していた集落の男たちが、彼の声でなんとか動き始める。
エレナはその間に、石杭から伸びる魔力の流れを強引に書き換えた。
さきほどの防壁術式の残りを使い、今度は“音と光の偏り”を作る。
派手な幻惑魔法ではない。そんな高等術式は組めないし、そもそも彼女の得意分野ではない。
けれど獣は、わずかな刺激の差に反応する。
進みたくなる方向を作ることはできる。
再び魔力を流し込むと、北壁側の地面に淡い明滅が走った。
外から唸り声が近づく。
次の瞬間、二匹目の狼型魔獣が壊れた柵の隙間から飛び込んできた。だが、その足はまっすぐこちらへは向かわず、わずかに左へ逸れる。
明滅に引かれるように。
「よし……!」
エレナは小さく呟いた。
魔獣は狭い通路へ入り込み、石壁の間で身をひるがえそうとして動きが鈍る。
「今だ!」
やせた男の号令で、待ち構えていた男たちが左右から槍を突き出した。
通路が狭いため、魔獣は十分に身動きが取れない。暴れて一人が弾き飛ばされたが、直後にもう一人の槍が脇腹へ深く刺さった。
血の匂いが風に乗る。
エレナは思わず唇を噛んだ。
戦いは嫌いだ。目の前で命が削り合われる光景は、何度見ても慣れないだろう。
だが、ここでは嫌だと思うだけでは誰も救えない。
三匹目が現れた。
今度の個体は、先の二匹より一回り大きい。毛並みも黒々としており、鼻先から頬にかけて古傷が走っている。群れの長だ。
その赤い目が、まっすぐエレナを捉えた。
「っ……!」
喉が凍る。
術式を動かしているのが誰か、勘で見抜いたのかもしれない。長は壊れた柵から飛び込まず、大きく回り込むように駆けた。
狙いは、術者。
エレナは瞬時に悟った。
「嬢さん、逃げろ!」
誰かが叫ぶ。
だが足がすぐには動かなかった。視界の端で、術式の線が見える。石杭。乾いた地面。井戸修復で使った塩の残り。さっき張った簡易防壁のひび。
逃げきれない。
なら。
エレナは地面に転がっていた水桶をひっつかみ、防壁のひび割れた基点へ中の水をぶちまけた。
石杭の根元に水が染み込む。
魔力伝導率が一瞬だけ上がる。
「再接続……!」
指先を地面に叩きつける。
壊れかけた防壁術式に、今度は“反発”ではなく“偏向”の式を無理やり重ねた。完全な術式理論からすれば乱暴もいいところだ。王都の教師が見れば卒倒するだろう。
だが、今欲しいのは美しい理論じゃない。
生き残るための、たった一度の成功だ。
「――右へ、流れて!」
長が跳躍する。
その瞬間、ひび割れた透明の膜がわずかに傾き、魔獣の体が横へ弾かれた。
狙いがずれる。
エレナの肩先をかすめるだけで、長の巨体はそのまま井戸脇の石積みにぶつかった。
衝撃で石が崩れ、獣が唸る。
「今だぁぁっ!」
裂けるような怒声。
灰色の外套を翻した大柄な男が、いつの間にか馬上から飛び降りていた。抜き放たれた長剣が、夕暮れの光を鋭く弾く。
男は一息で間合いを詰め、態勢を立て直しかけた長の首元へ斜めに剣を振り下ろした。
鈍く、重い音。
長の体が大きく揺れ、鮮血が散る。
なおも噛みつこうとした魔獣の喉へ、男は返す刃でもう一撃を叩き込んだ。
巨体が崩れ落ちる。
地面が震え、辺りはようやく静まり返った。
荒い呼吸だけが残る。
しばしの沈黙のあと、あちこちから安堵の声が漏れ始めた。
「た、助かった……」
「終わったのか……?」
「怪我人を見ろ!」
男たちが動き出す。泣いていた子どもたちに駆け寄る女たち。地面に座り込む老人。誰もがまだ信じられないような顔をしていた。
エレナもその場にへたり込みそうになるのを、なんとか堪えた。
魔力を一気に使ったせいで頭がくらくらする。指先は震え、炭と土で黒く汚れていた。肩先には、さきほど長の爪がかすめたのか、じんじんとした痛みがある。
「おい」
低い声が降ってきた。
顔を上げると、さきほど長を斬り伏せた男が立っていた。
灰色の髪に、鋭い琥珀色の目。年は二十代半ばほどか。上質だが実用本位の装備を身に着けており、その佇まいには場慣れした指揮官の空気があった。
「お前がやったのか、あの術式」
ぶっきらぼうな言い方だったが、責める響きではない。
エレナは息を整えながら立ち上がった。
「……はい。簡易的な防壁と、誘導の補助です」
男の眉がわずかに上がる。
「補助、だと?」
「完全に防いだわけではありません。勢いを殺して、進路を少しずらしただけです」
