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水は低きに流る

 翌朝、命令は下りなかった。あり得ないことだった。

 誰も、それを不満に思わなかった。


 水で押し流された広場は、ところどころ石畳がえぐられ、泥と折れた木と、少しの亡骸が残されていた。


 ここに水を流した。

 この場所に、真新しい台を立てた。

 捕らえた聖女たちを吊るし、外壁の外側の民衆を集め、俺たちは、それを見上げて石を投げた。

 昨日の出来事が、頭の中をぐるぐると回っていた。


 冷たい風が抜けたころ、誰かが立ち上がった。

 何も言わず、足元に転がっている木片を拾い上げ、少し離れたところへ積む。

 別の誰かが、それを見て石をどかした。

 動きはゆっくりだったが、同じことを始める者が、少しずつ増えていく。


 広場の真ん中に、台が残っていた。

 昨日据えたばかりの、削りたての板の匂いがまだ残っている。


 「これも、片付けちまおう。」


 台の縁に手を掛けた奴がいた。

 すぐ近くから、短く「やめろ。」という声が飛ぶ。


 「それは残しておかなきゃダメだ。」


 誰の声だったのか、振り向く前に分からなくなった。

 ただ、その一言に逆らう気にはなれなかった。

 周りの何人かも、口をつぐんだまま、小さく頷いていた。


 「……そうだ。残しておかなきゃ、ダメだ。」


 台に掛けられていた手が離れる。

 誰も動かさない。誰ももう触れない。

 真新しい台だけが、広場の中心に取り残されていた。



 広場の端では、人だかりができていた。

 イシュの民が一人、何かを庇うような格好で息絶えている。


 その姿は、見覚えがあった。


 誤って死なせてしまい、うろたえたイシュの民が、他の兵に後ろから槍で刺された。

 死ぬことを悟ったそいつは、既に死んでしまった兵を、これ以上壊してしまわないように、最期の力で手をついたのだ。

 俺は、息を止めて見ていた。

 そいつは、死んだ兵の上に覆いかぶさるように、そのまま動かなくなった。

 槍の柄が墓標のように背中から突き出ていた。


 長い槍の先を押し返すようにして、抜き取る影が現れた。

 馬の獣人だった。

 血にまみれた槍を苦労して抜き、大事そうに抱えてその場から離れていった。

 たてがみ(うしろがみ)を引かれるように何度も振り返る姿と、去り際の背中だけが、妙に頭に残っている。


 そのときと同じ姿勢のまま冷たくなった亡骸。

 胸の周りには血の跡が広がり、あの槍もない。


 反乱軍の死者はこの一人だけだった。

 俺たちは、どれだけのイシュの民を流したのか。


 誰かが膝をつき、そのまま両手を地面についた。

 近くの者は、それに続く。

 息絶えたイシュの民を模したような姿勢をとる者たちを先頭に、周りの者が立ったまま次々に頭を垂れた。

 浮かぶは後悔の泥濘。

 ひとしきり沈黙が続いたあと、イシュの民の亡骸は、軍の担架に乗せられた。

 

