矢になる前に
あたしは、リオナを置いて兵舎に入った。
訓練場では、数人のイシュの民がひと塊になり、軍用犬と鞭を持った兵に追い立てられている。
怯え切った幼いイシュの民が逃げ惑っている。
「ちっ。」
あたしは思わず舌打ちをする。
鞭打ち。
リオナが、リルのお陰で外壁の街から見なくなったと喜んだ光景だった。
外壁の街で、元軍属だったイシュの民も、多少はこのような方法を受けていたようだ。
奴隷候補たちは、見た目がきれいな者が優先的に譲られており、おそらくその経験があった者たちは、全て水に流されたことだろう。
人間に恐怖心を植え付けられた者にとって、適応保護法はその瞬間は文字通り保護だったのだ。
リルとリオナ捕縛の報が入ってから合流した者たちの中で唯一、腕などの露出部に、毛が生えない幾筋もの線が浮かぶ白馬の獣人がいた。
元軍属か、それとも所有者によるものか。
寡黙で、同族からも少しだけ距離を置くヤツだった。
それでもあそこに加わったということは、リルやリオナによって救われたと感じていた者なのだろう。
明らかに兵ではない者が、なまくらを持たされているのが見えた。
痩せた腕。握り慣れていない指先。
刃のついていない剣を、情けないくらいぎこちなく構えている。
尻尾を巻いた若い獣人が迫っていた。
犬が吠えるたびに、肩がびくりと跳ねる。
側に立つ兵が、なまくらの男の背を小突いた。
「ほら、来るぞ!もっと怒鳴れ、やり返すつもりで構えろ!」
やり返すつもりで――か。
男は声にならない声を上げ、振り下ろした。
鈍い金属音がして、イシュの民の足元で砂が跳ねる。
当たってはいない。
当たっていないのに、イシュの民は崩れるように尻もちをついた。
犬が牙を見せる。
兵が笑う。
なまくらを持った男も、安堵と興奮が入り混じったような顔で笑った。
胸の奥が、ぞわりと逆立つ。
――怒りの練習、ね。
今回、あの人間は入隊となるのだろう。
でもあたしは、別の結末も知っていた。
あそこで、人間が空振りしていなかったら。
あそこで、イシュの民が尻もちをつかなかったら。
後ろから激しく追い立てられ、いつ鞭が飛んでくるか分からない。
痛みが来るのを恐れて身構えているところへ、突然現れた者から痛みを与えられる。
痛みに敏感になっている時、たとえ腰の入っていない一撃であっても、命中するとどうなるか。
軍の、別の目論見が成功することになる。
混乱して暴走したイシュの民が引き起こす結果——
軍としては、どちらでも構わないのだ。
どちらに転んでも、戦場には使える駒が増えるだけ。
あたしは奥歯を噛み締め、頭を振る。
この光景も、今日で見納めだ。
リオナには見せられない。
訓練場から離れると、鞭の音と犬の吠え声が、だんだん遠くなっていった。
兵舎の廊下は、やけに静かだ。
壁に掛かった槍と盾が、薄暗い灯りに鈍く光っている。
深呼吸をひとつ。
胸の包帯が、わずかに軋んだ。
扉板に、こぶしを二度、軽く叩く。
「ラヴィだ。」
「入れ。」
中から、短く返事が返ってきた。
いつも訓練で聞いていた声だ。
あたしは取っ手を握り、ゆっくりと扉を開けた。
◆
教官が机の上の紙束をめくるのを、あたしは真正面から眺めていた。
分厚い束が一枚ずつ薄くなっていって、最後に残った一枚を、教官は指先で丁寧にそろえる。
退役願い、って太い字で記された紙。その下に、兎の獣人の名がある。
もちろん、それはあたしの名前だった。
「本気か。」
低い声が、紙越しに落ちてくる。
抑えているつもりなんだろうけど、紙を押さえる指先には、明らかに力が入っていた。
「うん。さすがに、これ以上は走れないよ。」
あたしは、冗談めかして包帯の巻かれた胸を指先でとん、と叩いてみせる。
実際には、走れなくはない。でも、ここの「限界」は足じゃない。
「……戦うのが怖くなったか。」
顔を上げた教官の目は、からかい半分と、本気半分みたいな色をしていた。
「違うよ。」
あたしは少しだけ笑って、その視線をまっすぐ受け止める。
「怒りを使うのが、怖くなった。」
その一言で、教官の眉がわずかに動いた。
あたしは続ける。
「前はさ。帝国の怒りは偽物だなんて、青臭いこと考えてた。でも、反乱軍も見たし、軍も見た。」
地面に転がっていた石や、残された護岸が、ちらりと頭をよぎる。
「怒りを道具にする怖さ、やっと分かったよ。」
言い終えてから、あたしは軽く頭を下げる。
この先を決めるのは、もうあたしじゃない。
「……申請は預かる。上には通す。」
短い言葉。けれど、その奥に、教官自身の何かを飲み込む気配があった。
あたしはそれ以上、何も言わずに部屋を出る。




