魔王降臨
その報せを最初に耳にしたのは、宿の食堂だった。
昼の片付けがひと段落し、薄いスープの匂いと、木の皿を重ねる音が混ざるころ。
通りに面した窓の外から、人が集まるざわめきが流れ込んでくる。
「おい、布告だってよ。」
誰かの声に、何人かの客が椅子を引いた。
読み上げ役の張り上げる声が、壁越しにはっきり届いてくる。
――王国の聖女が、帝都に現れて堕落した――
その一文で、背筋が微かにこわばった。
王国の聖女。
それは、王国で暮らしていた者なら、まずリルを思い浮かべる言葉だ。
けれど、次の一文が、その連想をおかしな方向へとねじ曲げてくる。
――敵は教国の聖地へと、イシュの民を率いて向かっているとの情報が入った。聖女がこの地で魔王となったのだ。――
帝都から見て、教国は西の地平よりさらに遠い。
教国が聖地と定める天空の台地は、教国から見ても更に西の果て。
この場から西の果てまで、どれほどの道のりか。
帝都で魔王になり、今は聖地へ向かっているという話には、当然、それなりの日数が折り畳まれている。
つまり、帝都で堕落したのは、とうに過去の話でなければならない。
そして、私は知っている。
聖女リルが、帝都を訪れたことがないことを。
帝都の民は、そこを疑う必要がない。
彼らにとって王国の聖女とは、遠い国の物語の登場人物であり、この都に昔、来たことがあると認識したくらいだろう。
――生まれたての魔王は勇者によって退けられたが、未だ脅威は天空の台地にあり!――
声は巧妙に、いつ、をぼかしていた。
いつ現れ、いつ堕落し、いつ退けられたのか。
どれも曖昧なまま、この地で、今はあの地に、とだけ示す。
だからこそ、帝都を物語の起点にできる。
魔王誕生の地。
勇者が最初に立ち上がった地。
最初に危機を告げた地。
王国の聖女と、教国の聖地。
他国の象徴に不穏な影を与え、帝都に光あり、とする――
それが帝国の意図なのだろう。
内向きには、帝国こそ最初に魔王に対した国だという誇りを配り、外向きには、魔王発生の第一証人として発言権を握る。
各国の信用に楔を打ち込むという意図も、見え隠れする。
ひとりの少女の吹聴と、調査報告と、商人たちの噂話。
それらを拾い集め、余計な日付と固有名を削ぎ落とし、
帝都という器に流し込んで固めたものが、今ここで布告として読み上げられている。
――こうして、ひとつの神話にまとめられていく。
◆
「こっちこっち、噂の絵だってよ。」
「魔王の顔を描いたって、あのガキがさ。」
そんな声が耳に入ってくる。
近付いてみると、店内の良く見える場所に丸い板が掲げられていた。
小さな丸卓の天板だけを外し、それに描いたのだろう。
板いっぱいに描かれているのは、一人の女の顔。
黒髪、結い方に至るまで、見慣れた形。
顎の線、目の形、睫毛の影。
見上げる角度をつけた横顔は、鏡越しに何度も見てきた顔と、嫌になるほど重なっていた。
「……私ね、これは。」
思わず口に出していた。
その隣には、白い耳をぴんと立てた兎の獣人が描かれている。
胸を張りながらもどこか落ち着かない表情まで、やけにそれらしい。
「誰が描いたの。」
「ジャンヌだよ、ジャンヌ。夜通し使われてた丸机、これだってさ。」
周りの若者たちが、楽しげに口々に言う。
「恐ろしくも美しい目をした女が、腕ひと振りで自分をねじ伏せたんだってよ。」
「魔物引き連れた魔王に違いねえってさ。ほら、横の兎がそれ。」
ラヴィが、横で小さく呻いた。
「伝え方よ……」
彼女の耳をよそに、輪の中の誰かが感嘆したように言う。
「でも、良い絵だよな。」
「よう、怒れる兎、美人に描いてもらって良かったじゃねえか。」
「バカ言え、お前の目は節穴かよ。」
