水は低きに流る
翌朝、命令は下りなかった。あり得ないことだった。
誰も、それを不満に思わなかった。
水で押し流された広場は、ところどころ石畳がえぐられ、泥と折れた木と、少しの亡骸が残されていた。
ここに水を流した。
この場所に、真新しい台を立てた。
捕らえた聖女たちを吊るし、外壁の外側の民衆を集め、俺たちは、それを見上げて石を投げた。
昨日の出来事が、頭の中をぐるぐると回っていた。
冷たい風が抜けたころ、誰かが立ち上がった。
何も言わず、足元に転がっている木片を拾い上げ、少し離れたところへ積む。
別の誰かが、それを見て石をどかした。
動きはゆっくりだったが、同じことを始める者が、少しずつ増えていく。
広場の真ん中に、台が残っていた。
昨日据えたばかりの、削りたての板の匂いがまだ残っている。
「これも、片付けちまおう。」
台の縁に手を掛けた奴がいた。
すぐ近くから、短く「やめろ。」という声が飛ぶ。
「それは残しておかなきゃダメだ。」
誰の声だったのか、振り向く前に分からなくなった。
ただ、その一言に逆らう気にはなれなかった。
周りの何人かも、口をつぐんだまま、小さく頷いていた。
「……そうだ。残しておかなきゃ、ダメだ。」
台に掛けられていた手が離れる。
誰も動かさない。誰ももう触れない。
真新しい台だけが、広場の中心に取り残されていた。
◆
広場の端では、人だかりができていた。
イシュの民が一人、何かを庇うような格好で息絶えている。
その姿は、見覚えがあった。
誤って死なせてしまい、うろたえたイシュの民が、他の兵に後ろから槍で刺された。
死ぬことを悟ったそいつは、既に死んでしまった兵を、これ以上壊してしまわないように、最期の力で手をついたのだ。
俺は、息を止めて見ていた。
そいつは、死んだ兵の上に覆いかぶさるように、そのまま動かなくなった。
槍の柄が墓標のように背中から突き出ていた。
長い槍の先を押し返すようにして、抜き取る影が現れた。
馬の獣人だった。
血にまみれた槍を苦労して抜き、大事そうに抱えてその場から離れていった。
たてがみを引かれるように何度も振り返る姿と、去り際の背中だけが、妙に頭に残っている。
そのときと同じ姿勢のまま冷たくなった亡骸。
胸の周りには血の跡が広がり、あの槍もない。
反乱軍の死者はこの一人だけだった。
俺たちは、どれだけのイシュの民を流したのか。
誰かが膝をつき、そのまま両手を地面についた。
近くの者は、それに続く。
息絶えたイシュの民を模したような姿勢をとる者たちを先頭に、周りの者が立ったまま次々に頭を垂れた。
浮かぶは後悔の泥濘。
ひとしきり沈黙が続いたあと、イシュの民の亡骸は、軍の担架に乗せられた。
どこへ運ぶのか口にしないまま、担架の列はゆっくりと孤児院跡を離れていった。
◆
やがて、家に戻っていた者が、桶を抱えて戻ってきた。
そのあとを追うように、いくつもの桶や、鋤簾などの道具が運び込まれる。
誰に命じられたわけでもなく、足元の泥を洗い流し始めた。
桶の水が尽きるたびに、また誰かが水路に下りてゆく。
孤児院の方に大きく口を開けたような、過剰な護岸の小川へと。
地面は少しずつ、その下に隠れていた色を取り戻していった。
血と泥が混ざった薄い茶色の筋が、坂を下って流れ込んでいく。
次の誰かが桶を持ち、同じように水を撒いた。
敵を流せ、という号令で流れた水が、今は自分たちの足元を洗っている。
水は、こうやって使うんだ――
そう思っている顔がいくつもあった。
◆
「ここに、孤児院があったんだよな。」
途中で、誰かがぽつりと言った。
元は出入り口があった場所を見ながらの一言だった。
「俺は、ここを直す。」
今度の声は、少し強かった。
誰かがそう言い、別の誰かがすぐに応じる。
「そうだな。」
俺は何も言わず、広場の真ん中の真新しい台と、その向こうを眺めていた。
足は、まだその場から動かなかった。
