尾
「撒く?」
噴水の上を横切る水道橋に、広場からするすると登っている狐の獣人が見えた。
あたしは橋脚を這い上がってそいつに話し掛けていた。
「隠し立てしていたつもりはなかったが、そうか。見てのとおり、水路の、点検だ。」
尻尾を掴んだような気でいたあたしに対し、結果的に撒いたことになっただけだという言い分だった。
レン坊っちゃんとカイが橙に目を付けたのは、いち早く目的を持って動き出していたからだ。
外壁の外側の民衆も動き出しているが、そっちは動機と行動を結びつけやすい。
「なんで、そんなことするんだい?」
対して橙たちの行動は、目的や動機がわからない。
「ふむ、点検の目的か。ちゃんと使えるかどうか、見て回って、直すところを、まとめるため、だな。」
さっきから、真面目過ぎるほど真面目に装いつつ、抱える肘の角度や顎の向きを調整する様が、あたしの中で本題とは無関係の怒りを立ち上がらせる。
目的についてはそりゃそうだ。納得なんだが。
「なんでそれが、今なんだい?」
「そりゃ、悪用、されたからさ。僕たちの、楽園がね。」
紫露が言っていたことを信じるならば、この街は創られた楽園。
造った者たちの末裔が紫露であり、こいつはその紫露の分け身だという。
「にゃ。」
背後から、聞き慣れない声がした。上半身を捻り、猫の獣人がいることに気付いた。
「おや、これは驚いたね。全く気付かなかったよ。あたしに用かい?」
ここは水道橋の上。人間は簡単には登れない高低差のある中央広場上空だ。
やはりイシュの民であれば問題なく登れるようだ。
「あたしって何にゃ?」
予想外の部分への疑問を投げ掛ける猫の獣人。
「あたしってのは、自分のこと話すときに使うんだ。あたしはメレナ。あたしの名前はメレナだっていう風に自己紹介でも使えるね。」
わかりやすくゆっくりと手振りを加え、あたしの紹介をする。
「にゃるほど。なら許してやるにゃ。あたしはカールにゃ!」
覚えたての一人称で自己紹介を返すカール。
ついでに思いがけず何かに許されたようだが。
「とっても素敵な、語尾だね。よろしく、カール。僕は、イシスだ。」
片足を引いて敬礼しながら、橙の一人、狐の獣人イシスが自己紹介をする。
さて、これはいよいよ確信だろう。
あたしはどうやら、橙たちの所作、何よりいちいち刻む話し方が生理的に受け入れられないらしい。
イライラした気分が尻尾の先端を左右に揺らすのが分かった。
「にゃにゃにゃにゃっ!」
カールが突然、興奮し出す。
あたしの尻尾をはたき落とすように拳を繰り出し、尻尾が真っ直ぐになっていく。
ピンと張られた尻尾は、二本あった。
「おやおや、どうやら、メレナの尻尾を、気に入ったらしいね。」
「にゃはは。すごいにゃ。めちゃくちゃ速いのにゃ。目が離せなくなっちゃうのにゃ。」
一応、あたしにとっちゃ、威嚇行動なんだが。
どうやら怒りの感情では、不安や恐怖なんかよりも揺れるらしい。
◆
「メレにゃ。」
「メレナ。」
「メレにゃ。」
あたしのことを、カールはどうしてもメレにゃと呼ぶ。
舌が勝手にそう転がるのか、わざとなのか、判別がつかない。
「にゃるほど。わざとじゃないみたいだね。」
「メレにゃがにゃって言ったにゃ。」
「おや、つられちまったね。」
「あたしが名付け親にゃ。メレにゃなのにゃ。」
「まあそのくらいの違いなら、好きに呼びな。で、カール。今までどこにいたんだい?」
逃亡旅団にカールはいなかった。かといって誰かの元へ帰る気配もなく、あたしの影を踏むみたいについて来る。
「水結晶に喧嘩売ってたにゃ。」
とんでもない答えだ。
「どういうことだい?」
「あたしは水が嫌いにゃ。でも水結晶は好きだったにゃ。今は嫌いにゃ。」
「可愛さ余って憎さ百倍、ってやつかい。」
「違うにゃ。前がおかしかったのにゃ。絶対にあいつが何かしてたにゃ。」
「あいつ、ってのは水結晶のことだね。」
「そうにゃ。証拠があるにゃ。おかしかったって気付いたあと、水結晶が無くなってたにゃ。」
胸の内の一拍分だけ、呼吸がずれた。
「知らない感情が湧き上がってきたにゃ。」
「水結晶が無いことに怒ったのかい?」
「そうにゃ。怒りにゃ。嫌いにゃ水に引き寄せる魔法が掛けられてたにゃ。あたしは濡れるのが嫌いなのに、ずっとそこに戻ってたにゃ。」
カールの目が、水路に流れる水を見下すように細くなる。
ひげがぴんと張る。
自分が上だとでも言うかのように。
「居心地が良かったのは、嘘だったのかい?」
あたしも、あの日までは水結晶に強い心地良さを感じていた。
それは、嘘じゃない。
暖かさはまだ感じるものの、今はその感覚が和らいでいる。
「そんなことないにゃ。」
「水結晶が消えて、壁に穴が開いて、居心地の良い棲み処がなくなった。」
「そうにゃ。だからあたしの毛は逆立ったにゃ。」
怒る理由があって、怒れるようになった。
それも、あたしと同じ。
「ここは、イシュの民が作った楽園だったそうだ。居心地の良い棲み処だったのさ。」
「最近はみんな、いい顔してたにゃ。猫だって人間に殺されなくなったにゃ。」
「カール。居心地が良かったのは、嘘じゃないんだろう?」
あたしゃ、イシュの民だからね。怒れないのさ。
まだ怒れないとき、そう言うと人間の怒りを中和できたことがあった。
あれはきっと、怒りの矛先が正せたからだったのだろう。
紫露の手で壊された水結晶。
紫露の手で外された抑え。
それだって、そうしたかったからじゃない。
カールを水場へ誘い出すなんて、大昔のイシュの民が意図したはずなどないのだ。
「メレにゃがそう言うならわかったにゃ。」
思っていたような心境の変化があったのだろうか。
恐ろしくあっけらかんとした返答に、肩透かしを食らったような気持ちになった。
「ときどきメレにゃに付いてってやるにゃ。」
「そうかい。なら、濡れない道を自分で見付けな。あたしゃ、濡れたって構わないからね。」
西の空気が乾いている。
あの日から、風向きが大きく変わった。
「メレにゃ。」
「メレナ。」
「名付けたのはあたしにゃ。だからメレにゃでい~にゃ。」
「気に入りが強いね、あんたは。」
カールは胸を張る。
あたしは肩をすくめて笑ってみせる。
「メレにゃ。」
「メレナ。」
「にゃ。」
折り合いは、たいていこんなふうに付く。
名はどっちでも、歩みを揃えられればいい。
◆
その後、点検作業を行う橙を見付けては、同じように事情聴取をしていった。
多くは水路と外壁内部の最下層を点検しており、例外は西側四階に位置する水源の間だけであった。
「だって、落ちたら、危ないじゃん。落ちたら、死ぬよ?」
オウルに至っては、平気で何度も穴から飛び降りていながら、落下を危惧する。
まあ、怪しいったって何でも陰謀と繋がるわけじゃないってこったね。
うまく尻尾を隠しているだけかもしれないけどね。




