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グラン・デパール

「じゃ、行ってくるわね。」


 私はマイヤーとセバスにそう告げた。


「行ってらっしゃいませ。」

「リル様がいつ戻られてもよいよう、お待ちしております。」


 次に戻るのは、また同じ形の月が昇るころだろうか。

 そんなおおまかな予想で出発する。


 ガン・イシュは、天空の台地と呼ばれる山の上にある。

 台地の西側には巨大な円形の陥没があり、その縦穴の奥に水平に広がる洞窟に、ガン・イシュの中心的な集落はあった。

 逃亡旅団が石の家を建ててできた集落は、この縦穴の周囲にある。


「おや、もう行かれるのでありんすか。」

「おはよう、紫露。」


 紫露が家の外で待っていた。

 いつもの艶やかな衣装ではなく、工房で作られた、肌に貼り付くような走りやすい服装だった。

 腰に布を巻いてひらひらさせているあたりに、帯代わりのこだわりがみえる。

 紫露はなにやら、周りを気にしている様子だった。


「どうしたの?」

「花摘みに行ってしもうた子が何人もおりんして。」


 付いてくるつもりの子たちの誰かのことだろう。

 紫露は、最後尾を付いて来るのだ。


「心配しなくても、走り出しは揃えるわ。」

「やはり、走り出しは、なのでありんすか。」


 あの紫露が、苦笑いを浮かべている。


 天空の台地は、周囲が全て断崖絶壁で囲まれており、イシュの民の足で一周するには、月の満ち欠けが一巡りする。


 やっぱり私はお母様の娘だ。

 毎朝走っているうちに、そんな風に思ったことがあった。

 縦穴の周囲を走る日課には、多くの若いイシュの民たちが付いてきた。

 今日からの旅に同行する子たちだ。

 イシュの民たちは力こそ強いのだが、私が長く走り続けると脱落していくのだ。


「私、次の集合場所までにする。会えなくなっちゃうけど、無理はしないんだ。」


 ヴィクトリアの子のルイーズだった。

 個人差はあるものの、毛皮で覆われた身体は熱がたまりやすいのだろう。

 身体を冷ます汗の量も、それぞれ極端に違う。

 汗をかきにくい子たちは、舌を出して呼吸が荒くなり、真っ先に脱落する。

 ルイーズなんかがその代表例だった。


「アリスは一周付いてく。基本、紫露の速さで。」


 ルイーズの姉、アリスだ。

 姉妹でありながら、毛皮も少ないし、汗もかく。

 手足が蹄じゃないのも、母子の中ではアリスだけだった。

 アリスは速い方なのだが、初めての台地一周ということで、完走を優先させるようだ。


 こんくらいを示すという譲り合いの方法を、せっかくみんなで考えたというのに、発祥であるこの行列においては、完全に見なくなってしまった。

 気の持ちようが変わったあたりから、私の走りから遠慮が消えてしまったせいでもある。


「よし、明日から本気出す!だから今日は、みんなで順番を決めなさいな。」

「そんなこと言って、最後は急に速くなるんでしょ?」

「それはそうね。私は私のために走るのだもの。」


 そもそも、毎朝走るのは健やかに生きるためなのだ。

 こつこつ続けた結果、イシュの民の幼体が全力疾走する程度の速さで、長時間走れるようになっていた。


 天空の台地は、とても綺麗な秘境だった。

 到着したころに、なぜ何も感じなかったのか不思議なくらい。

 走るたびに変化があるため、定期的に天空の台地を一周するようになったのだ。

 秘境の景色や香りは、走ることに健やかさを超えた、癒しを与えてくれている気がする。


 最初の頃は、混乱が残る頭を整理する目的もあった。

 だから、列が千切れても気にしなかった。

 昼前に中継地点に到着すると、遅い子で一日掛けて追い付いてきていた。

 そして中継地点ごとに、列の顔触れは変わった。

 それを見て、一時は速度を落としていたのだが。


「最近の主さんは、とみに容赦がないでござりんす。」


 紫露だけは毎回、最初から最後まで、強制参加なのだ。

 天空の台地には、大型肉食獣はいないし、私以外の人間もいないから、賊もいない。

 これまで一番脅威を感じたのは、初飛行のときのプテラケファルスだ。

 とはいえプテラケファルスは、熟練の飛行具乗りが餌付けしてきたせいで寄って来るだけで、危険はないのだという。

 それでも紫露は、私の護衛という名目を、律儀に守ってくれている。


「最近の紫露は、人気者よね。」

「列があるのは、紫露の前でありんす。」


 紫露は、私の言葉に対し、否定ともとれるような短い言葉を重ねた。

 表情に変化はないというのに、それがかえって紫露のあり様を表しているようで、私は一瞬、言葉を失った。

 拒絶というほどでもないような、拒絶。

 レンやカイが語る青臭い理想から、一歩下がってただ見ていただけの頃の自分。

 つまり、瑠璃に支配される前の自分と、妙に重なったのだ。


「紫露が待ってくれるから、私、寂しくないよ!」


 気まずい沈黙には、ならなかった。

 こんくらいを示した両腕を、一気に狭めながら紫露の隣へ来るルイーズ。

 それが何を意味するかわからない私たちではなかった。


「私より、やっぱり紫露と一緒がいいって。」


 言いながら、少しだけ口角が上がっているのを自覚した。


「……か、勘弁してくださんし。」


 視線を逸らし、肘を抱えて目を逸らす。

 それから、縮こまるように竦めた肩を、すとんと落とし、少しだけ下を向いた。


「紫露には荷が重うござりんす……」

「本気で言ってそうだから、本気で怒るね。」


 ルイーズを追うように、アリスが寄ってくる。

 今回の台地一周では、全力で紫露を頼ると公言したアリス。

 それは、全幅の信頼を寄せていると言っているようなもの。

 そのアリスが、腕を組んで肩を怒らせ、不機嫌な顔を作る。

 紫露は言葉に詰まり、アリスからも視線を逸らす。

 逸らした先は、少し上向きだった。


「そんなあなたが後ろから来てくれるとわかっているから、私は好き勝手に走れるのよ。感謝しているわ。」


 私はそう言って、もう振り返らなかった。

 言葉を重ねれば、きっと紫露はまた一歩引いてしまう。

 だから代わりに、足先で地面を蹴る。


「ほらみんな、行くわよ。」


 速度を上げる。

 列が自然と伸び、間が空き、それでも最後尾が崩れないことを、私は知っている。


 後ろに紫露がいるというだけで、十分だった。


「あー、もう!本気出すのは明日からって言ったじゃない!」


 さっき見せた怒りが偽物だとはっきりわかるくらい、アリスがぷんすかしている。

 少し、調子に乗り過ぎてしまったみたい。


「そうだったわね。怒られてしまったわ、紫露。」

「知らんでありんす。」


 その場で足踏みしていると、紫露が澄まし顔で私を追い越して行った。

 その速度はひどくゆっくりで、時々ルイーズの様子を気にしている。

 紫露の走りは私とは違う。


 今日の最後尾は私かな。

 紫露の周りに集まる列を見ながら、私はゆっくりと歩き出した。


 今日だけ歩く。

 明日からはきっと、付いて来られない子がいる。

 私の周りに集まった子たちは、真っ直ぐには走らず、全力で喜びを表現するようにはしゃぎ回る。

 何がそんなに楽しいのか、つられてはしゃぐ気にはならないが、私は嬉しくなっている。


 だから、今日は歩くのだ。

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