番外編 ~中島 政義~ 後編
数年が経ち、大学卒業後の進路を考え始める頃、私は輝幸を呼び出した。
以前から想定していた私の会社への入社を伝えるためだ。
「卒業後のことだが、私の会社に来なさい。部署は考えてある。」
これまで、息子は私の決定に逆らったことはない。
また、一流商社への入社を断る理由もない。
私は当然のことのように、そう考えていた。
そんな私に輝幸は言った。
「行きません。お笑い芸人になります。」
私は、一瞬理解できなかった。
“何を言っているんだ?”
“何かの冗談か?”
しかし、輝幸の表情から間違いや冗談でないことを悟った。
“お笑い芸人?”
“そんな不確かな職業を、息子が?”
反射的に怒りが湧いた。
そしてその後に続いて、別の感情があらわれた。
―――恐怖だ。
息子がまた、挫折する恐怖。
落ちぶれて、貧しい人生を送る恐怖。
恐怖に突き動かされ、私は厳しい言葉を輝幸に散々浴びせた。
「何をやっても中途半端なお前に、そんな世界でやっていけるはずがない。」
きつく言い放った私に、輝幸はこう言った。
「三年ください。」
その声は、大学受験のときの声とは違った。
震えているが、折れていない。
私は驚いた。
”輝幸は、今、私に対する恐怖と闘いながら、初めて自分を通そうとしているんだ”
少し落ち着きを取り戻した私は、
しばらくの間、黙って頭の中で現実的な着地点を探した。
“今の輝幸を見ると、仮にこの口論を続けて、無理やり私の会社に入れることに成功したとしても、輝幸が私の会社で前向きに働く未来は永遠に来ないだろう。一方で、芸能界も厳しい世界だと聞く。親の私の目から見ても社交的に見えない輝幸が、芸人として成功できるはずはない。そして、輝幸が挫折したあと、自分の会社なら、例え3年後であっても捻じ込んでやれる。それからでも輝幸に人並み以上の生活をさせてやることはできるだろう。むしろ、芽が出てもいないのに、ダラダラと芸人を続けることの方がリスクだ。輝幸から3年の言質を取った今、妥協すべきだ”
そう自分の中で折り合いをつけ、輝幸の言う通り三年の猶予を与えることにした。
約束の3年が近付いたころ、私はTVのニュース番組の片隅で息子の名前を見た。
「キングオブマンザイ、決勝進出」
まさか、と思った。
一緒にダイニングでTVを見ていた妻が、
「輝幸、すごいじゃない。」
と私に言った。
私は平静を装って、
「たまたまだ。決勝に出ただけでは認められん。」
と返した。
だが、私はその夜、眠れなかった。
見たこともないのに、息子が舞台に立っている映像が、勝手に頭の中で再生された。
そして、胸の奥が、妙にざわついた。
決勝の放送が始まる日、私は朝から仕事が手に付かなかった。
放送開始時間が近づき、私は自室で一人テレビをつけた。
誰にも言わなかった。
妻にも言わなかった。
画面の中の息子を見て、私は衝撃で動けなかった。
画面の中の息子は、まるで別人のようだった。
知らない衣装。
そして、知らない表情。
高校に入って、いつも自信なさそうにしていた表情とは違い、経験と自信がうかがえる。
その表情を見て、私は、輝幸が自分の力で困難に打ち勝ち、何かを掴んだことを知った。
そして、それを喜ぶ気持ちが沸き上がってきた後、息子が自分の元にはもう戻ってこないことを悟った。
全ての漫才が終わり、総合順位が発表された。
しかし、“点数”や“順位”は、今の私にはどうでもよいもののように映った。
一週間後、輝幸が家に報告に来た。
顔には疲れが滲んでいた。
だが、以前のように虚ろではなかった。
輝幸は、私の目を見た。
それだけで、私は胸の奥が痛んだ。
輝幸は言った。
「もうすぐ約束の3年だ。優勝はできなかったけど、漫才の日本一を決める大会で2位になった。それで、俺が漫才をやることを認めてほしい。」
返事の代わりに私は聞いた。
「‥‥‥‥‥お前はお笑いが、好きなのか?」
私の中の小さい頃の輝幸と、お笑いがどうしても結びつかなかったのだ。
輝幸は驚いた顔をした。
私が輝幸の“順位”ではなく、“好き”かどうかを気にしたことが、意外だったのだろう。
しかし、輝幸はすぐに真剣な表情になり、こう答えた。
「最初は正直、分からなかったけど、今ははっきり言える。俺はお笑いが好きだよ。」
「そうか‥‥なら、好きにしなさい。お前は約束通り“結果”を出したんだから。」
輝幸は、驚いた顔をした後、
「ありがとう。」
と言って、無邪気な笑顔を私に向けた。
久しぶりに自分に向けられた笑顔を見て、胸が苦しくなった。
そして、小さい頃の輝幸の笑顔が脳裏に蘇ってきた。
“私は、輝幸のこんな笑顔を守りたくて、教育を始めたはずだったのに、どこで間違ってしまったんだろう”
ふと気づくと、輝幸が不思議そうな表情で私の顔を見ていた。
私は取り繕うように聞いた。
「しかし、思い切ったことをしたものだな。お笑いを選んだことも、そして事務所を自分たちで立ち上げたことも。」
「そうだね。正直、成り行きもある‥‥でも、心の底では、自分を変えるきっかけにしたかったんだと思う。」
「‥‥」
「俺たちのコンビ名、“アペリオ”って言うんだ。俺が提案した。ラテン語で、意味は、“新しい可能性や扉を開く”って意味なんだ。」
「そうか‥‥‥お前は間違いなく変わったよ。目を見れば分かる。」
「そうかな?そうだといいけど。」
輝幸は、嬉しそうに言った。
「そろそろ帰る」と言って帰り支度を始めた輝幸をボーっと眺めながら、私はまた、思考の海に沈んだ。
その中で私は、自分が息子に与えられなかったものを数えた。
愛情。肯定。安心。
数えれば数えるほど、胸が痛んだ。
そして、輝幸が自分の力で手にした物を数えた。
心血を注げる世界。仲間。そして、芸人としての能力。
“大切なものは、全て輝幸が自分で見つけたのだ。
私はいったい何をしてきたんだろうか”
帰り際に玄関の扉に手をかけた輝幸が、振り返り、
「そういえば、俺に小さい頃から沢山本を読ませてくれてありがとう。みんなが、今の俺の表現力はそのおかげだって言ってるよ。」
と言って、笑った。
思いもよらない言葉をもらい、胸がギュッとした。
「・・・そうか。」
私は何とか言葉を絞り出した。
―――その一言で、少し、救われた気がした。
一章はこれで終わりです。しばらくお休みをいただきます。ここまでお付き合いありがとうございました。