◆
ふと外壁の方を見る。
巨大な岩が、ゆっくり壁を登り始めようとしていた。
一瞬、見間違いかと思い、目を細めた。
岩の下に狐のような影が見える。
「……イシスだ。」
誰かが、小さくつぶやいた。
模擬戦で何度も叩きのめされた相手の名だ。
近衛軍、橙、紫露の率いし者たち。
岩は途中で止まり、ぐらりと揺れて落ちた。
しばらくすると、同じ岩が、また壁を登り始めようとする。
「オウルだな。」
別の声が応じた。
外壁に穿たれた穴の真下には、使われていた一枚岩が割れずに残っていた。
橙の八人は、それを元の場所へ戻そうとしているようだった。
入れ替わりながら持ち上げて、持ち上げては落ちて、交代しながら挑戦していた。
外壁へ向かう者がいた。
その数は少しずつ増え、俺も、流れにつられるように歩き出していた。
兵舎の方角から、肩に綱を担いだ兵も向かっていた。
軍馬を繋ぐためなどに使っていた、見覚えのある綱だった。
俺たちの間を抜けて走っていく兵は、まだ鎧を着けたままで、まるで戦いの苦さを、まだ降ろせないように見えた。
俺が丁度、そんな心境だった。
橙たちは、大いに盛り上がっていた。
次は誰がやる、僕の方が高く上がった、さっきは僕の勝ち、上まで行けないなら同じだ、やんややんや。
特徴的な橙色の、お揃いの鎧姿ではなく、どこかきらびやかに見える作業用の衣装を着ていた。
戦いとも言えぬ虐殺で同胞を失った苦さは、俺たちなんかとは比べ物にならないはずなのに。
遠くからでも、顔立ちがはっきり分かる。
どいつも瞼や目の縁に都合よく目立つ色が入っているせいで、目鼻立ちが妙にくっきりして見えた。
訓練のときに気付いた。
あれは粧しではなく、犬猫でいう模様なのだと。
綱を担いできた兵たちが、橙の元へ走る。
人ひとりが担げる程度の綱数本では、とても足りない。
それでも、今あるものを渡し、岩に巻き付けていく。
◆
「せーの、そりゃ。」
ようやく決まった掛け声に合わせ、八人が一斉に綱を引いた。
不格好な連携で、それでも岩が少しずつ持ち上がる。
水源の間にぽっかり開けられた穴へ、ひと息ずつ押し上げられていく。
どうにか持ち上げるには成功した。
だが、境目は大きく欠けたままだった。
これでは固定ができない。
水源の間にごろりと寝かせ、八人は次々飛び降りる。
「……なあ。何が要る?」
橙の一人が、こちらを振り向いた。
答えは短かった。
「石かな。」
そう言い残し、次の目的を定めたように迷いなく、その場にオウルだけを残して散っていった。
その一言で、次の流れが決まった。
誰かが石切場の名を口にし、誰かが駆け出した。
俺もまた、その背中につられて歩き出していた。
◆
外壁の街から少し離れた丘の斜面。
山肌を削ったその場所には、すでに何本も割れ目が走っていた。
イシュの民が少数で行なっていた作業を、人間だけで取り組む。
それは二度目だった。
一度目は、護岸工事に見せかけた作戦準備だ。
作戦が漏れることを警戒し、イシュの民を現場から追い出した。
同じ山肌、同じ亀裂に、同じようにくさびを打ち込む。
ハンマーを振るう腕の角度も、掛け声も、前と変わらない。
イシュの民が一人で軽々と運び出していった大きさの石を、俺たちは四人がかりで押し出す。
綱を回す手順も、てこの使い方も、自分たちなりの工夫がある。
それでも、日の高いうちに動かせる石の数は、ずっと少なかった。
◆
大きな塊が一つ運び込まれるたびに、オウルが大げさに喜ぶ。
白い歯を見せて満面の笑みを浮かべていた。
こんな顔で石を見たことは一度もなかった。
あのとき、俺たちの顔は、こんな風ではなかった。
同じような笑顔を作ろうとしても、頬が引きつって笑えない。
鼻をすする音が響く。
涙が顎を伝って落ちていく。
泣きながら作業する者は少なくなかった。
以前と同じ作業だというのに、沸き上がる感情のあまりの違いに、誰もがとまどっていた。




