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この手に

 表の聖堂では、まだ聖歌の余韻が石壁に張り付いていた。

 ジャンヌが通されたのは、その裏手の、薄暗い回廊だった。


 聖職者の衣の影が消えると、代わりに粗い布の制服を着た役人たちが現れる。


「お勤め、ご苦労さん。」


 ひとりが、指先でつまむように、1枚の金貨をジャンヌの掌に落とした。


「おとなしく言うこと聞いてりゃまた、国が取り立ててくれるってよ。」


 声の中に、薄く混じった嫌悪を、ジャンヌの耳は聞き逃さない。


 聖水の匂いの代わりに、汗と墨の匂いが鼻を刺した。


「……ふうん。」


 ジャンヌは硬貨を握り込み、掌の中でひと揺すりする。

 重さの割に、そこに祝福の温度はない。


 役人はそれ以上、何も言わない。

 肩をすくめるように顎を引き、裏口の方を指先で示す。


「終わりだ。表から出る顔じゃねえからな。」


 軽く背中を押される形で、ジャンヌは外に出された。


 扉が閉まる音が、思ったより冷たく響く。


 硬貨を握り締めたまま、ジャンヌはしばらく立ち尽くした。

 胸の奥に浮かんだ言葉は、多すぎて、どれも喉を通らない。


 代わりに、無言でポケットを開け、握っていた硬貨を放り込む。


 チャリン。


 金属どうしがぶつかる、澄んだ音がした。

 酒場のマスターからもらった稼ぎが、1枚、すでにポケットの底に沈んでいる。

 その上に今の硬貨が落ちて、いつもより一段高い音を立てたのだ。


 普段なら、布が擦れるだけで、こんなはっきりした音はしない。



「その机、弁償しろよ。」


 描き上がったばかりの絵の前で、マスターが腕を組んだ。


 丸い脇机の天板いっぱいに、恐ろしくも美しい女の顔。

 その横に、耳の長い兎の獣人。

 ジャンヌは指に残る木の感触を、まだ覚えている。


「さんざん煽って絵を描くの止めなかったくせにさ。」

「煽ってねえよ。客が喜ぶもん描かせただけだ。」


 マスターは鼻で笑うと、机を指先でこんこんと叩いた。


「絵を譲ってくれるってんなら、弁償代差し引いてこんだけ出すぜ。」


 マスターは、腰の袋から穴の開いた金貨を1枚取り出し、カウンターにぱちんと置いた。

 

「……そんなに、出すのかよ。」

「出すともよ。こいつぁここで一生、客を連れて来る看板だ。」


 マスターは、机の天板だけを外し、店のよく見える位置の壁に立て掛けた。



 その日も、ジャンヌの足は自然と馴染みの酒場に向いた。

 ちょっとした稼ぎがあった日、向かうのはいつもあそこだった。

 今日は、ちょっとした何てもんじゃなかったが。

 もやもやした気持ちだけで、そこへ向かう理由としては十分だった。


 扉を押し開ける前から、中のざわめきが聞こえてくる。


「でも、良い絵だよな。」

「よう、怒れる兎、美人に描いてもらって良かったじゃねえか。」

「バカ言え、お前の目は節穴かよ。」

「そうだそうだ、実物も美人だろうが。」


 中は、あの日よりも賑わっていた。

 壁に掛けられた机の天板の前には、客がたかっている。


 その絵の下の席には、あの二人がいた。

 魔王として描いた女と、その隣の怒れる兎。


 ジャンヌが入口の板戸を押し開けた瞬間、奥のカウンターから声が飛んだ。


「こいつぁいい。役者が全員揃ったじゃねえか。」


 マスターが顎で、絵の真下の席を指す。


「ほれ、ジャンヌ、おめえの席はそこだ。」


 店中の視線が、一瞬、ジャンヌに集まる。

 冷やかしも好奇も混ざった、いつもの目だ。


「そちらさんに言うべきことがあんだろ。ちゃんと言えたら一杯サービスしてやる。」


 魔王と怒れる兎がいる。

 自分の描いた顔と、同じ顔が、そこに並んで座っている。


 ジャンヌは舌の裏に溜まった言葉を噛み潰し、短く吐き出した。


「悪かったよ。」


 本当は山ほど言いたいことがある。

 けれど、口から出てきたのは、それだけだった。


 懲り懲りだった。勝手に祀り上げられ、舞台に上げられること。

 表向きは華やかな勇者様で、裏ではあれだ。


「へいへい、ジャンヌ。本当の被害者は俺の方だぜ?分かってんのか?」


 カウンター近くの男が絡んでくる。

 前にあたしにすられたことがある男だ。


「あんたも、悪かったよ。」


 ジャンヌが肩をすくめると、男は笑った。


「違うだろ。言うべきことは謝罪じゃねえ。」


 男は顎をしゃくって、絵の下の席を示した。


「見ろよ。お前が笑顔にしてんだぜ。」


 男どもが真っ赤な顔で肩を組み、リオナとラヴィへ向かう花道を作る。

 酒と汗の匂いの間を縫って、ジャンヌは一歩、二人に歩み寄った。


 近くで見ると、絵よりもずっと人間らしい顔をしている。

 怖くて、美しくて、でもちゃんと笑う顔だ。


「ありがとな。ってのも変かもしれないけどさ。」


 自分の声が、少し震えているのを自覚しながら続ける。


「あたし、絵を描いてみるよ。」


 何にでも怒って、何でも盗んで、何でも笑い飛ばしてきた手で。

 今度は、ちゃんと残せるものを描いてみたいと、初めて思った。

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