教官の餞別
出立の日。
門へ向かう道は、何度も行き来した訓練場への道と同じ石畳だったのに、歩くたびに足の裏の感触が違って感じられた。
門の影のところに、人の気配がある。
見なくても分かった。教官だ。
振り返らずに通り過ぎようとして、あたしは耳だけそちらに向ける。
石壁にもたれかかって腕を組む衣擦れの音が、風に紛れて聞こえてきた。
「……怒りを道具にする怖さ、なんてな。」
誰にも聞かせるつもりのない、低い独り言。
それでも、あたしの耳には、はっきり届いてしまう。
石畳に落ちる靴音が、少しだけ止まる。
教官が目を閉じている姿が、見なくても目に浮かんだ。
「本当は、とっくに知ってなきゃいけなかったのは、こっちの方だ。」
知ってるはずだろ。
「一人くらい、自分の怒り方を自分で選べる奴を、戦場の外に逃がしたって、罰は当たらんさ。」
見たら分かるだろ。
「お前みたいな奴まで矢に変えてたら、いよいよ帝国は底が抜ける。」
あたしが兎だってこと。
「聞こえてるよ!教官!」
大声で、後ろを振り向いて叫んだ。
「怒りの使い方、ちゃんと選べる兎になってくるからさ!」
しんみりしっぱなしの別れより、あたしらしいや。
◆
ラヴィの怪我も、長旅に耐えられるくらいには癒えた。
荷物は軽く、足取りも意外と軽かった。
街道が城壁の影から外れ、開けた平野に出たところで、背後から荒い息遣いが聞こえた。
「おい、待て。待ってくれよ。」
振り返ると、埃まみれのマント姿がひとつ、こちらへ駆けてくる。
ラヴィが耳をぴんと立てた。
近づいてきた少女は、腰を折り、膝に手をついて息を整えた。
「見ろ。あんたの元上官からの命令書だ。追跡命令だ。」
胸元から取り出した紙を、高々と掲げて見せる。
帝国の印章が、赤く押されていた。
「で、あなたがその追跡者ってことかしら。ジャンヌ。」
私が問うと、少女はにやりと歯を見せた。
「そうだ。だからどこまでも付いていってやる。」
「捕まえないでいいのかよ。」
ラヴィが目を細める。
問いは半分冗談めかしていたが、半分は本気だ。
「さあね。」
ジャンヌは紙をひらひら振って見せると、あっさり言った。
「あたしは字が読めねぇからさ。ただ行先を教えてくれた詰所のおっさんは、追跡しろとしか言わなかった。」
「ジャンヌと教官の関係が分かんないんだけど。」
ラヴィが首をかしげる。
「あたしは勇者様だからね。」
ジャンヌは肩をすくめた。
「まあ、勇者って名の監視さ。その監視から逃がしてくれたってのは、あたしでも分かる。」
教官の顔が脳裏をよぎる。
門の陰で呟いたあの言葉を、ラヴィもきっと思い出している。
「ふうん。じゃあ別に付いて来なくてもいいんじゃん。」
ラヴィがあっけらかんと言う。
「てか、あたし追われてんの?なんで?」
「なるほど、ようやく繋がったわ。」
私は小さく息を吐いた。
「私たちのことが、魔王誕生のきっかけだったのよ。」
帝都で聞いたあの神話。
王国の聖女が堕落し、ここで魔王となった——などという話。
「あー。帝国のやりそうなことだね。」
ラヴィは肩を竦める。
「は?何のことだよ。意味がわかんねーんだけど。」
ジャンヌが不満そうに眉をひそめる。
「あなたは分からなくてもいいわ。」
あまりにも理不尽な話だからこそ、詳しく説明する気になれなかった。
「そうかよ。」
ジャンヌはふいと顔を逸らし、それでも一歩こちらに近づいた。
「でもあたしはあんたらに付いて行くからな。あたしはあんたらを描くって決めたんだ。」
その目は、妙に真っ直ぐだった。
「だってさ。どうする、リオナ。」
ラヴィがこちらを見る。
耳は面倒くさそうに揺れているが、目は少し楽しそうだ。
「治るまでと思ってたけど、ずっとこの速さになるわね。」
ジャンヌを加えた三人旅。
足並みも、きっと会話も騒がしくなるに違いない。
「まあ、急ぐ旅でもないし、いいか。」
ラヴィがあっさり言う。
「たった今、急ぐ理由ができたかもしれないのよ。」
帝国が作った魔王の神話。
それが、ガン・イシュを穿つ楔になろうとしている。
「まあね。」
ラヴィは空を見上げて笑った。
「じゃあ辺境伯領に直接向かうことにしよっか。」
帝都から伸びる街道は、いくつもの分かれ道を持っている。
その中のひとつ、元来たリオナの故郷へと続く道へと、三人分の影がゆっくりと向きを変えた。