 どこへ運ぶのか口にしないまま、担架の列はゆっくりと孤児院跡を離れていった。



 やがて、家に戻っていた者が、桶を抱えて戻ってきた。

 そのあとを追うように、いくつもの桶や、鋤簾(じょれん)などの道具が運び込まれる。

 誰に命じられたわけでもなく、足元の泥を洗い流し始めた。


 桶の水が尽きるたびに、また誰かが水路に下りてゆく。

 孤児院の方に大きく口を開けたような、過剰な護岸の小川へと。

 地面は少しずつ、その下に隠れていた色を取り戻していった。

 血と泥が混ざった薄い茶色の筋が、坂を下って流れ込んでいく。

 次の誰かが桶を持ち、同じように水を撒いた。


 敵を流せ、という号令で流れた水が、今は自分たちの足元を洗っている。


 水は、こうやって使うんだ――


 そう思っている顔がいくつもあった。



 「ここに、孤児院があったんだよな。」


 途中で、誰かがぽつりと言った。

 元は出入り口があった場所を見ながらの一言だった。


 「俺は、ここを直す。」


 今度の声は、少し強かった。

 誰かがそう言い、別の誰かがすぐに応じる。


 「そうだな。」


 俺は何も言わず、広場の真ん中の真新しい台と、その向こうを眺めていた。

 足は、まだその場から動かなかった。



 ふと外壁の方を見る。

 巨大な岩が、ゆっくり壁を登り始めようとしていた。


 一瞬、見間違いかと思い、目を細めた。

 岩の下に狐のような影が見える。


 「……イシスだ。」


 誰かが、小さくつぶやいた。

 模擬戦で何度も叩きのめされた相手の名だ。

 近衛軍、橙、紫露の率いし者たち。


 岩は途中で止まり、ぐらりと揺れて落ちた。

 しばらくすると、同じ岩が、また壁を登り始めようとする。


 「オウルだな。」


 別の声が応じた。

 外壁に穿たれた穴の真下には、使われていた一枚岩が割れずに残っていた。

 橙の八人は、それを元の場所へ戻そうとしているようだった。

 入れ替わりながら持ち上げて、持ち上げては落ちて、交代しながら挑戦していた。


 外壁へ向かう者がいた。

 その数は少しずつ増え、俺も、流れにつられるように歩き出していた。


 兵舎の方角から、肩に綱を担いだ兵も向かっていた。

 軍馬を繋ぐためなどに使っていた、見覚えのある綱だった。


 俺たちの間を抜けて走っていく兵は、まだ鎧を着けたままで、まるで戦いの苦さを、まだ降ろせないように見えた。

 俺が丁度、そんな心境だった。


 橙たちは、大いに盛り上がっていた。

 次は誰がやる、僕の方が高く上がった、さっきは僕の勝ち、上まで行けないなら同じだ、やんややんや。

 特徴的な橙色の、お揃いの鎧姿ではなく、どこかきらびやかに見える作業用の衣装を着ていた。

 戦いとも言えぬ虐殺で同胞を失った苦さは、俺たちなんかとは比べ物にならないはずなのに。


 遠くからでも、顔立ちがはっきり分かる。

 どいつも瞼や目の縁に都合よく目立つ色が入っているせいで、目鼻立ちが妙にくっきりして見えた。

 訓練のときに気付いた。

 あれは(めか)しではなく、犬猫でいう模様なのだと。


 綱を担いできた兵たちが、橙の元へ走る。

 人ひとりが担げる程度の綱数本では、とても足りない。

 それでも、今あるものを渡し、岩に巻き付けていく。



 「せーの、そりゃ。」


 ようやく決まった掛け声に合わせ、八人が一斉に綱を引いた。

 不格好な連携で、それでも岩が少しずつ持ち上がる。

 水源の間にぽっかり開けられた穴へ、ひと息ずつ押し上げられていく。


 どうにか持ち上げるには成功した。

 だが、境目は大きく欠けたままだった。

 これでは固定ができない。

 水源の間にごろりと寝かせ、八人は次々飛び降りる。


 「……なあ。何が要る?」


 橙の一人が、こちらを振り向いた。

 答えは短かった。


 「石かな。」


 そう言い残し、次の目的を定めたように迷いなく、その場にオウルだけを残して散っていった。

 その一言で、次の流れが決まった。

 誰かが石切場の名を口にし、誰かが駆け出した。

 俺もまた、その背中につられて歩き出していた。



 外壁の街から少し離れた丘の斜面。

 山肌を削ったその場所には、すでに何本も割れ目が走っていた。


 イシュの民が少数で行なっていた作業を、人間だけで取り組む。


 それは二度目だった。

 一度目は、護岸工事に見せかけた作戦準備だ。

 作戦が漏れることを警戒し、イシュの民を現場から追い出した。


 同じ山肌、同じ亀裂に、同じようにくさびを打ち込む。

 ハンマーを振るう腕の角度も、掛け声も、前と変わらない。

 イシュの民が一人で軽々と運び出していった大きさの石を、俺たちは四人がかりで押し出す。

 綱を回す手順も、てこの使い方も、自分たちなりの工夫がある。


 それでも、日の高いうちに動かせる石の数は、ずっと少なかった。



 大きな塊が一つ運び込まれるたびに、オウルが大げさに喜ぶ。

 白い歯を見せて満面の笑みを浮かべていた。

 こんな顔で石を見たことは一度もなかった。

 あのとき、俺たちの顔は、こんな風ではなかった。

 同じような笑顔を作ろうとしても、頬が引きつって笑えない。


 鼻をすする音が響く。

 涙が顎を伝って落ちていく。

 泣きながら作業する者は少なくなかった。


 以前と同じ作業だというのに、沸き上がる感情のあまりの違いに、誰もがとまどっていた。

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