「それを、即席で?」
「基点が残っていましたから」
男は無言で壊れた石杭や地面の線を見回した。
その視線は、王都で何度も向けられてきた嘲りのものとは違った。理解しているわけではなくても、少なくとも“成果”として見ている目だ。
「領主代行!」
やせた男が駆け寄ってくる。
「巡回中にすみません、突然三匹も入り込みやがって……」
領主代行。
エレナはそこで、目の前の男が誰なのかを理解した。
――この人が。
「ルーク・アシュベル様、でいらっしゃいますか」
男――ルークはエレナを見た。
「ああ。お前は?」
「エレナ・フォルセと申します。本日付で旧ラドベル砦跡の管理を命じられ、王都から参りました」
その名を聞いた瞬間、周囲の空気が微かに変わった。
フォルセ伯爵家。王都。令嬢。いろいろ思うところはあるのだろう。
けれどルークは顔色一つ変えなかった。
「王都の貴族令嬢が、こんな場所に?」
「追いやられてきただけです」
自嘲でもなく、淡々と事実だけを述べる。
するとルークは数秒だけ黙り、やがて短く息を吐いた。
「事情は後で聞く」
彼の視線が、エレナの手元へ落ちる。炭で汚れた指、擦りむいた手の甲、そして地面に引かれた術式の線。
「それより」
わずかに言葉を切り、
「井戸も、お前がやったのか」
「応急処置ですが」
「……そうか」
その一言に、エレナは妙な緊張を覚えた。
今までこの手の反応の後に来るのは、たいてい「だが地味だ」「その程度で得意になるな」「そんなことより社交を学べ」だった。
けれどルークはそう言わなかった。
彼は井戸と、防壁の残光と、倒れた魔獣を順に見たあと、はっきりと告げた。
「なら、十分すぎるほど役に立っている」
エレナは目を瞬いた。
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
役に立っている。
その言葉はあまりにもまっすぐで、あまりにも簡潔で、だからこそ不意打ちのように胸に落ちた。
「……そう、でしょうか」
「そうだ」
ルークは即答した。
「少なくとも、今日だけで井戸を一つ戻し、集落を三匹の魔獣から守った。誰がどう見ても役に立ってる」
周囲にいた住民たちも、次々に頷き始める。
「本当に助かった」
「井戸の水、戻ったんだ」
「さっきの壁がなきゃ、食い破られてた」
「嬢様……いや、エレナ様、でしたか。本当に……」
口々に向けられる感謝に、エレナはうまく返す言葉を見つけられなかった。
王都では、理解されないことに慣れていた。
だから、理解されることにはもっと慣れていない。
「怪我人の手当てを優先しろ」
ルークが周囲へ指示を飛ばす。
「死骸は日が落ちる前に処理する。血の匂いが他の魔獣を呼ぶかもしれん。北の柵も仮でもいい、今夜のうちに塞げ」
「はい!」
住民たちが一斉に動き出した。
ルークはそこで再びエレナへ向き直る。
「お前も来い」
「……どちらへ?」
「砦跡の管理棟だ。泊まる場所くらいある。話を聞くのはその後だ」
口調は相変わらず素っ気ない。
だが、その中には“余所者だから放っておく”という冷たさがなかった。
エレナは小さく頷いた。
「わかりました」
一歩踏み出した瞬間、足元がふらつく。
魔力切れに近い。思った以上に無理をしたらしい。
倒れそうになったその腕を、ルークが素早く支えた。
「無茶をしたな」
「少しだけです」
「少しで済む顔色じゃない」
低い声が頭上から落ちる。
思ったより近い距離に、エレナはわずかに息を詰めた。ルークの手は剣を握る者のそれらしく固かったが、支え方は驚くほど丁寧だった。
「歩けるか」
「……はい」
「ならいい」
そう言って、彼はすぐに手を離す。
必要以上に触れない。その距離感が、なぜか少しだけ心地よかった。
王都の男たちは、エレナに興味がないか、あるいは値踏みするようにしか見なかったから。
管理棟へ向かう途中、夕暮れの光が痩せた土地を橙色に染めていた。
荒れた集落。崩れた柵。疲れ切った住民たち。けれどその中に、井戸の周りだけはかすかな活気が戻っている。子どもが水桶を覗き込み、大人たちが何度も中を確かめていた。
たった一つ井戸の水が戻っただけで、人の顔はこんなにも変わるのか。
エレナは胸の奥で、静かに息をついた。
王都で「地味で無価値」と笑われた研究が、この場所では確かに命に繋がっている。
それが、ほんの少しだけ、嬉しかった。
