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婚約破棄された才女は、辺境で失われた魔法を復興する ――今さら「戻ってこい」と言われても、もう遅いです  作者: 赤枝しゅん


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第一話 地味で役立たずな伯爵令嬢


 華やかな音楽と笑い声に満ちた大広間で、エレナ・フォルセは一人だけ、場違いな人間のように立っていた。


 王城の舞踏会。


 磨き上げられた大理石の床には無数の灯りが映り込み、天井のシャンデリアは昼のように明るい。色とりどりのドレスをまとった令嬢たちは花のように咲き誇り、貴族の男たちは酒杯を傾けながら優雅に談笑している。


 その中で、エレナの薄青のドレスはあまりに地味だった。


 意匠は控えめで、宝石も少ない。艶やかに飾り立てた他の令嬢たちと比べれば、どうしたって見劣りする。


 けれどそれは、彼女が望んだ装いでもあった。


 目立ちたくない。注目を浴びたくない。誰かの記憶に残らないくらいがちょうどいい。


 そうして静かに、この夜も終わるはずだった。


「エレナ・フォルセ」


 不意に、大広間に低くよく通る声が響いた。


 ざわめきが止まる。


 楽団の演奏が途切れ、人々の視線が一斉に一人の男へ集まった。


 第二王子、アルベルト・レイ・グランシア。


 エレナの婚約者である男は、金糸を織り込んだ白の礼装に身を包み、堂々と赤絨毯の中央に立っていた。その隣には、桃色の豪奢なドレスをまとった令嬢が寄り添っている。


 ルシェラ・メイグリーン侯爵令嬢。


 最近、王都で急に彼女の名を耳にすることが増えた。明るく華やかで、誰とでも笑顔で話し、社交界の中心に立つことを恐れない娘だと聞く。


 アルベルト殿下は、エレナを真っすぐに見た。


 その目に、かつて一度でもあったはずの温度は、もうどこにもない。


「前へ出ろ」


 命令口調だった。


 エレナはわずかに息を止めたが、逆らうことはできなかった。広間の中央へ歩み出るたび、周囲の視線が肌に刺さる。


 何かがおかしい。


 けれど、どこがおかしいのかは、もう考えるまでもなかった。


 アルベルト殿下は、人々が見守る中で高らかに告げた。


「エレナ・フォルセ。私は、お前との婚約をここに破棄する」


 空気が、一瞬で凍りついた。


 ざわっ、と抑えきれないどよめきが広がる。


 エレナは瞬きを一つした。


 驚きがないわけではない。だが、まったく予想していなかったわけでもなかった。


 この数か月、殿下がこちらを見ることはほとんどなかった。面会も減り、手紙の返事も途絶えがちになっていた。代わりに聞こえてきたのは、ルシェラ嬢の名ばかり。


 だから、いつかこうなるのではないかとは思っていた。


 思っていた、けれど。


 王城の舞踏会で。これほど大勢の前で。見世物のように告げられるとは、考えていなかった。


「……理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」


 声は思ったよりも落ち着いていた。


 それが気に入らなかったのか、アルベルト殿下は眉をひそめた。


「理由だと? そのようなもの、言わせるまでもないだろう」


 わざとらしく肩をすくめる。


「お前はあまりにも地味だ。愛想もなければ華もない。王家に嫁ぐ者として相応しくない」


 広間のあちこちで、息を呑む音がした。


 エレナは黙っている。


「それだけではない。お前は長年、フォルセ伯爵家の書庫に籠もっては、得体の知れぬ研究ばかりしていたそうだな。社交もまともにこなさず、魔法の実技でも目立った成果を出せず、王家に何の益ももたらさない」


