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セットアップガイド

 西に見下ろす広い海。

 そこから昇ってくる空気が、ガン・イシュを潤していた。

 ガン・イシュは、イシュの民にとって、豊かな水の都だった。


「温かいお湯でも流れているのかしらね。」

「あれは海でございます。決して温かいなどということもなく。」


 しゃんとして答えるマイヤー。

 幼い頃から私の身の回りのことを色々やってくれて、令嬢としての作法や、危ないことをそれとなく諌めるといった役割を担ってくれていたイシュの民だ。


「でしょうね。でも、毎朝ガン・イシュに水を運んでくれるわ。テルマエの湯気のように。」

「なるほど、そういうことでございますか。確かに、冬を跨いで北に移動したわりに、ここらは暖かくございます。」


 外壁の街でさえ冬には雪が積もる。

 山脈を避け、拓けた場所も避け、ときには雪に降られながらも移動して来た。

 王国の聖女になんかなったせいで、念のため教国も迂回した。

 辺境伯領を連合側に抜け、侯国を通って海運国へ入り、公国の海を右手に西に進み、ガン・イシュ入りした。

 私の混乱は、日に日にひどくなって行き、黙り込むことも多かった。

 あの反乱の記憶も引きずっていた。

 逃げ出した日から一年の半分くらい経った今、ようやく頭の整理がついた感じだ。


「心配掛けたわね。」

「仕方のないことでございます。ですが、動き出すと言うのであれば、立ち上がるお手伝いくらいはさせていただきますわ。」

「やっぱりマイヤーは、私のことを良く見てくれているわ。」

「もったいないお言葉。私は好きでリル様にお仕えしているのです。なんなりとお申し付けください。」


 突然権力を持った者が、その土地の慣習も何も知ろうともせずに、そこにある調和をぶち壊す。

 当主制をとるところではよく聞く話。

 鳥獣憐みの令なんて、まさにそれじゃない。


 でも、悪いことばかりではないわ。

 ここではイシュの民たちが笑ってる。


「さっそくだけど、手伝ってもらうわ。」

「おや、腕が鳴りますね。」

「怒れないイシュの民たちの中に、私が連れ込んだ、怒れるイシュの民たちが合流した。問題が起きているわ。」


 混乱に呆けていても、動いてなかったわけじゃない。

 瑠璃は、健康のためには運動!なんて言って、令嬢らしからぬ日課をこなしていたものだ。

 私がガン・イシュの中を走ると、若い子たちが入り乱れて付いて来る。

 決まって先頭集団は、逃亡旅団のみんな。

 その後に遠慮するように、原住のイシュの民たち。


「怒りのあるなしで、順番ができてしまっているような気がするの。」


 イシュの民たちは、見た目が大人でも、まだまだ幼いことが多い。

 奴隷候補になるような子どもたちは、若い子ばかりだった。

 兵や奴隷として鞭を受けていたイシュの民たちは、孤児院に残って。


 イシュの民たちは、譲り合いの喧嘩などというべき静かな争いをする。

 僕より、私より。

 そんな風に相手を優先するような議論をするのだ。

 そこに私が、怒れる未熟なイシュの民たちを連れて来てしまった。

 みんなは譲られた席に、ぽんと座ってしまうのだ。

 怒れることで、少しだけ自己主張が強く出るのかもしれない。

 離れた位置から付いて来る子たちはいつも、しょうがないよと悲しそうな顔をしているのだ。


「法が必要だわ。」

「主さんが、何やら面白いことを始めようとしておりんす。」

「あら、紫露。いいところに来たわね。譲った回数を覚えておくようにしたいのだけど、どうかしら。」


 イシュの民には、まだ狡さが見られない。

 これは、怒りの欠けた集団の中で培われた美徳かもしれない。

 我慢が見えるようになれば変わるんじゃないかと思った。


「そうでありんすな。残念が積もって諦めになりんして、無気力になる前に、手を打ちとうござりんす。ただここは、一人でお考えにならず、皆を集めるべきかと。」


 ◆


「私もリル先生の近くで走りたかった。」


 話し合いは、そんな風に始まった。


「何で私の近くがいいの?」

「だって、リル先生、カッコいいから。」


 なんだか背中がむずむずする。

 少しだけ、調子に乗った。


「いつも前にいるみんなはどう?前じゃなくなると、困ることがあるかしら?」

「え、いつも気が付いたら前にいるから。」

「そうそう、譲ってくれるからさ。」

「走ってるときは、リル先生とお話できるわけじゃないし、どこでも困らないよね。」

「そ、そうなのね。」


 伸びかけた鼻は、あっさりと折れた。

 でも、問題がはっきりしたわね。


「みんなも孤児院にいた頃は、譲り合いをしてたわね。わいわい言い合って、一番行きたそうな子が選ばれてた。今は、旅団のみんなばかりが前になっているようね。」


 単に流れを整理しただけのつもりだった。


「私、悪くないもん!」


 そう主張するのはまだ背中に幼さ(白斑)の残るルイーズ。


「ルイーズは上手に怒れるみたいね。じゃあ、どうしたらいいか、一緒に考えましょうか。」


 責めてないよとなだめるような気持ちで話を続ける。

 ここに向かいながら成体となっていったルイーズは、孤児院で譲り合いの喧嘩をした経験もなく、先天的な例外種とほとんど変わりがない立場だ。


「ここのみんなはね、ルイーズが今そうしたように、上手には怒れないの。」


 私は、再び整理して説明を始めた。


 ◆


「ちょっと私の昔話を聞いてね。」


 私はみんなの注目を集める。


「私は昔、やる前から結果を決めつけて、動こうとしなかったわ。諦めちゃってたの。でもね、動いてみたら、予想とは少しだけ違った結果が出てきた。予想した通りの結果の方も起こっちゃったんだけど、予想とは違った結果がくれたものも、とても大事なことだったわ。」


 鳥獣憐みの令のことを思い出す。


「それは、悪い結果に隠れて見えにくいかもしれない。」


 瑠璃がいたとはいえ、私が主導して動かしたのだ。

 その結果は受け止めなければならない。


「それは、人によっては大事なことじゃないかもしれない。」


 一度、みんなの顔を見る。

 気性の穏やかなイシュの民は、特別な理由なんてなくても、もしかしたら誰でも慕うのかもしれない。


「それでも私にとってみんなとの縁は、とっても大事なものなの。」


 それでも私にとっては、全部ひっくるめての、今だ。


「だから、その中でおかしなことは起こって欲しくないわ。だから、決まりごとを作りましょう。みんなが笑っていられるように。」

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