「そうだそうだ、実物も美人だろうが。」
からかい半分、本気半分の声に、どっと笑いが起きた。
頬を赤くした男が肘で友人の脇腹をつつき、もう一人は板の上の絵とラヴィとを、にやにやしながら見比べている。
ラヴィは一瞬むっとした顔をしたが、すぐに口元だけで笑った。
耳を軽く揺らし、カウンターの方へ顔を向ける。
「おやじ、こっちの二人に。あたしから。」
ひらりと手を上げてそう言うと、後から反論した二人の前に指を立ててみせる。
マスターが「へいよ。」と笑い、手慣れた動きで杯を二つ、並べた。
ラヴィは腰の小袋から硬貨を出して、迷いなくカウンターに滑らせる。
小さな銀が木の上で転がり、音を立てて止まった。
妙に慣れたその動きに、離れていた間のラヴィを、少しだけ見た気がした。
「いっぺんやってみたかったんだよね、これ。」
ラヴィが椅子を寄せ、私の耳もとすれすれに顔を近付ける。
ひくひくと震える耳の根もとが、くすぐったそうに揺れた。
ぼそっと私にだけ聞こえるように耳打ちするラヴィ。
やはり、ラヴィはラヴィだった。
「いや、おれは別にお前が美人じゃねえって言ったわけじゃなくてだな。」
慌てた声が上がる。
さきほどまで威勢よく笑っていた男が、両手をぶんぶん振りながら言い訳している。
その目の前の卓だけが、三人組の中で唯一、酒の置かれていないテーブルだった。
「良かったっていうのは、描いてもらったことの方よね。だって、ずっとここに残るもの。」
私はラヴィの横顔を盗み見ながら、あえて少し真面目な声で言葉を添えた。
ラヴィの眉がぴくりと動き、頬がじわじわと赤くなっていく。
「そうそう、絵の価値って、そこだよな。こっちの美人の姉ちゃん、わかってるじゃねえか。」
最初に絵を褒め、節穴と言った男が、杯を片手に私へ親指を立てる。
むき出しの歯を見せて笑う顔は、さっきまでの軽口より、いくぶん柔らかかった。
「マスター、この方にもう一杯。私から。」
今度は私がカウンターに向き直る。
マスターが一瞬目を丸くし、それからにやりと笑った。
「おお、リオナ。男前。」
ラヴィが隣で肩を揺らす。
「確かになんだか気持ちいいわね。」
杯が私の前に置かれ、立ち上る香りが鼻をくすぐる。
さきほどまで胸の奥で重く沈んでいたものが、ほんの少し軽くなった気がした。
「ちっくしょ~、上手いことやりやがって!」
酒の来なかった男が、頭をかきむしりながら叫ぶ。
その顔は不満そうでいて、どこか楽しげだ。
ご本人登場、続くそのやり取りに、酒場は大いに盛り上がる。
笑い声、からかい、やじ。
絵の中の魔王と怒れる兎より、ずっと人間らしい喧噪が渦を巻いた。
「ようし、今から一杯ずつ、無料で飲ませてやる。魔王様と怒れる兎様に感謝しろよ、野郎ども。」
カウンターの向こうから、豪快な声でマスターが言い放つ。
分厚い腕を振り上げるその顔は、誰よりも楽しそうだ。
酒場の熱は最高潮に達したかに思えた。
「ただし、お前以外な。」
マスターが顎で示した先には、先ほどから言い訳を続けていた男がいる。
周りから「出た出た。」「日頃の行いだな。」と笑いが飛ぶ。
「そりゃないぜ~。」
情けない声を上げる男の前にだけ、空の卓。
対照的に、三人組のテーブルには、酒の注がれた杯が五つ並んだ。
二つ、三つ、そして零。数字だけ見れば不釣り合いだが、その偏りがまた、場の笑いを呼ぶ。
ラヴィは耳を揺らしながら、その光景を目を細めて眺めていた。
私も、杯を指先で転がしながら、板の上の絵をもう一度見上げる。
魔王の顔と、怒れる兎。
路地裏の一枚の絵を中心に、酒場の熱は、リオナとラヴィを中心に、夜遅くまで最高潮を更新し続けるのだった。