 殿下は隣のルシェラ嬢に目を向けた。


「その点、ルシェラは違う。明るく聡明で、誰からも慕われる。私の隣に立つにふさわしい女性だ」


 ルシェラ嬢は頬を染め、恥じらうように目を伏せた。だがその唇の端には、確かに勝ち誇った笑みが浮かんでいた。


 周囲の貴族たちは困惑しつつも、誰も口を挟まない。


 王子の機嫌を損ねたくないからだろう。


「……私の研究は」


 エレナは静かに言った。


「遊びではありません」


「ほう?」


「生活魔法の術式再構築です。古い魔法陣の欠損を補い、魔力効率を上げるための――」


「くだらん」


 言い終わる前に、アルベルト殿下は吐き捨てた。


「井戸だの土壌だの保温だの、そんな地味な魔法に何の価値がある? 王家に必要なのは国威を示す力だ。戦場を制し、他国を圧する華やかな魔法だ。泥臭い生活の工夫ではない」


 何人かの若い貴族たちが、殿下に追従するように笑った。


 地味。役立たず。書庫に籠もる変わり者。


 それが、王都でのエレナの評価だった。


 けれど、エレナは知っている。


 水路が一つ正しく動くだけで、どれほど多くの人が救われるか。土壌改良の魔法が一つあるだけで、飢える村がいくつ減るか。防壁の術式効率が少し上がるだけで、辺境の死者がどれほど減るか。


 目立たないことは、無価値ではない。


 誰もそれを理解しようとしなかっただけだ。


「エレナ」


 そのとき、低く重い声がした。


 振り向けば、フォルセ伯爵――実父がいた。


 厳格な顔。冷たい目。幼い頃から何度も見てきた、失望を含んだまなざし。


 父は一歩前へ出て、王子に恭しく頭を下げた。


「第二王子殿下のお気持ち、よくわかります。娘は幼い頃から愛想がなく、社交にも研究にも偏りすぎておりました。王家にご迷惑をおかけしたこと、父として深くお詫び申し上げます」


 大広間の空気がさらに冷えた気がした。


 エレナは、父を見た。


 庇ってくれとは思っていない。期待もしていない。


 だが、ここまであっさりと切り捨てられると、さすがに胸の奥がわずかに痛んだ。


「……お父様」


「黙りなさい」


 ぴしゃりと遮られる。


「お前はもう十分に恥を晒した。これ以上、家名を汚すな」


 その一言で、すべてが終わった。


 ああ、そうか。


 私は最初から、守られる側の人間ではなかったのだ。


 エレナはそう理解した。


 王子にとっても、家にとっても、自分はただ都合のよい駒だった。王家に嫁げば箔がつく。けれど華やかさもなく、思うように使えないとわかった瞬間、捨てられる。


 それだけの存在。


 アルベルト殿下は満足げに頷くと、最後の宣告を下した。


「フォルセ伯爵。エレナ嬢は王都には不要だ。辺境伯領のはずれ、旧ラドベル砦跡の管理に回せ。荒れ地の整理でもさせておけ。せめてそこでなら、少しは役に立つかもしれん」


 旧ラドベル砦跡。


 それがどんな場所か、エレナも知っていた。


 辺境伯領のさらに外れ。かつて砦が置かれていたが、魔獣被害と干ばつで人が離れ、今では半ば捨て置かれた土地。井戸は枯れ、畑は痩せ、冬は厳しく、盗賊まで出ると噂される場所だ。