「旧ラドベルは終わりかけている」
前を歩いていたルークが、ふいに口を開いた。
「水は足りない。畑は痩せている。砦も半壊だ。人も足りない。正直、もう切り捨てるべきだという声もある」
エレナは黙って聞く。
「だが、今日お前が見せたものが本物なら、話は変わる」
ルークは振り返り、琥珀色の目でエレナを見た。
「エレナ・フォルセ。お前の研究は、この土地を救えるのか」
まっすぐな問いだった。
試すようでも、見下すようでもなく、ただ可能性を問う声音。
エレナは一瞬だけ立ち止まる。
王都では、一度もそんなふうに問われたことがなかった。できるかどうかを知ろうとされる前に、価値がないと決めつけられてきたから。
だからこそ、その問いは彼女の胸を打った。
できる、と即答したい。
だが、わからないことも多い。現地の地脈、資材、人手、季節。調べるべきことは山ほどある。
それでも。
「……救えるかどうかは、まだ断言できません」
エレナはゆっくり答えた。
「ですが、良くすることはできます」
ルークは何も言わない。
エレナは続けた。
「井戸も、防壁も、畑も、全部一度にとはいきません。でも一つずつなら直せます。ここに残っている術式の痕跡と、私の研究を合わせれば、今よりは必ず」
そこで言葉を切り、息を吸う。
「必ず、ましにできます」
沈黙が落ちる。
やがてルークは、ほんのわずかに口元を緩めた。
それは笑みと呼ぶにはあまりに小さな変化だったが、エレナには不思議とはっきり見えた。
「十分だ」
彼は言う。
「この土地に必要なのは、大言壮語する英雄じゃない。今よりましにできる人間だ」
その言葉に、エレナは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
管理棟の扉が見えてくる。
古びてはいるが、まだ使える石造りの建物だった。王都の屋敷とは比べものにならないほど質素で、壁には風雨の跡が刻まれている。
けれどエレナには、あの伯爵家の豪奢な屋敷より、ずっとましな場所に思えた。
扉の前でルークが足を止める。
「今夜は休め。話は明日だ」
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い」
ルークは短く言った。
「明日から働いてもらう。容赦はしない」
その言い方があまりに真面目で、エレナは思わず少しだけ目を丸くした。
それから、本当にわずかにだけ、笑った。
「望むところです」
ルークは一瞬だけ意外そうな顔をしたが、すぐに背を向ける。
「部屋は二階の端を使え。鍵はかかる」
それだけ言い残して、彼は怪我人たちの方へ戻っていった。
エレナはしばらくその背を見送る。
辺境伯代理ルーク・アシュベル。
まだ何も知らない。けれど少なくとも彼は、結果を見て言葉を選ぶ人間だ。それだけで、王都にいた頃よりずっと息がしやすい気がした。
管理棟の扉を開けようとして、ふと、背後から井戸の方を振り返る。
夕闇の中でも、井戸の周りにはまだ人が集まっていた。誰かが水を汲み、誰かが笑い、子どもが小さくはしゃいでいる。
たった半日前まで、誰も彼女を必要としていなかった。
けれど今、この土地では、確かに自分のしたことが残っている。
その事実だけで、胸の奥に小さな灯がともる。
もしかしたら。
ここなら私は、やり直せるのかもしれない。
王都で“地味で役立たず”と呼ばれたまま終わるのではなく、
本当に必要とされるものを、この手で作っていけるのかもしれない。
そう思った、そのときだった。
「ルーク様!」
切羽詰まった声が、再び外から響いた。
エレナが振り返る。
伝令らしい若い男が馬を飛ばして駆け込み、顔を青ざめさせて叫んだ。
「南の見張り台から報せです! 上流の取水門が壊されました! このままだと、明日には残りの水路まで止まります!」
集落の空気が、一瞬で凍った。
ようやく戻りかけたばかりの水。
それを支える水路が止まれば、この土地はまた干上がる。
ルークの視線が、ゆっくりとエレナへ向く。
エレナもまた、伝令の言葉の意味を頭の中で組み立てていた。
取水門。上流。既存水路。破損箇所の規模。必要な補修術式。
王都では誰にも価値を認められなかった知識が、再び胸の内で熱を帯びる。
今度の相手は、井戸ではなく水路。
そしてきっと、それはこの土地そのものの命綱だ。




