この手に
表の聖堂では、まだ聖歌の余韻が石壁に張り付いていた。
ジャンヌが通されたのは、その裏手の、薄暗い回廊だった。
聖職者の衣の影が消えると、代わりに粗い布の制服を着た役人たちが現れる。
「お勤め、ご苦労さん。」
ひとりが、指先でつまむように、1枚の金貨をジャンヌの掌に落とした。
「おとなしく言うこと聞いてりゃまた、国が取り立ててくれるってよ。」
声の中に、薄く混じった嫌悪を、ジャンヌの耳は聞き逃さない。
聖水の匂いの代わりに、汗と墨の匂いが鼻を刺した。
「……ふうん。」
ジャンヌは硬貨を握り込み、掌の中でひと揺すりする。
重さの割に、そこに祝福の温度はない。
役人はそれ以上、何も言わない。
肩をすくめるように顎を引き、裏口の方を指先で示す。
「終わりだ。表から出る顔じゃねえからな。」
軽く背中を押される形で、ジャンヌは外に出された。
扉が閉まる音が、思ったより冷たく響く。
硬貨を握り締めたまま、ジャンヌはしばらく立ち尽くした。
胸の奥に浮かんだ言葉は、多すぎて、どれも喉を通らない。
代わりに、無言でポケットを開け、握っていた硬貨を放り込む。
チャリン。
金属どうしがぶつかる、澄んだ音がした。
酒場のマスターからもらった稼ぎが、1枚、すでにポケットの底に沈んでいる。
その上に今の硬貨が落ちて、いつもより一段高い音を立てたのだ。
普段なら、布が擦れるだけで、こんなはっきりした音はしない。
◆
「その机、弁償しろよ。」
描き上がったばかりの絵の前で、マスターが腕を組んだ。
丸い脇机の天板いっぱいに、恐ろしくも美しい女の顔。
その横に、耳の長い兎の獣人。
ジャンヌは指に残る木の感触を、まだ覚えている。
「さんざん煽って絵を描くの止めなかったくせにさ。」
「煽ってねえよ。客が喜ぶもん描かせただけだ。」
マスターは鼻で笑うと、机を指先でこんこんと叩いた。
「絵を譲ってくれるってんなら、弁償代差し引いてこんだけ出すぜ。」
マスターは、腰の袋から穴の開いた金貨を1枚取り出し、カウンターにぱちんと置いた。
「……そんなに、出すのかよ。」
「出すともよ。こいつぁここで一生、客を連れて来る看板だ。」
マスターは、机の天板だけを外し、店のよく見える位置の壁に立て掛けた。
◆
その日も、ジャンヌの足は自然と馴染みの酒場に向いた。
ちょっとした稼ぎがあった日、向かうのはいつもあそこだった。
今日は、ちょっとした何てもんじゃなかったが。
もやもやした気持ちだけで、そこへ向かう理由としては十分だった。
扉を押し開ける前から、中のざわめきが聞こえてくる。
「でも、良い絵だよな。」
「よう、怒れる兎、美人に描いてもらって良かったじゃねえか。」
「バカ言え、お前の目は節穴かよ。」
「そうだそうだ、実物も美人だろうが。」
中は、あの日よりも賑わっていた。
壁に掛けられた机の天板の前には、客がたかっている。
その絵の下の席には、あの二人がいた。
魔王として描いた女と、その隣の怒れる兎。
ジャンヌが入口の板戸を押し開けた瞬間、奥のカウンターから声が飛んだ。
「こいつぁいい。役者が全員揃ったじゃねえか。」
マスターが顎で、絵の真下の席を指す。
「ほれ、ジャンヌ、おめえの席はそこだ。」
店中の視線が、一瞬、ジャンヌに集まる。
冷やかしも好奇も混ざった、いつもの目だ。
「そちらさんに言うべきことがあんだろ。ちゃんと言えたら一杯サービスしてやる。」
魔王と怒れる兎がいる。
自分の描いた顔と、同じ顔が、そこに並んで座っている。
ジャンヌは舌の裏に溜まった言葉を噛み潰し、短く吐き出した。
「悪かったよ。」
本当は山ほど言いたいことがある。
けれど、口から出てきたのは、それだけだった。
懲り懲りだった。勝手に祀り上げられ、舞台に上げられること。
表向きは華やかな勇者様で、裏ではあれだ。
「へいへい、ジャンヌ。本当の被害者は俺の方だぜ?分かってんのか?」
カウンター近くの男が絡んでくる。
前にあたしにすられたことがある男だ。
「あんたも、悪かったよ。」
ジャンヌが肩をすくめると、男は笑った。
「違うだろ。言うべきことは謝罪じゃねえ。」
男は顎をしゃくって、絵の下の席を示した。
「見ろよ。お前が笑顔にしてんだぜ。」
男どもが真っ赤な顔で肩を組み、リオナとラヴィへ向かう花道を作る。
酒と汗の匂いの間を縫って、ジャンヌは一歩、二人に歩み寄った。
近くで見ると、絵よりもずっと人間らしい顔をしている。
怖くて、美しくて、でもちゃんと笑う顔だ。
「ありがとな。ってのも変かもしれないけどさ。」
自分の声が、少し震えているのを自覚しながら続ける。
「あたし、絵を描いてみるよ。」
何にでも怒って、何でも盗んで、何でも笑い飛ばしてきた手で。
今度は、ちゃんと残せるものを描いてみたいと、初めて思った。