 社交界から消すには、ちょうどいい場所なのだろう。


「承知いたしました」


 父は迷いなく答えた。


 その声音に、ためらいは一片もなかった。


 エレナは静かに目を伏せた。


 泣かなかった。


 泣けば、周囲は満足するだろう。惨めに取り乱せば、ようやくこの場の見世物として完成する。


 そんなものは、まっぴらだった。


「……かしこまりました」


 顔を上げ、エレナは深く一礼した。


「婚約破棄、謹んでお受けいたします」


 その言葉に、広間が再びざわめく。


 もっとすがると思っていたのだろう。醜く取り乱すと期待していたのかもしれない。


 だがエレナは、ただ淡々と続けた。


「私は王家にも、フォルセ家にも不要とのこと。でしたら、これ以上ここにいる理由はありません。辺境へ向かいます」


 アルベルト殿下の眉がぴくりと動いた。


 思ったよりあっさり引き下がることが、面白くなかったのだろう。


「負け惜しみか?」


「いいえ」


 エレナは首を横に振る。


「ただ、理解いたしました。私がここで必要とされていないことを」


 それだけ言って、もう何も付け加えなかった。


 沈黙が落ちる。


 やがてアルベルト殿下は鼻を鳴らし、ルシェラ嬢の腰を抱いた。


「ならば話は終わりだ。楽団、演奏を再開しろ」


 音楽が戻る。


 けれど、先ほどまでのような華やかさはなかった。人々は囁き合い、好奇の目を向け、それでもすぐに自分には関係のない出来事として処理していく。


 舞踏会は続く。


 王子の婚約破棄も、一人の令嬢の人生が終わったことも、夜が更ければ酒の席の話題に変わるだけだ。


 エレナはゆっくりと踵を返した。


 誰にも引き留められなかった。


     ◇


 翌朝、エレナはフォルセ伯爵家の自室で荷造りをしていた。


 持っていくものは少ない。


 衣服を数着。古びた外套。最低限の金。筆記具。そして、何より大切な研究ノート。


 棚いっぱいの書物は持ち出せない。だが、必要な術式の写しはほとんどノートにまとめてある。あれさえあれば、続きはできる。


「本当に、それだけでよろしいのですか」


 震える声でそう言ったのは、侍女のミアだった。


 年の近い彼女は、幼い頃からエレナの身の回りを世話してくれていた数少ない人間だ。今も目を赤くしながら、旅支度を手伝っている。


「十分よ」


「ですが、旧ラドベル砦跡なんて……あそこは人の住む場所ではないと」


「だからこそ、私が行くのでしょう」


 エレナは淡く笑った。


 うまく笑えているかはわからない。元々、表情を作るのは苦手だ。


 それでもミアを少しでも安心させたくて、口元を和らげる。


「心配しないで。私、ああいう場所のほうが性に合っているかもしれないわ」


「お嬢様……」


 ミアが泣きそうになっている。


 エレナは少しだけ視線を逸らした。


 本当は不安がないわけではない。むしろ、不安だらけだ。研究設備はない。人手もない。王都のように材料も揃わない。荒れ地の管理など、令嬢が簡単にできる仕事ではない。


 それでも――。


 ここに残るよりは、ましだと思った。


 もう誰にも期待されず、ただ失望の目を向けられ続けるこの家にいるよりは、ずっと。


「お父様とお母様には、もうご挨拶を?」


「不要だそうよ」


 今朝、執事からそう告げられた。


 伯爵も夫人も忙しい。見送りはしない。必要なものがあれば最低限用意する。それだけだ。


 最後まで見事なまでに簡潔だった。


「……っ、あんまりです」


「いいの。慣れているから」


 そう答えながら、エレナは胸の奥に小さな棘が刺さるのを感じた。


 慣れている。


 それは本当だ。期待しないことにも、何かを諦めることにも。


 けれど、慣れているから平気というわけではないらしい。


 痛みがゼロになる日は、ついに来なかった。


 荷造りを終え、馬車へ向かう時間になる。


 屋敷の玄関前には、みすぼらしい旅用馬車が一台だけ用意されていた。伯爵令嬢の移動にしては、あまりにも簡素だ。


 だが、それが今の自分の価値なのだろう。


「お嬢様、どうかご無事で」


 ミアがとうとう泣き出した。


 エレナは少し迷ってから、そっと彼女の手に小さな鍵を握らせる。


「書庫の奥、三段目の引き出しに、整理途中のノートがあるの。もし処分されそうになったら、隠しておいてくれる?」


「お嬢様……はい、必ず」


「ありがとう」


 エレナは馬車に乗り込んだ。


 御者が鞭を鳴らし、車輪が石畳を軋ませる。


 窓の外で、フォルセ伯爵家の屋敷が少しずつ遠ざかっていった。


 生まれ育った家。


 けれど、一度も安らげた場所ではなかった。


 見えなくなったところで、エレナは膝の上の研究ノートをそっと撫でた。


 革表紙の擦り切れた感触が、妙に心を落ち着かせる。


 これだけは、自分を裏切らない。


 魔法陣は嘘をつかない。術式は正しく組めば、正しく応える。人の顔色を窺う必要も、曖昧な悪意に怯える必要もない。


 だからエレナは、研究が好きだった。


 人とうまく話せなくても、魔法陣ならわかる気がした。


「……旧ラドベル砦跡、か」


 呟いて、ノートを開く。


 乾燥地帯における簡易給水術式。防壁補修用の術式変換。痩せた土地への魔力循環補助。どれも王都では「地味」の一言で片づけられた研究だ。


 だが辺境なら、違うかもしれない。


 水一つ。壁一つ。暖を取る術式一つ。


 そんな当たり前が、命を左右する土地かもしれないのだから。


 そう考えたとき、不思議と胸の奥に小さな火が灯った。


 もし、本当にそうなら。


 もしあの土地で、この研究が役に立つのなら。


 私は、ようやく証明できるのではないか。


 自分の積み重ねてきたものが、無価値ではなかったと。


     ◇


 三日後。


 旧ラドベル砦跡への道は、想像以上にひどかった。


 舗装は途中で途切れ、道はぬかるみと石だらけになり、風は乾いて冷たい。見渡す限り痩せた土地が広がり、草木はまばらで、ところどころに崩れた石積みの跡が見える。


 御者は露骨に不機嫌だった。


「本当にこんな場所に人がいるんですかね」


「いると聞いています」


「信じられねえな……」


 その言葉どおりだった。


 ようやく見えてきた集落は、村と呼ぶのもためらわれるほど小さく、疲れ切っていた。


 木柵は崩れ、家々の壁はひび割れ、畑は茶色く乾いている。風に乗って土埃が舞い、井戸の周りにはひび割れた地面が広がっていた。


 馬車が止まると、やせた男が一人、警戒した顔で近づいてくる。


「……誰だ」


「王都から参りました。エレナ・フォルセと申します。今日からこの旧ラドベル砦跡の管理を命じられています」


 男は一瞬、呆れたような顔をした。


「管理?」


 その後ろから、老婆や子どもたちも顔を出す。みな一様に疲弊していた。


「……冗談だろう」


「本気です」


 エレナがそう言うと、男は頭を掻いた。


「悪いが、歓迎のしようもねえ。見ての通りだ。井戸は三つのうち二つが死んで、残り一つも水量が減ってる。畑は痩せて豆すらまともに育たねえ。冬越しの備えも足りない。砦の防壁も半分崩れたままだ」


「領主代行の方は?」


「いるにはいる。だが今は巡回に出てる。魔獣が出たんでな」


 男はそこで、ようやくエレナの服装を見た。令嬢らしい外套と、白い手袋。場違いなほど綺麗な靴。


「……あんた、王都のお嬢様だろ。無理だ。ここはそういうとこじゃねえ」


 責める声ではなかった。


 ただ、現実を教えるような声音だった。


 それでもエレナは、井戸の方へ目を向けた。


 石組み。縁のひび。地面の乾き。魔力の流れの弱さ。


 視界に入った情報が、自然に頭の中で組み上がっていく。


「見せていただけますか」


「は?」


「井戸です」


 男は困惑しながらも、エレナを井戸の前へ案内した。


 覗き込む。深い。だが完全に枯れているわけではない。底にわずかに水はある。問題は、水脈そのものよりも、周辺に組まれていた簡易循環術式の欠損だ。


 昔は誰かが管理していたのだろう。石積みの内側に、消えかけた刻印が見える。


 これなら。


 エレナの指先が、無意識に石の縁をなぞっていた。


「炭と塩、それから細い鉄釘はありますか」


「……は?」


「なければ代用品でも構いません。黒焼きにした木片でも。あと、水桶を一つ」


「お、おい、何をする気だ」


「井戸を直します」


 言った瞬間、集まっていた人々が息を呑んだ。


 次いで、誰かが乾いた笑い声を漏らす。


「嬢ちゃん、無茶言うなよ。こいつは何年も前から――」


「完全には死んでいません」


 エレナは井戸から目を離さずに言った。


「術式が切れているだけです。水脈との接続が弱っています。補助線を引き直せば、少なくとも今よりは戻るはずです」


 誰も、意味を理解していない顔だった。


 それでも構わなかった。


 どうせ王都でも、誰一人理解してはくれなかったのだから。


「材料をお願いします」


 しばしの沈黙のあと、男は半信半疑のまま仲間に声を飛ばした。


「……持ってこい。どうせ今以上に悪くなりゃしねえ」


 やがて炭片、塩、釘、水桶が集められる。


 エレナは手袋を外し、石畳の上に膝をついた。


 白い指先で、乾いた地面に術式を書き始める。


 円環。補助線。接続点。古い刻印と噛み合うように、失われた部分を補っていく。炭で線を引き、塩で魔力の流れを安定させ、釘で固定する。


 王都では何度も繰り返した作業だ。


 ただ一つ違うのは、今ここには、これが本当に必要な人たちがいるということ。


 最後の一線を引き終え、エレナは井戸の縁に手を置いた。


「――接続、開始」


 静かに魔力を流し込む。


 一瞬、何も起きないように見えた。


 次の瞬間。


 井戸の底から、ごぽ、と鈍い音がした。


 集まっていた人々がざわめく。


 ごぽ、ごぼ、ごぼっ――。


 乾いていた井戸の底で、水が脈打つ音が響き始めた。


「な……」


 男が目を見開く。


 やがて、水桶を下ろした若者が震える声を上げた。


「上がる……! 水が、さっきより増えてる!」


 集落中がどよめきに包まれる。


 子どもが井戸の縁に駆け寄り、老婆が口元を押さえて立ち尽くす。先ほどまで疑いと諦めしかなかった目が、一斉にエレナを見た。


 エレナはその視線を受けて、少しだけ息を吐いた。


 成功した。


 完全復旧ではない。応急処置だ。だが確かに、水は戻り始めている。


「今日はこれが限界です」


 立ち上がりながら言う。


「本格的に直すには周囲の地脈も見ないといけません。でも、これで数日は持つはずです」


 誰もすぐには言葉を返せなかった。


 やがて、さっきの男がゆっくりと口を開く。


「あんた……本当に、何者だ」


 エレナは答えに少し迷った。


 伯爵令嬢。婚約破棄された女。王都から追いやられた役立たず。


 どれも事実だ。だが今この場で名乗るには、どれもしっくりこなかった。


「エレナ・フォルセです」


 結局、ただそれだけを告げる。


「今日から、ここを立て直しに来ました」


 風が吹いた。


 乾いた空気の中に、かすかに湿り気が混じっている気がした。


 井戸の水が戻ったからか。それとも、ようやくこの土地に希望の匂いが生まれたからか。


 そのときだった。


 集落の入口の方から、馬のいななきと荒い足音が響いた。


「魔獣だ!」


 誰かが叫ぶ。


「北の柵が破られたぞ!」


 人々の顔色が一斉に変わる。悲鳴。怒号。泣き出す子ども。


 そして土煙の向こうから現れたのは、黒い毛並みの狼型魔獣だった。普通の獣より一回り大きく、赤い目をぎらつかせ、壊れた柵の隙間からこちらへ駆けてくる。


「っ……!」


 エレナは息を呑んだ。


 王都で戦闘魔法を得意としなかった自分に、あれを倒せるだけの火力はない。


 だが。


 彼女の視線は、崩れかけた木柵と、その根元に埋まる古い石杭を捉えていた。


 あれはただの柵じゃない。


 昔、防壁術式の支点として使われていた跡だ。


 つまり、つなげられる。


「みんな、下がって!」


 エレナは叫び、咄嗟に井戸修復に使った炭片を掴んだ。


 王都では誰にも価値を認められなかった地味な研究が、今まさに試されようとしていた。


 彼女は地面へ駆け出しながら、震える指先で新たな術式を描き始める。


 この土地で、本当に自分の力が必要とされるのなら。


 私は、今度こそ――。


 誰にも笑わせない。



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